Tiny garden

世界に背を向けたひと(1)

 歳を取ったせいか、月日の経つのが恐ろしく速くなった。
 気がつけばもう八月だ。毎日うんざりするほど暑いし、お盆休みに向けて加速度的に忙しくなっていく時期だし、そのくせ街中は昼夜問わず人出が多いし、俺は三十になっちゃったし、何かと恨めしいことだらけだった。
 三十って数字の重さはどうにかならないもんか。額面だけで二十代から一気に老け込んだ気がする。それでいて精神的には熟したという実感もなく、二十九のまんまで軽薄かつ適当な大人街道を歩んでいる自覚があるから始末に終えない。だらだら漫然と過ごしたって、重ねた年齢の憂鬱から逃れることなんかできやしないのに。
 もっとも、最近は憂鬱なばかりでもない。

 今、俺の隣には小坂がいる。
「暑い」
 そうぼやけば、
「暑いですね」
 すぐ返事をくれるくらい近くにいる。
「これクーラー効いてんのか? 壊れてるんじゃないか?」
「一応、全開にしてます」
 しかも二人きりだ。エアコンから温い風が出てくる唸るような音は邪魔だが、小坂の声はちゃんと聞こえるし、向こうにも俺の声が届いているらしい。もし手を伸ばせば間違いなく触れてしまう距離にいて、小坂の横顔もここぞとばかりにじっくりしっかり眺められて、顔だけじゃなくて八月だから薄着の季節でもあったりして、その上、他のうるさい連中の目が光っているということもない。喉を鳴らしたくなるような美味しいシチュエーションである。
 勤務中でさえなければな。
「うんざりするほど暑い」
 おまけに今日は真夏日だった。
 二人で乗り込んだ社用車はアンチエコを地で行く年代物で、そのくせエアコンの性能は自然の力に負けている。ガラス越しに直で来る太陽の光を浴びてじりじり蒸されていくシチュエーションなんて美味しいどころか一刻も早く脱却したい。いかに若くて可愛い部下と一緒だろうと、この暑さは誤魔化しきれなかった。
 そうは言っても小坂は営業の勉強中。雑用業務の合間を縫って外回りのノウハウを教えているところで、八月だろうと真夏日だろうと車に乗らないわけにはいかない。夏でさえなければもっと楽しめたのに。
 ハンカチをうちわ代わりにしてせめてもの抵抗を試れば、運転席の小坂がくすっと笑った気がした。その後慌てたような素早いタイミングで声がする。
「もしかして、主任は夏、お嫌いなんですか?」
 こうして外に出るようになって気づいたことだが、車を運転する小坂はやたらと余裕があって、会話も普通にこなす。あれだけ何かとあたふたする奴だからエンストとかサイドブレーキかけっぱとか急発進くらいはやらかすんじゃないかと思っていたのに、意外と上手かった。実は乗り慣れているのかもしれない。
 さておき、それを今聞いちゃいますかという質問があった。
「聞くタイミングが間違ってるぞ、小坂」
「へ? そ、そうでしょうか」
「そりゃお前、この車の中で聞かれたら、好きだなんて答えるわけないだろ」
「確かに……」
 納得したらしい小坂が、横顔でうんうん頷いている。
 ここに来てようやく車内に冷たい風が吹き始めた。待ちわびていた涼も到来して俺の気分もちょっと上向いて、頷いてる小坂は小動物っぽくて可愛いななんて思えるようになってきた。だがこの涼しさも目的地に着くまでの儚いもの。もうじき次の得意先だから、そこで車停めたらもうおしまいだ。用事を済ませて戻ってくる頃には座席にハンドルまで熱々の、鉄製蒸し風呂の一丁上がり。夏なんて好きになれるか。
「じゃあ、どのタイミングでお聞きしたらいいんでしょうか」
 もう一度、小坂が尋ねてきた。
「ビアガーデンで聞け。絶対に『好き』って言うから」
 即答すると向こうの反応も実に迅速に、
「それは私でも好きって答えます」
「だよな。暑気払いが必要だよ、全く」
 ビールの美味しい季節ではあるから、仕事さえなければ嫌いでもないのかもしれない。全ては仕事のせいだ。夏が暑いのも車の中が暑いのも俺が三十歳なのも――いや、それはそれで悪くなかった、事柄も多少あったんだが。
 誕生日が来なければ、ああいうこともなかったわけだし。
「飲みに行きたいな」
 仕掛けるつもりで水を向けると、小坂は途端に声を裏返らせた。
「そ、そうですね! こう暑いとさすがに」
 さすがに、何だ。
 と言うか、あからさまに思い出したってな反応のくせに無難な返し方するよな。単にボケたんならまだしも。
「ここんとこ行ってないしな」
 続けて呟けば小坂の横顔がわかりやすく緊張したから、こっちも深追いは止めとくかという気になる。運転中だしな。

 ここんとこ――具体的に言うと一ヶ月くらいか。小坂とは、飲みに行ってない。
 むしろ一ヶ月前が初めてのデートだった。その日、俺は切なくも辛い三十歳の誕生日を迎えようとしていて、でも小坂が『お祝いしたいです』なんて可愛いことを言ってきたから遠慮せずこっちから誘った。で、二人きりで飲みに行って楽しく祝ってもらった。それはもう一気にいい日になっちゃいましたとも。あの時、俺の目に小坂の姿は地獄にするする下ろされた蜘蛛の糸のように見えた。それなら俺はカンダタってことになっちゃうが、まあ、いいか。
 そんな楽しい記憶から日が経って、そろそろ次の機会があってもいい頃だと思うんだが、これがなかなか時間も取れずにいる。暑さによる能率の低下と時期的なものによる純粋な忙しさが俺をそういう気分から遠ざけてきた。
 でも、一ヶ月も開けばさすがにな。仕事では毎日顔を合わせている相手だけに、何かしらの変化、むしろ進展が欲しくなる。いよいよ本格的に手を出したくなってきた。その為にも次の機会が必要だ。何なら今度は俺が作ったっていい。霧島に聞かれたらまたうるさく言われそうだが、俺の誘いに小坂の方がのこのこついてくるんなら誰も文句は言えまい。

 外回りの時は昼飯も外で食べることが多い。
 得意先へのルート案内がてら、美味い店を紹介してやるのも上司の役目だ。そうでなくても二人で過ごすランチタイムなんて辛い夏場の営業で唯一の極楽だったりするし――それも小坂が独り立ちするまでの期間限定だから、今のうちに堪能しておかねばなるまい。
 小坂は見た目よりボリューム重視の食いしん坊だったから、今日は手近な食堂に連れて行ってやることにした。
 狭いテーブルを挟んで向き合うと、小坂は妙に恥ずかしそうにしていた。手渡した卓上メニューを俯き加減で受け取り、少し考えてから決めたようだ。
「じゃあ私は、メンチカツ定食でお願いします」
 予想通りのメニューが来た。肉にすると思ってたんだよ。
「肉か。さすがは小坂」
 つくづく犬っぽいよなあとしみじみ呟けば、当の犬、いや小坂は怪訝な顔をする。
「さすがって、どういう意味ですか?」
「若いなってことだよ」
 俺がついにやっとしてしまったせいか、また恥ずかしそうに俯かれてしまった。俺と向かい合わせでいるのが、というわけではないのが難しいところだ。お前が食いしん坊だってことはもう五月のうちからわかってるんだけどな。その割に、取り繕ったような控えめメニューを選ばない辺りはいかにもらしい。
「暑いのに食欲ないなんて言ってる奴よりは頼もしいって」
 フォローのつもりで、でも本音に近いことを言っておく。こんな時に夏バテなんてされたら仕事にも響く。新人にもたまにいる、四月五月のはりきりが今頃祟って体調崩す奴。小坂がそうならないといいんだが。
 しかし、見るからに大丈夫そうでもある。視線をやるとちょうど小坂も俺を見上げていて、目が合った途端、ものすごくびっくりした表情になった。両目を瞠って口も軽くぽかんと開けて、いやそれ驚きすぎだろって顔。
 こっちが吹き出してしまう。
「本当、面白いよな。小坂は」
「ええっ、な、何がですか」
「今の顔」
 指摘したらちょっと不満そうにしながらも、後から笑い出していた。相変わらず箸が転がってもおかしい年頃らしい。よく笑うしよく食うしよく慌てるし、ああもう可愛いってお前。

 運ばれてきたメニューを食べ始めつつ、幸せそうな顔で食べてる小坂を眺めつつ、楽しい昼飯の時間を過ごしていると――。
「主任、もうすぐ花火大会がありますね」
 不意に小坂が、勢い込んで話題を振ってきた。
 彼女の視線を追いかければ、店内の壁に貼ってあるポスターに留まっている。花火の写真をバックに記されているのは恒例の花火大会のお知らせだ。地元新聞社の主催で、協賛スポンサーが結構いっぱいついたりするでかい奴。毎年、八月っていうとやるんだよな。残り少ない夏休みの名残を惜しむような行事だ。
「ああ、もうそんな時期か」
「観に行かれたことありますか?」
「ここ八年間ずっと行ってない。この時期は忙しいしな」
 夏のイベントが雁首揃えて他人事になってから久しい。もちろん花火大会なんてずっとご縁もありません。なくてもいいし。
 だがそう聞いてくるってことは、小坂にとってはそうじゃなかったんだろうな。去年も行ったんだろうか。今年はまさか行けるとは思っちゃいないだろうが。
「花火好きなのか、小坂」
 逆に尋ねると、ものすごくいい笑顔で返事をされた。
「はい、好きです!」
 そんな顔をされると、後に続く事実を打ち明けるべきかどうか迷う。そっか、花火好きなのか……ほんの少し、惜しかったな。
 いや、俺が言わなくても誰かが言うかもしれないから、教えとくか。
「そうか。そりゃかわいそうだな」
 同情を込めて俺は言い、小坂はえ、と目を丸くしてから、
「……あ、いいんです! 今年は社会人一年目、仕事を頑張ろうと思ってますから、残業だからと言って不平不満を申し上げるつもりは!」
 大急ぎで勘違いの弁解を始めた。
 別にそこまで真面目じゃなくてもいいのに。花火大会当日も残業にはなるだろうが、それはそれで毎年、皆楽しみにしていたらしい。小坂も、もし見れたら喜んだかもしれないのにな。
「実はな」
「は、はいっ」
 小坂はまだ誤解していて、緊張した様子でしゃきっと背筋を伸ばした。訂正するよりぶっちゃける方が早いし、俺はそのまま続ける。
「うちの営業課、あそこの窓からは花火が見えたんだよ」
「窓から……ですか?」
 不思議そうな顔をされた。見えたっけ、と考え込んでいるようだ。
 少し考えれば、営業課の窓が港の方を向いているのはわかるはずだ。花火大会の打ち上げ会場が港近くの埋立地で、その対岸にある漁港がいわゆる鑑賞スポットとなっている。もちろんそんなところまで出向いたら人でごった返してて余計に暑いだろうから、例えば冷房の効いてるビルの中から見えたりしたら都合がいいんだろう。
 でも残念ながら、うちの社屋からはもう見えない。
「前までは見えたんだ」
 小坂の疑問に答えるべく、俺は続ける。
「今年の春、ちょうどいい場所に大きなビルが建ったんだよな。あれのせいで花火の見える方角が、上手い具合に遮られてる。つまり今年は見えないってことだ」
 俺みたいに、花火があんまり好きじゃなければよかったのにな。なまじ好きなら拷問だろう、あのやかましい音を聞きながら仕事するなんて。
「残念だったな、小坂。もう二年くらい早く入社してたら、仕事しながら花火見物が出来たのに」
「え……」
「今年は音だけ聞きながらの残業ってことになりそうだ」
 そう告げると、小坂はみるみるうちに萎れてしまった。よっぽど花火好きなんだろうなっていうのがわかって、かえって悪いことした気分になってしまう。そりゃ見たいなら俺だって見せたいが、建っちゃったビルを退かすなんてことはできないしな。
「そんなに落ち込むなよ」
 しゅんとしてる姿がかわいそうになったから、今更ながら慰めてみた。
 すると小坂はがばと顔を上げ、妙に焦りながら答えた。
「落ち込んでないです、大丈夫ですっ」
「そうか? ものすごくがっかりしてるように見えた」
「いえ、そんなことはないです! 学生気分ではいられませんから!」
 力一杯言い切るそぶりは本音なのか、無理しているのかよくわからなかった。その後小坂は元気よく食事を再開していたから、案外前者なのかもしれない。
 たださっきまで落胆してたようなのは多分、事実だ。なら見せてやりたかったな、今年くらいは。去年までは見たくもないのに見れてたんだから、今年も見れたらよかったのに。
「参るよな」
 言ってもしょうがないとわかっていながら、ぼやかずにはいられない。
「今年も花火、見たかったのにな」
 いや、今年こそ、と言うべきか。
 俺は花火はちっとも好きじゃない――好きだと思う機会がここ八年全くなかったから、別に見れなくても、隣にビルが建ってたってどうでもよかった。
 だが小坂は花火が好きだと言うし、もし窓からでも見せてやれたら、喜ばせてやれたのかもしれないなと思う。ちょうど今、メンチカツを美味しそうに食べてる顔くらいには、幸せそうにしてくれたのかもしれない。窓に釘づけになって目をきらきらさせてる姿が容易く想像できるから、無性に悔しくなる。
「何で今頃になって、あんなところにビルなんか建てたんだか」
 本当に、そう思う。
 小坂は俺の呟きを、小首を傾げて聞いていた。
PREV← →NEXT 目次
▲top