Tiny garden

世界に背を向けたひと(3)

 いい思い出があろうとなかろうと、花火大会の日はやってくる。
 そして花火大会があろうと、繁忙期の俺たちは仲良く残業する羽目になる。

「お弁当の注文取りまーす!」
 今日も小坂は元気そうだった。片手を上げて営業課の連中に明るく声をかけている。定時をとうに過ぎた頃、新人なりにいろいろ仕事してるのに、まだ疲れた顔一つ見せない。
「主任はどうされますか?」
 笑顔で尋ねられると、勤務中だってつられてにやけてしまう。
「俺? じゃあ焼き魚弁当。あとポテトサラダな」
「焼き魚と、サラダですね。かしこまりました」
 そして、弁当の注文を集めてはメモを取っている。これがまたちまちまと可愛い字を書くんだ。
「えっと、あと……霧島さんはいかがですか?」
「あ、俺はいいです。要らないです」
 ラップトップと向き合う霧島が顔を上げて答えると、小坂は了解です、と頷いた。その後で改めてメモに記した個数を確認し始める。
 俺は横から覗き込んで、一応ツッコミを入れておく。
「お前の分も入れるの忘れんなよ」
 小坂は案の定びくりとして、
「わ、うっかり忘れてました。ええと……」
 メモの最後尾に手早く、『唐揚げ弁当』と書き足した。
 また肉か。タフなのは肉でスタミナつけてるせいか。
「小坂、復唱しろ」
「はいっ。――のり弁当が二つ、カツ丼が一つ、焼き魚弁当が一つ、唐揚げ弁当が一つ、それにポテトサラダが四つと豚汁二つ。以上です!」
 皆への確認を終えた小坂は慣れた調子で集金も終え、
「よし、完璧だな。気をつけて行ってこい」
 俺が景気づけにと肩を叩けば、いい顔で返事をした。
「行ってきます!」
 そうしてぱたぱた飛び出していく。
 そんなに張り切ったり走ったりで息切れしないのか、こっちが心配になる。それが若いってことなんだろうか、羨ましい。
 小坂がいなくなると営業課は少し静かになる。火が消えたような、と形容するほどでもないが、こんなに華なかったっけと思いたくなるくらいには。実際男だらけなら華も何もあったもんじゃないよな。
「小坂さん、元気ですよね」
 少ししてから霧島が、俺に話しかけてきた。
「夏バテとか全然平気そうですよね。若いなあ」
「だよな。この暑い中、あんなに頑張んなくてもいいのに」
「今日なんて外、猛暑日らしかったですよ」
「ああ、どうりで……」
 俺は恨めしい思いで窓を見やる。
 もう日の暮れる時刻、隣にビルが建って空がよく見えなくても、その壁面やガラス窓を照らす西日の強さはよくわかる。消えかかっているのを見てほっとしたくなる。でも中と違って冷房のない外はまだ蒸しているだろうし、日が暮れた程度じゃ冷めもしない。
「大丈夫かな、小坂」
 今更ながら気になった。別に弁当なんて各々手の空いた時に食うもんなんだから、そんな急いで買いに行かなくてもいいのに。こんな蒸し蒸しの中で走ったりしたら熱中症なんて起こしかねないだろうに。気をつけろとは言ったものの、もっと具体的に、走るなとか言っておくべきだったか。いやいくら融通の利かない奴でも言わなきゃわかんないってこともないだろうが――。
 俺が密かにやきもきしていれば、
「きっと、いろいろ頑張っておきたい時期なんですよね」
 霧島は何やらしみじみし始めた。
「時期?」
「ほら、ちょこちょこ仕事も教えてもらって、覚えて、自分にできることが増えてくる頃ですから。そうなるとできることは全部しっかりやらなきゃ、なんて思っちゃうんですよ。むやみに張り切っちゃうものなんです」
 その口調が柔らかくて妙に優しげだったから、俺は多少なりとも驚いた。
 驚いたと言うか、微妙に引っかかったと言うか。霧島はやけに小坂の肩を持つよな、的な。
 すぐに腑にも落ちた。『お前も小坂には随分と優しいじゃねーか長谷さんに言うぞこら』って台詞が喉まで出かかった。そうか、何だかんだでこいつも女の子には甘いわけだ。この間から俺にやたらつっかかってるのももしやそれか。可愛い後輩、ってよりもむしろ可愛い女の子だから、ってとこだろ。あーあ、これだから男って奴は。
 そこで対抗意識剥き出しにするのも格好悪いから、とりあえず冷静に答えてみた。
「でもあいつ、何かと気負いすぎなんだよ。少しくらい手ぇ抜きゃいいのに」
 俺からすれば、いつぞやの挨拶みたいに『失敗もありっちゃあり』の精神でいてくれた方がいい。俺が傍にいたらフォローだってできるし、むしろ積極的にしていきたい構えだし、弱み握っちゃいたい気持ちもあるし。
「新人ってそんなもんじゃないですか。まして真面目な子ですから、小坂さんは」
 霧島はまたもわかったような風で言うと、おもむろに席を立った。ラップトップを閉じたのでいち早く休憩かな、と思い、それから不意にさっきのやり取りを思い出す。
「そう言やお前、飯どうすんの? 弁当頼んでなかったよな」
「あ……ええと、社食で食べますんで」
 誤魔化す笑みを残して、奴もまた課を出て行った。
 そして残された俺は、こんな時間には社食もやってないってことに気づいてるから、奴の笑い方と不審な態度からある推論を導き出すわけだ。
 何だこの野郎幸せ者め。お前なんか眼鏡のレンズ取れちゃえばいい。

 しかしまあ、新人だから、ってことなのかね。
 思考を小坂の件に戻せば、そんなに張り切らなくてもいいのにって思っちゃうわけだ。無論、仕事に一生懸命なのは悪いことでもないし、頑張ってる人間は普通に賞賛されるものだろう。でもそれで早々に潰れちゃ意味もない。手を抜けるところは抜く、それを覚えるのも仕事のうちだ。なのに何もかも真面目に、毎日突っ走ってて、疲れないのかと思ってしまう。
 俺の新人時代なんてあんなに頑張ってなかったのにな。それはもう、毎日手を抜いたり楽をしたりすることばかり考えてたし、新人の免罪符を有効活用してのびのびやってたような気がする。同期に安井がいて、お蔭で気楽にできたってのもある。しかし俺らの後は霧島に小坂と、実に真面目率高い気がする。人事も考えたのかな。だとしたらやばいな俺ら。
 真面目なのはいいことだ。頑張るのもいいことだ。
 でも――難しいよな。それを咎めたり諭して無理に方向転換させるのがいい上司ってわけでもないだろ。真面目な奴に『ちょっと手抜けば?』なんて言ったところで素直に聞き入れられるはずもなく。かと言ってきつく言うようなことでもなし。もっと気楽に、さりげなく勧められるネタはないもんか。たまにでいいから、頑張んなくてもいいよって教えてやれるようなネタ。
 例えば、そうだ。ご褒美をあげるとか。

 俺はもう一度窓の外を見た。
 隣のビルの壁面は青っぽい色合いに変わっていて、窓にはブラインドが下がっている。そこから蛍光灯の明かりが漏れ出して、すっかり夜らしい風景になっていた。ここから空は見えないが、他のところからならどうだろう。
 閃いた俺は、他の連中の目を盗んで据えつけの電話機に手を伸ばす。ありがたいことに一番うるさい奴が不在だった。
 内線で人事課にかける。向こうの課長殿もこの時期なら、まだ残業中のはずだ。
『――はい、人事課です』
 ラッキーなことに、一発で安井が出た。俺はいかにも仕事です的な声音を装い、
「あ、人事課長? お疲れ様です、営業の石田です」
『……え、何? 何でそんな取り繕ってるの』
 安井にはなぜか身構えられた。しょうがなく小声で反論する。
「取り繕ってるって何だよ。仕事中だろ当たり前だろ」
『いやそうだけど……あんまり真面目にされるとお前らしくなくて気持ち悪い』
「放っとけ」
『わかったそうする。で、何の用?』
 何の用か、どうしてか一瞬ためらいたくなった。でもこういうこと聞けるのはこいつくらいしかいないわけだし、結局聞いた。
「なあ、うちの屋上から花火って見えたっけ」
『は?』
「だから、花火だよ。今日あんだろ、例の大会」
『……誰と見るって?』
 奴は答えるより早く野暮な質問を返してきた。俺も正直には答えてやらない。
「いいから教えろ、大至急」
『お前、花火大嫌いじゃなかったっけ。何で急に見る気になった?』
「今はいいだろ、後で話す」
『実は結構本気なんだ? 嫌いなもの我慢してあげられるくらいには』
 何がだよ。
 この間、霧島に聞かれた時に正直に言っただろ、好きだって。実はって何だよどういう意味だよ。
 俺もいい加減焦れてきて、これならいっそ聞かない方がよかったんじゃと思い始めた。
「知らないならいい、もう自分で見てくる」
 そう告げると、安井が軽く笑うのが聞こえた。
『確か見えるよ。うちの社屋と隣、ほぼ高さ同じだから』
「……そっか。ああ、ありがとな」
『でも一応下見しといた方がいいかも。大事だろ、デートの場合は』
 別に間違ったことは言われてないにもかかわらず、その安井の物言いにはまたしてもいらっとさせられた。なぜだ。
 そう言えばさっきは霧島にもいらついてたな。何だこれ情緒不安定か。それとも暑さのせいか。めんどいからそう思うことにしとこう。

 エレベーターに飛び乗って屋上の下見を終えてから、俺は営業課のドアの前で小坂を待った。
 小坂は入れ違いにぎりぎりならないくらいのタイミングで戻ってきた。両手に弁当屋の袋を提げて、帰りはさすがによたよた歩いていた。
「お、戻ってきたな。お疲れ」
 逸る心を抑えてひとまず声をかけた俺は、その後で小坂の真っ赤になってる頬っぺたを見つけて、
「どうした小坂、顔真っ赤だぞ。弁当の重さにばてたか?」
 そんなに外暑かったか、熱中症じゃないかと内心気を揉んだ。
「い、いえ、平気です!」
 すぐに小坂が声を張り上げてみせたから、どうやら元気らしいとはわかったが。
「じゃあ外歩いてのぼせたのか。子供みたいな奴だな」
 だから、お前は張り切りすぎなんだって。
 馬鹿みたいに真面目じゃなくてもいいのに。そりゃいい子で頑張ってれば皆は誉めてくれるし可愛いとも思ってくれるだろうがな、そこまでじゃなくてもいい。新人なんてちょっと駄目なくらいがちょうどいいんだよ。そんなに、頑張らなくていいから。
「ところで、霧島に会わなかったか?」
 世間話のつもりで聞いてみた。
 その時、小坂はなぜかぼうっとしていて、聞かれた途端にものすごく急き込んで答えた。
「あっ、えっと、はい! 偶然行き会いました!」
 え、何だその勢いある返事。
 ともあれ、そうか、会ったのか。あれ、でも社食って上だよな。外に出た小坂が会ったってことは、
「長谷さんと一緒だったのか」
「いいえ、お一人でした。ご飯は社食で食べるとのことです」
「ってことは愛妻弁当か。羨ましい奴め」
 やっぱりか。そうじゃないかと思ってたが、あいつはあいつで幸せいっぱいなわけか。いいよな、あいつは余裕があって。
 いや俺だって別に余裕ないってほどじゃない。今焦ってるのは花火大会の開催時刻を気にしているからだし、何となくいらつくのは暑さのせいだしな。
 ただ、あいつの幸福っぷりはむかつくのでダシにしてやろうとは思った。
「癪に障るな」
 俺は小坂の手から弁当の袋を二つとも、取り上げた。小坂は意外にもすんなりとそれを預けてくれ、手渡してから初めて慌てたように瞬きをした。
「癪だから、花火見に行くか」
 自分で言っといてあれだが、こじつけっぽい。もっとスマートな誘い方はなかったのかと、安井辺りが聞いてたら言ったことだろう。でもいいんだよ、小坂にはこのくらいわかりやすい方が。
 小坂はしばらくぽかんとしてから、
「……え? しゅ、主任? あの、どういうことでしょう?」
 外国語で話しかけられたみたいに混乱していた。きっとこの後、
 また慌てふためいてえらいことになるな。ちょっとわくわくしてくる。
「気晴らしだよ」
 混乱した頭でも理解できるように、ゆっくり、丁寧に言ってやる。
「もちろんずっと見てる訳じゃない。弁当食ってる間だけだ。仕事もあるしな」
 聞き間違いのしようもないくらいに。
「小坂はここからの花火、見たことないだろ? せっかくうちの会社入ったのに見られないなんてかわいそうだ。特別に、今年だけ見せてやるよ」
 俺の提案を聞いた小坂は、困ったような顔をしてみせた。
「そんな……えっと、いいんでしょうか?」
「だから、休憩中だけな。ルーキーだけの特別扱いだ」
 真面目な子にはご褒美。
 あと俺にもご褒美。俺は真面目でも頑張ってもないし、そもそも花火なんて嫌いだが、嫌いなのを我慢するご褒美。我ながら調子がいいな。
 好きじゃない花火を見に行く気になったのは、単に小坂が好きだって言ってたから。花火見て犬みたいに尻尾振ってはしゃぐ小坂が見られるなら、それは実にいいご褒美だ。何かおかしいか? 安井にからかわれるようなネタか?
「で、でも、ビルが建ってるから見られないんじゃないんですか?」
「屋上からなら見える。確認済みだ」
 駄目押しで言えば、小坂の表情がいくらか変わった。まだ困ってはいるらしい。考え込んでもいる。でも断るのも惜しいと思っているのかもしれない。そうやって迷っている時点で花火は見たがってるってばれてるようなもんだ。踏み切れないのはそれが、サボりみたいに思えるからだろう。
 なら、上司が引っ張ってってやらないとな。
「そうと決まれば行くぞ。自分の弁当持って来い、花火見ながら夕飯だ」
 俺は意気揚々と彼女を急かした。
 それで小坂はようやく、会釈に見えるぎこちない頷きを返してきた。
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