Tiny garden

意識と無意識(3)

 デパートで買うものは既に決まっていた。
 五階、インテリアと生活雑貨のフロア。備品倉庫の匂いがする家具や寝具のコーナーは素通りして、キッチン雑貨の並ぶスペースを目指す。

 贈答用の食器が並んでいる辺りで足を止めた主任。繋いでいた手をそっと外して、漆器の麺鉢を化粧箱ごと取り上げた。
 つるりとした漆黒の表面、月みたいに丸い照明が映り込んでいる。
「霧島に聞いたら、やっぱり麺鉢がいいって言ってた」
 私に対し、そう説明も添えてくれた。
「あ、やっぱりそうなんですね」
 前に思いついたとおり、霧島さんと言ったら麺類。入社してから一年経っていない私でさえそう連想するに至ったくらいだから、主任にとってはこれも決まりきっていることなんだろう。
「すんなり決まったのは小坂のお蔭だ。改めて助かったよ、ありがとう」
「いえ、お役に立てたなら光栄です」
 だから面と向かってお礼を言われると、大いに照れてしまった。私が言うまでもないことだったようにも思う。でもやっぱり、うれしい。
「長谷さんも料理上手だからな。結婚したら毎日のように食べさせてもらえるだろうし、使い出もある」
 この場にいない人を冷やかすような口ぶりの後、主任は続けた。
「今日も何か用意して待ってるって話だ。小坂も楽しみにしてるといい」
「本当ですか? すごく楽しみです!」
 そういえばお食事会という名目だったっけ。そっか、長谷さんの手料理かあ。本当にすごく楽しみ。やっぱり麺類なのかな。
 期待に胸を膨らませていたら、途端ににやにやされた。
「毎回のことながら食いつきいいよな、食べることに関しては」
「あっ……も、もちろん、皆さんとお話しするのも楽しみです!」
「わかってるって。言ってみただけだ」
 そう言いつつもまだにやにやされているから、私は言い訳を重ねたくなる。嘘じゃないのに。本当なのに。それは確かに、長谷さんの手料理ってどんなのだろうな、是非ともご馳走になりたいなーなんてものすごく期待していたけど。
 と、そこまで考えてから気になることが浮上してきた。
 お食事会へお邪魔するのに、私、手ぶらでいいんだろうか。
「さて、会計してくるか」
 化粧箱を抱えた主任が歩き出そうとしたタイミングで、すかさず疑問をぶつけてみる。
「あの、主任! つかぬことをうかがいますが」
「どうした、改まって」
「私、手土産もなしに霧島さんのおうちへお邪魔してもいいんでしょうか」
 重大な懸案事項だと思っていたし、私なりに真剣な疑問でもあった。
 なのにうかがった数秒後、吹き出された。
「真顔で何を聞くかと思えば」
「でも、重大なことですよね? 私は初めての訪問ですし、失礼があっては大変です」
 日頃からお世話になっている方だし、私にとっては目上の方でもある。ご馳走になりに行くのに手ぶらというのは失礼じゃないだろうか。菓子折りの一つも持っていくのが礼儀ではないだろうか。
「馬鹿だな、あいつの家に行くのに何で土産なんか持ってかなきゃならないんだ」
 主任はそれこそ決まりきったことだと言いたげに答える。一笑に付された格好の私へ、更に言ってきた。
「営業に行くんじゃないんだからな。いくら小坂でも、友達の家に遊びに行く時まで手土産持っていく訳じゃないだろ?」
「それはそうですけど、霧島さんは……」
 友達ではなく先輩だ。目上の方だ。失礼のないようにしなくてはと思うのに。
「畏まらなくてもいいんだって。あいつならかえって気を遣う。それにお前も、放っておけば気を遣いたがるよな。そういうのは仕事中だけで十分だ」
 肩を竦める主任。霧島さんのことも私のことも、よくわかっているみたいだった。
 続く言葉も優しく言われた。
「俺としては、お前さえよければ長い付き合いになって欲しいと思ってる。だから気は遣わなくていい」
「……はい」
 僅かにだけためらってから、頷く。営業課の一員として勤務していれば当然長い付き合いにはなるのだろうけど、主任が言いたいのはそういう意味じゃないんだろう。きっと。
「代わりに仲良くしてやってくれ、俺が妬かない程度にな」
 目配せと一緒に言われて、いろんな意味で答えに窮する私。
「違う言い方をするならな、『恋人の友達の家へ行くようなもの』だと思え。わかるか?」
「え、ええと」
「ああ、小坂はわからないか。二十三年目だもんな」
 からかうように恋人いない歴に言及されて、でも以前のようにはショックじゃなかった。それどころかおぼろげにながらも理解出来るような気さえしてきた。まだ二十三年目続行中なのに不思議なものだ。
 そういう風に、これからは捉えるようになるのかな。霧島さんのことも、長谷さんのことも、安井課長のことも。――まず先に、別の事実を捉えられるようにならなくちゃいけないんだけど。
 その日が来たら、好きな人のことを恋人だと、ちゃんと捉えられるように。
「多分これから、わかるようになるんだと思います」
 神妙な心持ちになる私を、愉快そうに見つめてくる石田主任。
「最近、面構えが違ってきたよな、小坂」
「え? そうでしょうか……」
 慌てて頬っぺたに手を当ててみる。鏡はもちろん毎日見ているけど、そういう自覚はなかった。面構え、以前の私とどう違うんだろうか。
「いい傾向だ。その調子で覚悟を決めろ」
 手にした化粧箱を示すように持ち上げ、主任は笑った。
「次は俺たちが貰ってやろうな、結婚祝い」
「ええ!?」
 そんな、恋人を持つことですら最近ようやく理解出来てきたかなという具合なのに、結婚なんてまさか、無理だ。考えられない。頭がぷすんと煙を上げる。
 私もいつか結婚、するのかな。現実味ないなあ。その相手がもし仮に、運良く、石田主任だったとしたら――考えるだけでくらくらする。それはもう毎日のようにショートしそうだ。心臓とか、いろいろ持たない気がする。

 漆器のセットを購入し、きれいに包装してもらった後、車へと戻った。
 次に向かうはいよいよ霧島さんのおうちだ。そう思ったらみるみるうちに緊張してきて、運転席の主任に見咎められた。笑いと共に。
「何だよ小坂、緊張してんのか」
「それはその、どうしてもしてしまいます。これからお会いするのは皆さん目上の方ばかりですし」
 シートベルトを締めていても伸びる背筋。言葉まで自然と営業中みたいになってしまうから困る。今日はスーツを着てこなくて正解だった。しかつめらしさをこれ以上増やす必要もない。
「お前な、そういうところこそ霧島を見習えよ」
 と主任は運転しながら忠告してくる。
「あいつなんて目上の人間にさえろくに敬意払ってない。俺とか安井に対する態度、見てればわかるだろ?」
 どうなんだろう。私は、その点については異論がある。
 霧島さんが石田主任のことを好きなのはもう知っているし、安井課長に対してもきっと同じだろうと思う。敬意を表立って示していないだけで、霧島さんは先輩がたを尊敬しているはず。むしろ敬意がなければ好意には至らなかったはず。そういう気持ちはちょっとだけ、わかる。
 かく言う私も、つい最近までは石田主任という人を『日頃からお世話になっている、目上の、尊敬している方』だとばかり思っていた。今でも同じように思っているけど、確実に変わったのはその捉え方だ。私が主任に対してすることを、失礼か失礼じゃないかで判断するのを控えるようにした。代わりに、どうしたら主任に喜んでもらえるかをまず考えるようになった。これは大きな一歩だと自分で思う。
 でも、そう思えるようになったのは私だけの力じゃない。
「それは多分、主任のお人柄の賜物ではないでしょうか」
 私が意見をしてみると、横顔でしかめっつらをされた。
「つまり、俺の人柄が敬意に値しないって意味か」
「ち、違いますよ。そういうことではなくて……」
 誤解をされそうになったので、慌てて頭を捻る。言い方を替えてみる。
「きっと主任の魅力が、そうさせるのだと思います」
「魅力?」
「はい。お話ししているうちに、距離を縮め易くしてくださる魅力です」
 それがなければ私だって、このSUV車の助手席にはいられなかった。主任の隣でこうして話をしていることだって叶わなかった。
 私がここにいるのは、間違いなく石田主任のお蔭なのだと思う。
「そんなの、本当にあるのか」
 主任は半信半疑らしい。ハンドルを切るのと一緒に首を傾げた。
「だったら小坂はとっくの昔に、俺の彼女になってなきゃおかしい」
 素敵な人の魅力をもってしても出来ないことはあるもので、恐らくそれは私自身の意気地のなさが原因だった。だけどそれでも、今の気持ちは私史上、初めての域に到達している。
「私にとっては、今のこの気持ちだけでもびっくりなくらいです」
 どぎまぎしつつ、正直に打ち明けた。
「緊張もしていますけど、同時にすごくうれしいんです。主任にとっての親しい方たちのところへ、連れて行ってもらえるのが」
 だから失礼のないようにしたいと思ったし、気を遣い過ぎない方がいいならそうしたい、とも思った。
 こうして連れて行ってくれる主任のお気持ちにちゃんと報いたい、とも。
 直後、主任は息をついていた。
「そんなもんで良ければいくらでも連れて来てやるのに」
「ありがとうございます、主任。とってもうれしいです!」
「……欲がないのか贅沢なのか、わからない奴だ」
 その後で軽く笑われたけど、もちろん悪い気はちっともしなかった。

 車は迷うことなく鉄道沿線の傍を走り、やがて静かな住宅街へと進入した。
 ちらと見えた駅からほんの少し行った辺りで停車する。びっくりする間もなく主任はエンジンを切り、窓の外に見える建物の一つを指差した。
「あれだ。霧島のアパート」
「駅のすぐ近くなんですね」
「徒歩五分だって話だ。羨ましいよな」
 それはもう本当に。
 車を降りると、趣のある二階建てのアパートが見える。その両隣から家々や小さな個人商店が、お正月らしい落ち着きぶりで立ち並んでいる。電信柱に連なる道の向こうには、さっき見かけた駅が蜃気楼みたいな鮮明さでうかがえた。
「ほら、寒いからさっさと入るぞ」
 デパートの紙袋を提げて、主任が車から離れる。私も急いで後に続いた。
PREV← →NEXT 目次
▲top