Tiny garden

食欲と睡眠欲(4)

 仕事納めというのは、文字通り仕事が納まっていなければならない日だ。
 事前に受けた説明によれば、二十八日は午後三時で業務終了。その後は社内の大掃除をして、それから各課ごとに納会を行うらしい。今年の分の仕事はそれまでに終わらせてしまわなければならない。皆が仕事納めを迎えているのに私だけ納まっていなかったらまずい。
 私だって立派な営業課員。一人前とはまだ言い切れないけど、自分の仕事をやり切るくらいはどうにかなった。諸先輩からのアドバイスを胸に、一つずつ着実に、計画的に片付けた。――お昼ご飯が飲み物だけになったり、ラップトップを家に持ち帰ったり、それによって平均睡眠時間が三時間になってしまったりもしたので、総合的に見ると決して誇れる結果ではないものの。
 何にせよ、終わりよければ全てよし。あちこち削ったり無理を重ねたりしても、済むべきがきちんと済み、納まるべきが納まっていればいいのだと思う。空腹とも目の下の隈とも無縁の華麗な社会人生活については、来年改めて目指そうということで一つ。

 そして迎えた二十八日、午後三時。
 一年の汚れを落とす大掃除が始まった。
「小坂、小坂、見てみろよ! このバケツの水!」
 妙にうきうきとポリバケツを指差す石田主任。言われた通りに目をやると、中に張られた水は真っ黒に近い色をしていた。もちろん、掃除に使った雑巾を絞ったバケツだ。
「水が汚れるのもあっという間ですね」
 私は率直な感想を述べる。埃っぽいオフィスは汚れが溜まりやすいようで、雑巾掛けをするのに何度も水を換えなければいけない。日頃は目の届かないスチール棚の上や机の陰、コピー機の足元なんかは特に汚れていて、念入りな清掃が必要だった。
 そうして汚れていく水を見て、主任はものすごく楽しそうにしている。率先してあちらこちらの拭き掃除をしては、バケツの前に戻ってくる。嬉々として雑巾を洗う。
「おお、また一層黒くなった! そのうち墨汁が出来るぞ!」
 水を絞る度にはしゃぐ主任を横目に見て、私はぽかんとしてしまう。どうしてそんなに元気なんだろう。私なんて連日の睡眠不足で、時々あくびを噛み殺す羽目になっているのに。
 主任の傍ではあくび以外に、笑いも噛み殺さなくちゃいけなくなる。そのテンションについていけなくても、楽しそうにしている姿を見ていられるのはうれしい。こんな風にはしゃぐのっていつもの勤務中にはないことだ。
「お掃除がお好きなんですか、主任」
 一緒になって雑巾掛けをする合間に、こっそり尋ねてみる。
 そうしたら、
「違う。掃除じゃなくて、仕事納めが楽しみなんだ」
 取り澄まして言い返された。なるほど。
 実際、上機嫌なのは石田主任に限った話ではなく、営業課員に限った話でもなかった。社内で見かけるほとんどの人が、年末進行の頃とはまるで違う顔つきをしていた。ドア越しにどこかから笑い声が聞こえたりもする。勤務中なのに、会社の中なのに、いつもと違う雰囲気だった。
「納会では寿司も出るしな」
 主任の言葉で、私の意識は営業課へと戻ってくる。これまたものすごく楽しみな様子の笑顔。
 と言うか私も俄然楽しみになってきた。
「えっ、お寿司ですか?」
「楽しみだろ。小坂は食べるのが大好きだもんなあ」
 すかさず食いしん坊を見るような眼差しを向けられた。だけど反論するのも今更かと思って、そこは諦めておく。
 代わりに、興味の向くことを突っ込んで聞いてみる。
「お寿司が出るなんてすごく豪勢ですね」
 今日だってお昼ご飯を満足に食べていない。午後三時の終業時刻に間に合わせるので精一杯だった。お寿司って聞いただけで急速にお腹が空いてくる。
「いや、豪勢って言えるほど高級な奴じゃないぞ。期待はし過ぎるな」
 訳知り顔の主任は、それでも笑って付け足してきた。
「だが曲がりなりにも寿司は寿司。掃除してきれいになった職場で食べるってのも、なかなかいいもんだ」
 そうなんだろうなあ、と私も思う。

 会社でする納会なんて初めてのこと。
 お酒が出るとかお寿司が出るとか聞いていたから、ものすごく楽しみな反面、非日常的な感じにどきどきしてしまう。社内でアルコールなんて本当にいいんだろうか。誰かにいいんだと言われても、皆が普通に飲んでいたとしても、私は間違いなくどきどきしてしまうだろう。
 気分としては、子どもの頃に過ごした大晦日に似ているかもしれない。いつもは早く寝なさいって言われているのに、その日だけは夜更かしを許されていた。舟を漕ぎながら年越しそばを食べて、日付が変わるのを待っていたけど、お腹が一杯になるとてきめんに眠くなって、結局いつもより少し遅いくらいで寝入ってしまう。それでも普段は怒られるようなことが、その日だけは許されるというのが楽しくてしょうがなかった。
 納会でもそんな気分になるんだろうな。今日だけは許されることを、どきどきしながらもちゃんと楽しめるといい。
 お酒とか、お寿司とか!

「そうか、小坂さんは初めての納会なんですね」
 コピー機にモップを掛ける霧島さんが、腑に落ちた様子を見せた。
「会社でお酒やおつまみが出るって、不思議な感じがしませんか?」
「します! すごく不思議な感じです」
 勢い込んで答える。私みたいに初めての人じゃなくても、やっぱりそんな風に思うみたいだ。ほっとする。
「ですよね。俺も今年で六年目ですけど、まだ慣れた気がしません」
 霧島さんはそう言って笑い、主任もそこで深く頷いた。
「俺なんて八年目でも未だにそわそわするぞ。年末の空気は独特だよな」
 十分慣れている様子のお二人でさえそうだと言うんだから、私のどきどきだって仕方のないものなのかもしれない。
 これから何が起きるのかちっとも想像がつかないけど、不安はない。ただ、これからのことを全部来年まで覚えていられる自信もなかった。来年の私も、今みたいにどきどきしながら年末を迎えていそうな気がする。来年もこの時期は毎日お昼ご飯抜きで、目の下に隈を作っていそうな気もする。華麗さとはいつまでも縁遠い、そういう自分は簡単に想像出来てしまうから困る。
「ところで、小坂はどの寿司ネタが好きなんだ」
 雑巾掛けの間にも、主任はよく話しかけてくれる。並んで雑巾掛けをしてても、口と手を一緒に動かせる、大変器用な人だった。
 その点、私はあまり器用ではなかった。口と手を一緒に動かそうとすると、どっちも中途半端な仕上がりになってしまう。だから床を拭いている間に答えを考え、ややあってから声に出す。
「ええと、卵焼きが好きです」
「へえ、卵か」
 気のせいか、少し驚かれたようなニュアンスに聞こえた。魚好きの主任からしたら意外と言うか、的外れな回答に思えたのかもしれない。
 でもお寿司の卵って甘くて、しっかりしてて、家の卵焼きとはまた違った味わいなのがいい。美味しい。
「主任は、何がお好きなんですか?」
 雑巾を引っ繰り返すタイミングで聞き返すと、先方の答えは実に素早かった。
「俺は魚なら何でも好きだ」
 その後で、ほんのちょっと声を落として、
「だが最近は、鮭が一番好きだ」
 と付け加えたから、私は主任の顔をちらと見る。
 主任もちょうどこっちを見ていて、目が合ったら少し笑われた。つられてこっそり笑い返せば、更に小さな声で言ってきた。
「あれ、美味いな」
「お口に合いましたか」
 トーンを一層落として聞き返してみる。すぐに、頷いてもらえた。
「お蔭様で食欲も戻って、近頃はお替わりをするように」
「わあ、よかったです」
「俺も大概現金だよな。すっかり釣られた」
 そんなぼやきも聞こえたけど、別に現金じゃないと思う。美味しいおかずは食欲増進に繋がるものだから。
 それにしても、プレゼントに鮭フレークを選んで本当によかった。喜んでもらえたし、お役にも立てたみたいだし。すごくうれしい!
「――人のいる前で内緒話ですか?」
 ふと、他方からぼやく声。
 声の主は霧島さんで、並んで雑巾掛けをする私たちの傍まで来ると、私たち以上にトーンを落として、続けた。
「前にも言いましたけど、先輩は小坂さんを独り占めし過ぎです」
 ぎょっとする言葉だった。
「だから、何だよ」
 主任が不満げに口を開くと、霧島さんは苦笑気味に返した。
「皆も言ってますよ、『主任のガードが堅過ぎて、小坂さんに話しかける隙がない』って。小坂さんももう一人前なんですから、そう付きっきりでいることもないと思うんですけど」

 言われた時に初めて、営業課内からちらちら投げかけられる視線と、複数の意味ありげな笑顔に気付いた。
 皆が掃除をしながらも、どうしてかこっちを見ている。むしろ掃除よりも興味深そうに。我に返った私が、室内を恐る恐る見回すと、冷やかすような笑い声と口笛が飛んできた。
 ……ええと、これってつまり。
「そんなこと言われたって、独り占めなんてしてないよな?」
 さすがに気まずげに、それでも笑いながら尋ねてくる主任。
「小坂さんもたまにはがつんと言ってやってください。先輩は調子に乗る人ですから」
 むしろ同情的な視線を向けてくる霧島さん。
 だけどどちらの言葉にも、どう答えていいのかわからなかった。独り占めなんてそんなまさか。皆にそういう風に見られてたなんて思わなかった。否定したいけど、何だかもう頭が真っ白でまともな言葉も出てきそうにない。
 とりあえずぎくしゃく手を動かして、足元のバケツを持ち上げた。
「あ、あの、私、水を換えてきますっ」
 事実上の逃亡宣言。
 背後からは一層の笑い声と甲高い口笛とが追い駆けてきて、お蔭で足が縺れかけた。逃げっぷりまでてんで華麗さと無縁だった。
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