Tiny garden

食欲と睡眠欲(7)

 机の上のビールとおつまみ類が、半分以上片付いてきた頃。

 営業課のドアが静かにノックされて、
「失礼します」
 顔を覗かせたのは長谷さんだった。もう帰り支度を済ませているのか、私服姿にコートを携えている。今日も素敵な笑顔だった。
 途端に室内がざわめき立つ。冷やかしの声と口笛が膨れ上がるように飛んでいく。どのくらいかと言うと、大掃除の際に私が賜ったものの三倍程度。皆、多少なりともお酒が入っているせいか、仕事納めの和やかさのせいか、やけにテンションが高い。本当のアイドルみたいに名前を呼んでいる人もいて、営業課はさながらライブハウス並みの賑わいになった。
 皆の反応に、長谷さんはくすぐったそうに会釈をする。それから視線を、迷わずに霧島さんへと向ける。
 霧島さんが、見ているこっちが照れたくなるくらいに頬を赤らめた。主任に肘でつつかれて、缶ビールを手にしたまま戸口へと向かう。私なんかはその後ろ姿でさえじっとして見ていられない。やっぱり今でも、どきどきする。
「早いんですね、長谷さん。秘書課はもう上がりですか」
 騒々しさが潮の引くように止んで、霧島さんの声がはっきり聞こえた。
 それに対して答える長谷さんの声も。
「はい。雪が降っているから、早めに帰ろうということになったんです」
 営業課のアイドルの発言は、影響力も甚大だった。
 皆が一斉に窓の外を見た。
 もちろん私も。
 雪が見えた。さっき安井課長と話した時に聞いていた、あの時から既に大分降っていたようだったけど――まだ降り続けている。ちらちらと落ちる白い雪が見えた。
 主任はわざわざ窓際まで行って、外を覗いていた。
 そして呟いた。
「積もってる」
 私は窓の傍へは行かず、爪先立ちになって外に目をやった。近くのビルの窓枠が白く縁取られているのと、壁面に粉糖が吹き付けられているうようなのは見えた。
 どうやら今日はホワイト仕事納めらしい。ちっともロマンチックじゃない。
「うちも早めに上がった方がよさそうだな」
 ぼやく主任の言葉は正しいんだろう。
 外の雪の降り方を見た途端、室内の空気が目に見えてクールダウンした。お祭り騒ぎの空気が落ち着いて、ふと現実味が戻ってくる。皆、帰りの心配をし始めたのだと思う。何となく、物寂しい。
 もっとも、私も約束をしていなければ大いに慌てていたところだった。電車が走らなかったら家に帰れない。会社から家までのタクシー代は手持ちだとぎりぎりだった。タクシー自体、この天候ではうまく捕まえられるかどうか。
 それに、この降りようでは道路状況だってどうなっているかわかったものじゃない。
 主任はどうするのかな、と横目でうかがってみる。さすがにうんざりした様子で窓の外を覗いている。私も一応、約束はキャンセル、送るのも難しいから一人で帰ってくれと言われた場合についても覚悟しておく。そう言われてもしょうがないと思っている。
「こっちももう少しで終わりますから、待っていてくれますか」
 霧島さんが長谷さんに声を掛ける。
「わかりました。じゃあ、廊下にいますから」
 にっこり笑んだ長谷さんがそう言った時、すかさず主任の声が飛んだ。
「中で待っててもらえよ、霧島。奥さんに対しても気が利かないな」
「わかってますよっ!」
 噛みつかんばかりに応じる霧島さん。それで室内はどっと沸いたものの、先程までの賑々しさが戻ってくることはなかった。実質、そのやり取りが幕引きの合図だった。

 それからは緩やかな撤収が始まった。
 気が利かないと評された霧島さんは長谷さんの為に椅子を引き、ウーロン茶を振る舞った。その間に皆で残りのお酒やおつまみを、なるべく無駄なく片付けた。持って帰れそうなものは折り詰めに詰めたりビニール袋にまとめたりして、分け合うことになった。私も未開封の缶ビールを二本いただいた。うれしい。
 撤収作業自体は一時間ほどで済み、最後に皆で三本締めをした。その後はめいめい帰り支度を始め、支度の出来た人から年の瀬の挨拶をしてから帰っていく。

 私の帰り支度は少しのんびりになった。なぜかと言うと主任の動向を気にしていたからで、主任は忙しいのかまだ自分の帰り支度という段階でもないらしい。今はスチール棚に施錠をしている。
 とりあえず、すぐ帰れるようにしておこう、と思った。
 それでマフラーを巻こうとすると、
「小坂さん」
 優しい声にふと呼ばれた。
 振り向けば、既にコートを着込んだ霧島さんと、同じくコートを着た長谷さんとが二人並んで立っている。揃ってにこにこといい笑顔を浮かべていた。どうやらお二人も帰るところらしい。目が合った時、霧島さんに言われた。
「お疲れ様です」
「あっ、お疲れ様です!」
 お二人を見ていると自然と背筋が伸びてしまう。張り切って応じると、長谷さんはくすっと笑い、霧島さんも微笑んだ。それから続ける。
「今年一年、お世話になりました。来年もよろしくお願いします」
「い、いえいえ、こちらこそです! 今年は本当にお世話になりました!」
 頭を下げられたからものすごく慌てたくなった。そりゃあ形式的な挨拶の言葉だとはわかっているけど、それにしたってお世話になったのは私の方ばかりだ。
 霧島さんには何度も励ましてもらったし、仕事でドジを踏んだ時には慰めてももらったし、二日酔いの時にはありがたいアドバイスまでいただいていた。本当に、すごくすごくお世話になった。優しい先輩のいる職場でよかったなあと何度思ったことか。
「小坂さんと一緒の職場で、楽しかったですよ」
 なのに、そんなことまで言われてしまった。恐縮したくなった。
「いえ、あの、そんな……!」
「前にも言いましたけど、小坂さんを見ているといろんなことを思い出します。入社当時のこととか、仕事を覚え始めた頃のことも」
 そう話す霧島さんの表情は穏やかだ。
 やはり前にも言われたけど、私と同じルーキー時代があったなんて想像もつかない。霧島さんだけじゃなくて、皆が皆、新人の頃があったようには見えなかった。私くらいのものじゃないかってずっと思っていた。
 今は、そういうものなんだろうなと思うようになった。私もいつか、後から入ってきた誰かに同じことを思われる、のかも。
「今度は私も、小坂さんと一緒にお酒が飲みたいです」
 長谷さんにはそんな風に言われた。心臓が跳ねた。
「霧島さんと石田さんと安井さんがいると、三人で盛り上がっちゃって、私はなかなか輪に入っていけないんですよね」
 ああ、それはすごくわかる。霧島さんが横で、なぜですかと聞きたそうな顔をしているけど、私には実によくわかる。
「だから、そこに小坂さんがいたら楽しいだろうなって思うんです。私も小坂さんとお話ししてみたいなって思っていましたし……そういうの、どうでしょうか?」
 小首を傾げる長谷さん。もちろん、大きく頷いた。
「私でよければ是非、お邪魔させてください!」
 好きな人たちと飲むお酒は、絶対に美味しいはずだった。だからお断りする理由はない。それに私だって、長谷さんとは一度ちゃんとお話ししてみたかった。いつも笑顔でいる秘訣、聞いてみたい。
「じゃあ、年が明けたら是非、機会を設けましょうね」
「はいっ」
 長谷さんの言葉にもう一度頷く。お互いにふふっと笑う。
 何度見ても長谷さんの笑顔は素敵できれいで大人っぽくて、営業課のアイドルの名に相応しい。どう進化したらこういうお姉さんになれるんだろう。突然変異を待つしかないのかなあ。
 一方の霧島さんは意味ありげな笑みを浮かべて、私の肩越しに視線を投げた。
「先輩も、その方がうれしいですよね?」
「そりゃそうだ」
 途端、主任の声がすぐ背後でしたから、跳び上がりそうになってしまった。私たちが話をしている間に、いつの間にか後ろにいたらしい。
 私が振り向いた時には更に近づいてきて、すぐ隣に立った。
「次に集まる時は五人で、だな」
「ですね。先輩の惚気話、楽しみにしてます」
 霧島さんが鼻を鳴らすように言うと、主任も即座に言い返した。
「任せとけ。相当長いぞ、覚悟してろよ」
 そのやり取りを私は、何となく戦々恐々と聞いていた。でも長谷さんがおかしそうにくすくす笑っていたから、結局は一緒になって笑ってしまうことにした。

 来年もよろしくお願いします、の挨拶を残して、霧島さんと長谷さんは帰っていった。
 私と主任はその後ろ姿を、ついつい廊下まで出て見送ってしまった。並んで歩く背中だけでも仲睦まじそうなお二人だった。話している時は更に仲良さげだ。
「やっぱり、お似合いですよね」
 今こそ同意を得られるような気がしたから、さりげなく水を向けてみた。だけど主任はにやっとして、かぶりを振る。
「いや全然」
「えっ、そうでしょうか」
 ものすごく異論がある。どこをどう見てもお似合いの二人だと思うんだけどな。主任だって霧島さんに、長谷さんのことを『奥さん』なんて言っているのに。
「あんなにきれいな人を、もうじき人妻にしようって言うんだから霧島も悪い奴だよな」
 不満そうに、だけど笑いつつ主任はぼやく。
 悪い、かなあ。長谷さんなら人妻になっても間違いなくきれいだと思うけどな。私が思わず返答に詰まると、ひょいと肩を竦められた。
「ま、俺も他人のことは言えないか」
 もう一つ零してから、スーツのポケットに手を突っ込んで、ちりちり言う何かを取り出した。直後に私の手首を掴み、手のひらの上に乗せてくる。
 車の鍵だった。
「俺は戸締りしてから帰るから、先に車乗っててくれ。なるべくすぐに行く」
 主任の、あの車の鍵だった。
 託されたものの重大さに眩暈がした。勢い良く面を上げると、いい笑顔がぱっと映る。
「もうすぐだ。ちゃんと待ってろよ、小坂」
 雪が降っていても、今日の予定はキャンセルじゃないらしい。
 今年最後の仕事はもう終わった。今年最後かもしれないデートが、もうすぐ始まるのかもしれない。
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