Tiny garden

意識と無意識(4)

 霧島さんの暮らす部屋は、アパートの一階にあった。
 そのドアを、主任はチャイムも鳴らさずに開けた。鍵が掛かっていなかったことにも驚いた。
 そして、玄関へ出迎えに現れた人が部屋の主ではなく、安井課長だったことにまたびっくりさせられた。
「遅い!」
 安井課長は不満げな表情で言った。スーツ姿とは違う、普段着の課長とお会いするのは初めてだ。もっとも見慣れない感じは服装よりも、そのくだけた表情の方が強かった。
 少し拗ねたようにも見える顔は、普段着でこそよく似合う。主任や霧島さんと比べると更に大人っぽい印象のあった安井課長も、お休みの日はこういう素の表情をするのかな、と思う。
「買い物してから行くって言っといただろ」
 主任も噛みつくように応じる。手を使わずにスニーカーを脱ぎながら、提げた紙袋をがさっと持ち上げる。
 紙袋を一瞥した課長は得心の面持ちになったものの、低い声を立てた。
「お前らが来るまでの間、俺がどんな肩身の狭い思いをしてたか想像してみろ。何せ相手はプレ新婚夫婦だ」
 プレ新婚夫婦、と言うのがどういう意味か把握するのに、私だけが時間を要した。把握してからはなるほどと思った。
「当てられてたか」
「甘ったるさで窒息しそうだった」
 言葉の割に軽い調子で首を竦める課長。
 小さく笑った主任が、そこで意地悪そうな顔をしてみせる。
「残念だったな。俺と小坂がもっと当ててやるから覚悟しろ」
 こちらに飛び火すると思わなかったので、私はよろよろもたもたとブーツを脱いでいるところだった。名前を出されて恐る恐る視線を上げれば、別段答えた様子のない課長と目が合う。その拍子、笑いかけられた。
「そんなこと言ったって、小坂さんはまだ石田のものじゃないだろ?」
 どう反応していいのかわからない台詞。
 ぎょっとしているうちに課長が自ら語を継いで、
「今からでも遅くない、俺に乗り換えないか? 小坂さんならいつでも歓迎だ」
 その言い方は明らかに冗談めかしていたし、私としてもそれほどうろたえなかった。本気だと受け取る理由がなかった。だとしても引き続き反応に困ったのは事実で、何か言った方がいいのかなと思っていれば、主任が私よりも早く口を開いていた。
「馬鹿言うな。誰が渡すか」
 どきっとするようなことを平然と言われて、更には手を差し出された。見れば、主任は既に靴を脱ぎ終えている。私はと言えばまだブーツを脱ぐのによろよろ、もたもたとしていたところだったから、一瞬ためらったものの素直に手を借りることにした。
 大きな手はさっき繋いだ時と同じようにひんやりしている。
「あの、ありがとうございます」
 ブーツを脱ぎ終えたところでお礼を述べたら、にやっとされてしまったけど。
「気にするな。安井に見せ付けてやりたかっただけだ」
 それこそ冗談のように主任が言い、その肩越しに覗いた安井課長もまた冷やかすような笑みを浮かべていた。私はぎくしゃく目を逸らしつつ、お二人それぞれの内心を何となく、察したような気分でいた。もしかしたら読み違いかもしれないけど、何となく、わかった。

 靴を揃えてから室内へと立ち入る。
 ちょうど奥の部屋から霧島さんが現れたところで、入ってきた私たちを見るなりおやっという顔をした。
「あれ、先輩も来たんですか。俺は小坂さんだけでいいって言ったのに」
「むしろ俺がいなきゃ小坂を連れて来れなかったんだぞ、感謝しろ」
 主任が言い返すと、霧島さんはわざとらしく眉を顰める。
「大体、遅いですよ先輩。お蔭で安井先輩から散々からかわれたんですから」
「からかってない。俺は本気で、霧島と長谷さんの門出を祝おうと思ってるよ」
 薄緑色のカーペットの上、座りながら反論する安井課長。その隣に主任も座ったので、私は遅まきながらお邪魔しますと言って、後に続いた。
 アパートの室内は外観から想像がつくくらいの広さだった。リビングはテレビとローテーブル、それにソファーがあるくらい。あまり物がある風ではなく、かと言って生活感がない訳でもない。テレビの上には卓上用のミニカレンダーが、下のテレビ台にはDVDプレイヤーがあって、漠然と家庭的なイメージを抱かせた。
 リビングからは閉じたままの襖と、間仕切りのない台所が見えていた。私がそこへ目を留めた時、ちょうどキッチンに立っていた長谷さんが振り向いて、にっこり笑顔でお辞儀をした。
「あっ、石田さんに小坂さんも。いらっしゃいませ」
 長谷さんは赤いギンガムチェックのエプロンを身に着けていて、それが何だかびっくりするくらいに可愛かった。特にフリルとかはついていない至ってシンプルな型のエプロンが良く似合っている。うっかり、お辞儀を返すのが遅れたくらいだった。
「あ、あの、お邪魔してますっ」
 私は引っ繰り返った声で挨拶も返し、長谷さんにはそこでちょっと笑われた。
「楽にしていてくださいね。私の家じゃないですけど」
「はい、ありがとうございます!」
 頷きつつ、ここが長谷さんの家じゃない、という点はなかなか飲み込めなかった私。ごく自然にキッチンに立っていて、本当に奥さんって風に見えているから余計に。安井課長の言っていた『プレ新婚夫婦』なんて言葉の意味をいち早く察する。
 その安井課長と、霧島さんと、それから石田主任とは、言い合いとも何ともつかない応酬を続けていた。私が長谷さんとの挨拶を済ませて、視線をそちらに戻した時もまだ続いていた。
「だから、からかってないって。お前の結婚式で歌を歌ってやろうとしてるだけだろ」
「言っておきますけど変な歌は止めてくださいよ!」
「変な歌って何だよ。どんな歌にする気だったんだ?」
「いや、俺のアイドルを掻っ攫われた恨みは、やっぱり失恋の歌で晴らすべきかなと」
「絶対に駄目です! 縁起でもない!」
「面白そうだなおい、俺もカメラ係じゃなきゃ歌ったんだがな」
「何なら二人で歌うか? 霧島言うところの縁起でもない歌を」
「止めてくださいってば!」
 今のところ課長がからかい、主任が煽り、霧島さんが一人でむきになっているようでもあったけど、三人のやり取りはいつも以上に楽しそうに見えた。普段着の顔、とでも言うんだろうか。長谷さんも霧島さんの隣に座って、くすくす肩を揺らして聞いている。きっといつもこんな感じなんだろうなあ。
 私はまだこの空気に慣れていない。思わず目を瞬かせると、すかさず主任が説明してくれた。
「安井はあれで結構歌が上手いんだ。営業課時代は、カラオケ接待で契約を取ってきたこともある」
「カラオケでですか? すごいですね!」
 よほど歌唱力がなければ出来ないことだと思う。説明を受けた安井課長は、そこで照れたように笑った。
「下調べが大変だけどな。相手の年代や趣味を踏まえて、好きそうな曲目を練習しておかなくちゃならない。一度、入れた曲を全く知らないと言われた時は、頭が真っ白になったよ」
 これはこれで、お酒を飲むだけの席とはまた違う苦労があるみたいだ。去年お呼ばれした飲み会のことを思い出し、あの時のほんのささやかな居た堪れなさを振り返ってみる。あれは最初の一歩であって、これから何度でも経験する出来事に違いない。そのうちに私も営業の一環として、カラオケのお誘いにあずかる日がやってくるかもしれない。
 と同時につい先日、主任が『最近の歌には詳しくない』と言った理由もやっとわかった。仕事の忙しさだけが原因ではないらしい――或る意味、仕事が原因なんだろうけど。
 私もカラオケの練習、しておいた方がいいのかな。
 そのうちに私も、最近の歌がわからなくなるのかな。
「お蔭で古い、縁起でもない歌だけはしこたま覚えた」
 そう語る安井課長は、どことなく誇らしげだったけど。
「失恋だろうと不倫だろうと恨み節だろうと何でもござれだ。霧島、どれがいい?」
「どれも嫌です!」
 霧島さんが声を上げる。
 即座に、堪らずと言った感じで主任が吹き出す。私は笑ったら失礼かなと思っていたけど、隣の主任があんまりおかしそうにしているものだから、結局抑え切れずに笑ってしまった。
「そんなにむきになることないですってば」
 長谷さんが、ふてくされた様子の霧島さんに声を掛けている。
「一曲くらい縁起の悪い歌があったってどうってことないです。むしろメリハリがあって盛り上がるかもしれないですよ」
 受付勤務の人らしく、ごく優しく、穏やかに続ける。
 途端、場の空気が落ち着いた。
「あ、長谷さんがそう言うなら、そうかもしれませんね」
 すっかり霧島さんは毒気を抜かれたようだったし、安井課長はしてやられた顔つきで息をついている。
 主任が横目で私を見、はにかむような笑みを浮かべる。私もくすぐったい思いがした。
 なるほど、プレ新婚夫婦ってこんな感じ。
「じゃあ、そろそろご飯にしましょうか」
 会話が一段落ついたところで、長谷さんが再び立ち上がる。
「今日のメニューはお正月らしく、力うどんです。すぐに用意しますから、ちょっとだけお待ちください」
 予想通りの麺類だった。
 うきうきしながら私も立ち上がる。
「あの、お手伝いすることがあれば、是非やらせてください!」
 宣言してすぐ、皆が一斉に私を見た。若干の気恥ずかしさを感じたものの、長谷さんはうれしそうに微笑んでくれた。
「助かります。なら、お餅を焼くのをお願いしていいですか?」
「はい」
 私もうれしかった。お手伝いを許してもらえるって、ここにいることを許してもらえたみたいでありがたい。
 せっかく連れてきてもらったんだから、私に出来ることを精一杯やりたかった。それが主任や、主任にとって親しい人たちの為になることなら、尚更いいと思う。
 
 初めて足を踏み入れた、二畳ほどの広さのキッチン。
 食器棚の中段に置かれたオーブントースターへ、長谷さんから手渡された角餅を並べていく。
「焦げ目がつく前、膨らんできた頃に止めてください」
「了解しました!」
 威勢良く返事をすると、長谷さんはまたうれしそうに笑ってくれた。
「小坂さん、よろしくお願いしますね」
 ちょっと照れたけど、もちろん、頷いた。
「お任せください!」
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