Tiny garden

食欲と睡眠欲(6)

 社内で飲酒をするというのは、体験してみてもやっぱり、不思議な感じがする。
 大掃除を終えて、いよいよ始まった納会。形式としては立食パーティに近かった。
 営業課のオフィスがそのまま会場となり、皆は立ったまま缶ビールを掲げて乾杯。いつもなら書類やパソコンが置かれている机には、おつまみやお寿司が並んでいて、めいめいで好きなように食べ始めている。自分の席に着くということもなく、缶ビールやお寿司の折り詰めを持って歩き回る人さえいた。思っていたほど畏まった雰囲気でもなかった。始まりからして和やかだ。
 納会初参加の私だけが落ち着いていなかった。つい辺りの様子をきょろきょろうかがってしまう。
 普段なら仕事をする場所でお酒を飲む。どう頑張っても違和感がある。営業課ではお弁当を食べたことこそあったけど、それだって自分の席に座って、最低限の行儀を守って食事をしていた。職場にお弁当を持ち込むこと自体のお行儀悪さはともかく。
 それがいきなり立食とお酒にランクアップしたのだから、どうしていいのかわからない。ちょっと悪いことをしているような気分でもあるし、だけどその悪いことが妙に楽しかったりもする。今日くらいしか出来そうにないことをしているからかな。そう思うと缶ビールの味が違って感じられた。

 いつぞやの取引先での飲み会とは違って、営業課の飲み会はいつでも至ってマイペースだった。お替わりを勧められることもなければお酌の必要もなく、気を遣って話題を広げる必要もない。少しの間、お寿司を食べるのに集中していられた。ちょうどいいペースでビールを飲めた。
 お酒を飲んでいない人だっていたくらいだ。
「主任はウーロン茶なんですね」
 私のすぐ隣で、石田主任は紙コップを傾けている。中身がウーロン茶なのは、さっきご自分で注いでいるのを見かけたから知っていた。
 営業課員ともなるとお酒の飲めない人はいないものの、年末の疲れからアルコールを避けたい人はちらほらいるらしい。そういう人たちの為にペットボトルのウーロン茶も用意されていた。
 もしかして主任も、例によってあまり食欲がないんだろうか。それでお酒を控えているのかもしれない――心配になる私に対して、当の主任は予想外に明るい表情を向けてきた。
「気が付いたか?」
 まるで、気が付いてもらえてうれしいとでも言いたげだ。怪訝に思いつつ顎を引く。
「はい。あの、もしかして体調が優れないとか……」
「いいや、ちっとも。この通り体調なら万全だ」
 手を振って否定した後、笑顔で続ける。
「今日は車で来てたからな。明日からは休みだし、置いて帰る訳にもいかない」
「そうだったんですか」
 せっかくお酒が出る日なのに車で出勤しなくちゃいけなかったなんて、やっぱり年末の忙しさのせいかな。飲めなくて残念だろうなと私は思った。
 だけど、今度は主任に怪訝そうな顔をされた。
「小坂、お前またすっとぼけてるだろ」
「え? ど、どこがですか?」
 当然ながらボケた覚えはない。戸惑いながら聞き返すと、ひそひそ声で言われた。
「今日の約束。忘れてないな?」
「……あ」
 思い出した。いや、忘れていた訳じゃなかった。
 ただちょっと、仕事納めにしても大掃除にしても慌しくて、なかなか思い出す機会が少なかっただけのことで。だからそれほどうろたえずには済んだけど、違う意味では驚いた。
「それで、お車でいらしたんですか」
「当然。小坂を連れ帰らなくちゃいけないからな」
 言い切られた。
 小声で告げられてもインパクト十分の言葉だ。それこそ普段仕事をしている営業課で、しかも他の課員もいるところで聞くには落ち着かない言葉。私は息を呑むばかりだった。
 室内のほうぼうから視線を感じ始めている。私と主任が話をしていると、皆も気になるらしい。冷やかすような目を向けられて、とりあえず気合の代わりにビールを呷っておく。ビール自体は冷え冷えなのに、顔全体が熱かった。酔いのせいだけではないと思う。
 主任が車で来たってことは、もしかしなくてもデートをするのかな。その辺りの予定は全く聞いていなかったし、何の用意もしてこなかったけど、いいのかな。本当に時間しか空けていなかった泥縄ぶりだった。ひとまずはあまり飲まない方がいいような気がする。
「それよりほら、遠慮しないで食ったり飲んだりしろよ」
 私の懸念をよそに、さりげなく気を配ってくれる主任。
 結局、納会でも隣同士でいる。本当は私もその方がうれしい。
「は、はい! いただいてます!」
 本音を言うと、せっかくの納会。遠慮をしたい訳では断じてなかったので、飲む方から食べる方へとシフトしようと決めた。お酒はあくまで控えめに。お腹はいい具合にぺこぺこなので、後々の為にもしっかり食べておこう。口実とかではなくて。
「卵、好きなんだよな。分けてやろうか?」
 折り詰めの中のお寿司を指して、そんな提案をされた。ちなみにこのお寿司、巻き寿司が三、いなり寿司が二、握り寿司が五の割合で入っている。卵もしっかり入っていて、私は真っ先に食べてしまった。甘くて美味しかった。
「え、そんな、すごく美味しいんですよ。いただいたりしたら悪いです」
 食いつきがいいといつも笑われているので、なるべく控えめに答えたつもりだった。
 だけど主任はいつものように吹き出した。
「すごく美味しいんだったら断るなよ。好きな奴に食われた方が寿司だって本望だ」
「そうなんでしょうか」
「そうだ。何だったら寿司に聞いてみろ」
「無理です!」
 あいにくとお寿司と会話する能力は持っていない。それでも卵がすごく美味しいことはわかっていたので、私はこう申し出てみた。
「じゃ、じゃあ、トレードということでいかがでしょうか」
 お弁当気分での提案。好きなものを貰う時はやはり物々交換と言うのがスマートなやり方だろうと踏んでのことだ。主任も愉快そうに応じてくれた。
「それいいな。じゃあ卵と何かを交換だ」
「はいっ」
「で、何を貰っていい?」
「ええと……」
 食べかけの折り詰めを見下ろす。既に巻き寿司といなり寿司は一貫ずつしかなく、握り寿司も残り二貫となっている。たこと茹でた海老という無難な組み合わせだった。
「あの、主任が選んでくださって結構です」
 決めかねたので丸投げすると、軽く目配せをした主任が、
「だったらこれにする」
 いなり寿司を素早く攫っていった。
「えっ、それでいいんですか?」
 無難なラインナップではあったけど、普通の握り寿司だって残っていたのに。選んでくださいと言ったのは私だけど、そこで気を遣われると慌ててしまう。いなり寿司をあげて卵をいただけるなんて、私からすれば好条件過ぎる交換交渉だ。
 だけど主任はかぶりを振り、引っ繰り返した箸で卵を寄越してくれた。
「気にするな。俺はただでやっても良かったくらいなんだから」
「そんな……」
 石田主任はやっぱり優しい。どぎまぎしたくなるくらい優しい。営業課にいるにもかかわらず、皆から好奇の視線を注がれているにもかかわらず、うっかりときめいてしまった。
 不自然な動悸を覚える私に、主任は言う。
「しかし、寿司一つで喜ぶなんて安上がりな奴だな」
 ごもっともだ。
 でも、うれしいものはうれしいし美味しいものは美味しい。私はいただきますを言って、幸せな気分で卵を食べる。最初に食べたものよりも更に甘く感じたのは気のせいではないはずだった。

「先輩。俺の目には、小坂さんが食べ物に釣られているだけに見えるんですが」
「その読みはまるっきり間違ってないぞ、霧島」
 私がお寿司を堪能している間、霧島さんと主任は私の頭上で会話を交わしていた。
 飲み会でも大抵そうだけど、お二人は近い席に座ることが多い。それがどういう意味かはわかりきっているし、近頃では言い争いみたいなじゃれ合いすら見ていて楽しめるようになってきた。
 私がネタにされる場合だけは、さすがに楽しんでばかりもいられないけど。
「いいんですか? 完全に卵焼きに負けてますよ」
「元々こんなもんだ。小坂相手だと食い物には勝てっこない」
 さりげなく酷いことを言われているような気がする。
 いくら私でもそこまで食い意地は張ってないのに。と言うか主任と卵焼きを比べる気は全然ないのに。好きな人の傍で食べてこそ、卵焼きだって一層美味しいんだと思う。
「大変ですね、ご愁傷様です」
「まあな。でも見てみろよ、この顔。幸せそうにしてるだろ」
 主任が言って、右側から私の顔を覗き込んでくる。近づく距離にどきっとしたのも束の間、左側からは霧島さんにも覗き込まれた。
 ちょうど口をもぐもぐさせていたところだったので、すごく恥ずかしかった。
「本当だ、幸せそうですね」
 霧島さんがしみじみと唸る。
「だよな。小坂は食べてる時が一番幸せそうだ」
 主任も、笑みを湛えて応じている。
 と、霧島さんの視線が真横に動いて、主任の顔をうかがったようだった。
 ちらと何かの色が過ぎる。すぐに微笑へと取って代わる。
「……先輩の、ここまで緩み切った顔を見たのは初めてです」
 口調だけは皮肉っぽく言って、缶ビールを傾ける霧島さん。
 その言葉がどういう意味かは掴めなかったけど、気のせいか、私に向けられたもののように思えた。
 霧島さんはちらちらと主任を見ていて、主任はじいっと私を見ている。そして私は霧島さんの、とても美味しそうにビールを飲む顔をこっそりうかがっていた。

 好きな人と一緒なら、食べるのも飲むのも一層美味しいはずだ。
 しかも仕事が全部片付いて、明日からはしばらくお休みで、きれいに掃除された部屋で味わうものだから、ことさらにそうだろう。いつものオフィスにいつもの緊張感はない。表情が緩んでいるのも主任だけじゃない。私だってたぶん、そう。
 納会では皆が美味しそうな顔をしていた。その理由が今ならすごく、よくわかる。
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