Tiny garden

食欲と睡眠欲(5)

 ――ばれてる、なんて思うのは今更なのかな。
 バケツに水を汲んできた帰り、営業課へ向かう足取りが重かった。バケツもより重く感じられた。揺れる水面に気を配りながら慎重に歩く。
 皆に冷やかされた後だ、どんな顔をして戻ればいいのか。すごく気まずい。霧島さんに言われた内容そのものよりも、皆が同じように思っているらしい辺りが堪らず、うろたえたくなる。

 独り占めなんてされてないと思う。
 石田主任は私だけに話しかけているわけじゃないし、私だってそう。営業課に配属されてからしばらくは主任に仕事を教わり、お世話になってもいたけど、だからと言って他の人と接する機会がなかった訳でもない。
 ただこの場合、重要なのは他の人からどう見えるかという点なのだとも思う。皆の目には私が、主任とばかり話しているように見えるのかもしれない。自分では全く意識していなかったけど、気を付けた方がいいのかな。それとも、もうばればれもいいとこなんだから隠すよりは堂々としている方がいいんだろうか。でも仕事も出来ないうちから恋愛にかまけてるって思われるのも、ちょっとね。
 そういえば、霧島さんは私のことを一人前だと言ってくれた。――さっきのやり取りを思い出すと、恥ずかしいのと後ろめたいのに交じって、何だかにやにやしたくなる。
 一人前だって。初めて言われた。
 実際は例によってそうでもないんだろうけど、でもそんな風に見えているならうれしい。ほんのちょっとでも社会人らしく、営業課員らしくなっていたかったから。だってもう十二月だ、春や夏頃と同じ私じゃいたくない。

 頑張らなくちゃ。難題は山積しているけど一つずつでも乗り越えていこう。まずさしあたり、現在の深刻な悩みから。
 営業課にはどんな顔して戻ろうか。そこが問題だ。
「……難しいなあ」
 いきなりの超難題だった。主任や霧島さんや他の皆と、どう顔を合わせていいものか。いくら考えてもあたふたしてしまいそうな気がして余計に悩ましい。バケツを手に、思案に暮れながら廊下を辿る。
 通り掛かったよその部署では掃除の終わったところもあるらしく、あちこちから話し声がしていた。もう既にパーティっぽい雰囲気になっている部署もあって、いかにも非日常的な賑々しさに満ちていた。会社の中とは思えないくらい緩やかな空気。やっぱり不思議な感じがする。
 とそこへ、背後からごろごろ大きな音が近づいてきた。
 何だろうと振り向いたら、まず目に留まったのは台車だった。台車の上には積み上げられた缶ビールの箱。
 押しているのは見覚えのある方。
「あっ、安井課長」
 声を上げた私が会釈をすると、課長も台車を止めて微笑んだ。
「小坂さん。もしかして、営業課はまだ掃除中?」
 視線が提げたバケツへと留まる。私は頷く。
「はい。でも後は拭き掃除くらいですから、もうじき終わると思います」
「お疲れ様。そっちは部屋も広いし、大変だろうな」
 そう言うからには、人事課の大掃除ももう済んでしまったということなんだろう。何度かうかがったことがあるけど、人事課のオフィスは営業課の半分くらいの大きさだった。掃除が早そうでいいなと思っていれば、課長はくたびれた表情になる。
「こっちは掃除こそ早く済んだけど、そしたら今度は雑用に駆り出される羽目になった。迅速な行動もいいことばかりじゃないな」
 運ばれてきた缶ビールの箱は八つ。台車を使っても重いはずだった。
「もしかして、これを買い出しに行かれたんですか?」
「そう。納会で使う分なんだけど、数は多いし重たいし、外は雪は降ってるしで散々だった」
 大変と言うならそっちの方がずっと大変そうだ。
 横目で廊下の窓を見たら、降り続いているのが確かに見えた。大粒の雪はざっかざっかと窓枠を横切ってゆく。こんなに降る予報だったっけとびっくりした。
「お疲れ様です」
 労いの気持ちを込めて告げると、穏やかな笑顔が返ってきた。
「ありがとう。可愛い女の子に言われると、疲れも吹っ飛ぶよ」
 さらりと言われると聞き流しそうになる。
 しかし、拾ったところで反応に困る言葉でもある。石田主任と言い安井課長と言い、こういうことを顔色一つ変えずに口に出来るのは、どうしてなんだろう。
「え、あの、ちっともそれほどではっ」
 私は慌てふためいた挙句、うっかり呼吸を詰まらせた。だけど課長は至って平然としている。
「きっと誰かさんは毎日言って貰ってるんだろうな。つくづく、あいつが羨ましいよ」
 誰かさんと言われて、誰のことかすぐにわかってしまう。
 だけど羨ましがられるほどのことでもないと思う。私と来たら主任にはご迷惑を掛けっ放しで、ちっとも羨まれるような存在になれていない。さっきだって私を独占しているなどという誤解をされたばかりだ。傍にいさせてもらっているのだから、メリットのある存在になりたいとも思う今日この頃。出来たことが鮭フレークのプレゼントだけでは、さすがに。
「ところで、営業課ももうすぐ終わるんだよな、大掃除」
 課長が話題を戻した。同時に私もいくらかの平静さを取り戻す。危うく息が上がってしまうところだった。
「は、はい。後はもう拭き掃除だけで……」
「だったらビールを置くスペースくらいあるかな。重たいから数を減らしていきたいんだけど」
「それなら大丈夫です。机の上はもう片付いてましたから」
 さっきまでいた営業課の室内を思い起こしながら答える。ほうきは既に出番を終え、埃取りのモップもちらほら稼働するのみだった。床はまだ拭き掃除が残っていたけど、机の上は大体きれいになっていたと思う。
 そうだ、私もそろそろ戻らないと。バケツがなければ最後の仕上げ拭きが出来ないし、掃除だって終わらない。出てきた経緯を思うと否応なしに緊張するけど、これもきっと仕事のうちだ。
「小坂さんも戻るんだろ? 一緒に行こうか」
 課長は私の事情なんて知らないはずだけど、さりげなく促してきた。
 だから躊躇している暇もなかった。
「はいっ」
 返事とともに気合を入れ、バケツの持ち手を握り直す。廊下を再び歩き出せば、後ろから台車のごろごろいう音がついてくる。ざわめく社内を一層賑やかにしている。

 営業課のドアの前、人影があった。
 私はその人が相手なら、どんなに遠くからでも言い当てられるくらいの感覚を身につけていて、つまり目についた時点でわかってしまった。主任がそこに立っていること。そして多分、私を待っているんだろうということも。
 さすがに戻るのが遅かったかもしれない。二重の意味で申し訳なく、ひとまず声を掛けてみる。
「あ、あの、主任! 遅くなってすみません!」
 肩の辺りがびくりとした、ように見えた。
 すぐさまこっちを向いた主任は、近づいていく私に向かってやや気まずげな笑みを向けてくる。それがお約束のしかめっつらに変わったのは直後のことで、視線も私の肩越しに、後ろの方へと投げかけられていた。
「何で、安井が一緒なんだよ」
「文句あるか。営業課だけアルコール抜きにするぞ」
 課長は課長でいつものように、遠慮のない言葉を返している。お二人のそういうやり取りのお蔭で、先程までの緊張は多少薄れた。助かった。
「大体お前、掃除中だろ。主任ともあろうものが率先して油売ってていいのか?」
 言葉の割に、安井課長はからかうような口ぶりだった。そんな訳はないのにいろいろ見抜かれている気がしてならない。絶対、そんな訳はないはずなんだけど。
 主任が僅かに眉を顰める。
「いいんだよ、もうじき終わるとこなんだから。それにバケツが来ないと仕上げに取り掛かれなかった」
 やっぱり。私は頭を下げる。
「すみません、本当にお待たせしました」
「……気にしなくていい」
 短い言葉の間だけ、主任は私を見下ろした。すぐに視線は外されて、台車に寄り掛かる安井課長へと向けられる。
「安井こそ、そのビール配ってんじゃないのか。何突っ立ってんだよ」
「俺がいると都合の悪いことでもあるのか、石田」
 課長がにやっとする。対照的に、主任の目つきがきつくなる。
「空気読めっつってんだ」
「読んでるよ。何を話すのか気になるからここにいるんだろ」
「誰がお前のいるところで話すか」
「よく言う。日頃からだだ漏れの会話してるって、霧島が言ってたぞ」
 お二人の応酬を聞きつつ、バケツを持ったままの私は、どんな顔をしていたらいいかを考えてみる。わからない。
「外、雪が降ってたな」
 不意に課長がそう言った。
 台車からビール箱を二つ下ろして、主任に手渡そうとする。もちろん軽いものではないから、受け取るのにタイムラグがあった。
「『電車が停まった』ってのも、割と一般的な口実になるよな」
 意味ありげにする必要性がわからない課長の言葉に、なぜか主任が舌打ちをした。ビール箱二つを抱えたまま、踵を返した安井課長を睨みつけている。その視線をものともせず、課長は台車を押しながら、廊下の奥へと消えていく。
 私も少しの間、遠ざかるごろごろという音を聞いていた。
 そして思った、電車が停まるくらい降られるのはまずいなあ。今日は確実にお酒の入る予定なのに。
「――あいつの言うことは気にするな」
 主任の声がして、視線をそちらへ戻さなければならなくなった。
 社内で、廊下で目が合うのは、なぜか非常に後ろめたい気分だった。おまけにいろいろあって気まずくもある。それは主任も同じことのようで、苦笑いで言われた。
「皆にからかわれたショックで、お前が泣いて戻ってくるんじゃないかと思ってた」
「え! まさか、そんなことは」
 それは買い被り過ぎと言うか、何と言うか。泣くなんてまるっきり頭になかった。むしろ霧島さんの言葉ににやついたりもしたくらいだ。要らぬ心配まで掛けたようですごく申し訳なくなる。
 私はそこまで繊細じゃない。そんなことでは泣いたりしない。
 好きな人に心配を掛けておいて、自分だけ逃げたり泣いたりするのは嫌だ。もう逃げない。どこからも。
「先程はすみません。あの、ご心配をお掛けしました」
 先程と同じように、小さな声で詫びてみる。同じく潜めた答えが聞こえる。
「いや、お前が気にすることじゃない。それよりも」
「はい」
「独り占めだと皆が思ってるなら、わざわざ否定してやることもないと思うんだが、どうだ」
 ひそひそと言った主任が、そこでにやっとした。安井課長に負けないくらいの意味深長な笑い方。
「むしろこれからは見せつけてやろう、あいつらに」
「ほ、本気でおっしゃってるんですか?」
「当たり前だろ。そこは素直に『はいっ』って返事しろよ」
「……無理ですっ」
 トーンを落として、それでも精一杯強調して答えたら、目の前の表情がふっと解ける。
「何だ、案外平気そうだな」
 その言葉がどこまでの範囲を指しているのかはわからないけど、私も思った。――うん、平気そうだ。一緒になって笑ってしまった。気分もたちまち軽くなった。

 バケツを一旦足元に置いて、私は主任の為に営業課のドアを開けた。ビール箱を抱えた主任が中へ入り、後から私が続くと、一斉に冷やかす口笛やら笑い声やらが湧いた。でも今回はにやにやしながら受け止めていられた。
 不思議なくらい、私、平気そうだ。
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