Tiny garden

食欲と睡眠欲(3)

 約束通り、二十四日の夜は少しだけ時間をいただいた。
 仕事の後だし、本当に少しだけ、五分くらいでいいですと言っておいた。でも主任は、車で来てるから、家まで送らせろと提案してきた。
「クリスマスイブだからな」
 地下駐車場へと向かう途中、主任がそう呟いた。
 申し訳なさもあったけど、一緒にいたい気持ちの方があっさり勝ってしまった。少しでも長くいられるなら、その方がいい。
「それに、お前から誘ってくれるなんて滅多にないことだ」
 指摘を受け、実にその通りだと私も思う。私の方から誘うような度胸は今までなかった。自発的にお誘いしたのはこれが初めてのはず。
 そう考えていたら、
「二回目だな、これで」
 私とは違う答えを主任が呟いた。並んで歩く隣を見やると、横顔で説明をしてくれる。
「前回は残業中に、社食でコーヒーを飲もうと誘ってもらった。覚えてるか」
「あ……! お、覚えてます」
 あの時のお誘いはほとんど勢い任せだった。何せ直前に、霧島さんと長谷さんの会話を目撃してしまったのがまずかった。あのお二人は本当に、恋人同士らしい会話をなさっていたから。
 主任も思い出しているのか、おかしそうに笑って言われた。
「あの日の小坂のうろたえっぷりは面白かった。何をしてたのかと思ったら、単に話してただけだって言うんだからな」
「でも、いざ目撃したら、やっぱりどきどきしませんか?」
「別に。あいつらの仲睦まじさなんて見慣れたよ」
 言い切った後で、ちらと私の方を見る。囁き声で付け加えられた。
「小坂だって、今じゃもっとすごいことしてるだろ?」
「す……ごいことって、あ、あのっ」
 どんなことだろうと考えかけて、慌てて頭の中から追い払った。主任の言いたいことは何となく、おぼろげに、薄々わかってはいるけど、今は考えてはいけない。これからプレゼントを渡すに当たって、あの頃のようなうろたえぶりでは格好つかないと思うからだ。
 尋ねたい衝動もぐっと堪えて、どぎまぎしつつ私は黙った。それをどう思ったか、主任はしばらくの間楽しそうにしていた。

 あの日、話をしている霧島さんと長谷さんに気付いた時、私はものすごくどきどきした。恋人らしいって、ああいうことなんだと思った。
 あれから三ヶ月が過ぎて、私の意識も少しは変わった。誰かの恋愛している姿を見てどきどきすることはあるだろうけど、それが他人事だとはもう思わない。私と主任はまだ恋人同士ではないけど、確かに恋愛はしている。好きな人に好きだと伝えるやり方を、ゆっくりとした歩みでも、徐々に学びつつある。
 学ぶ過程で辿り着いたのが今日のクリスマスイブだ。公私の私の方の成長も、ちゃんとお見せ出来たらいい。

 主任の車に乗せてもらうのも、およそ一ヶ月ぶりのはずだった。
 なのにすっかり慣れてしまったようだ。シートベルトを締めるのに手間取らなくなった。車高の高さもまるで気にならない。
 プレゼントを渡すタイミングもばっちりだった。運転席に座った主任が、エンジンを掛けるその直前に切り出せた。
「あの、これ、クリスマスプレゼントです」
 ほとんど不意を打つ格好になったせいか、主任には目を丸くされたけど。
「は? 俺に?」
「もちろんです!」
 見た目よりも重いデパートの紙袋。差し出してみても、すぐには受け取ってもらえなかった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔って、こんな感じかもしれない。
 やがて、息をつくように問われた。
「プレゼント、わざわざ買ってきてくれたのか」
「はい」
 私は頷く。主任が本当にびっくりしている様子なのが、何だか妙にうれしかった。
 ようやく紙袋を受け取った主任は、中身を覗き込んでいる。長方形の箱にクリスマス用の包装紙が掛かっているのを見つけてか、そこで表情をとろけるように緩めた。
「お前でいいからって言っといたのに」
 メールでも言われていたけど、相手は好きな人でもあり、日頃お世話になっている人でもあるからして、そうはいかない。
「そんな安上がりでは失礼ですから」
 きっぱりと私は答え、途端に複雑そうな顔をされてしまう。
「小坂は時々、ボケてるのかかわしてるのかわからない態度を取るよな」
「ええと、そうでしょうか?」
「まあいいや。……ありがとう、まさか貰えるとは思わなかったから、何かこう、ぐっと来た」
 主任が本当にうれしそうにお礼を言ってくれたから、私も些細な疑問は放り出して、しみじみと幸せを噛み締めてみる。喜んでもらえてよかった。
 もっとも、中身を見ても喜んでもらえてなくちゃいけない。
「で、開けてみてもいいのか?」
 包装されたままの箱を取り出し、ためつすがめつする主任。赤地のラッピングを見る顔つきがにこにことしていて、私までつられて笑んでしまう。
「是非。気に入っていただけるといいんですけど」
「小坂のくれたものなら何でもうれしいって」
 ありがたいお言葉の後、大きな手が丁寧に、優しく包装紙を剥がしていく。
 直に白い化粧箱の蓋が現れて、そこに印字された箔押しの商品名を、主任の声が読み上げた。
「――『鮭ほぐし』」
「はい。鮭のフレークです」
「鮭?」
「そうです。主任は、お魚がお好きでしたよね」
 私の知っている石田主任の好きなもの。それは魚と、小豆と、電化製品。
 残念ながら電化製品については知識がなく、何を贈っていいのかわからない。小豆は以前も手土産として渡しているし、近頃お茶漬けばかりだという主任にはあまり喜んでもらえないだろうと予想した。となると残るはお魚。それもお茶漬けに合う、食の進みそうな、塩気の強いお魚がいいんじゃないかと思った。
 デパートでは最初、クリスマスのギフトコーナーを探した。だけどそういう商品は見つからず、お歳暮コーナーへ足を向けたところでめぐり会えた。すかさず飛びついた。
「最近はお茶漬けばかりだとうかがっていましたし、食事の支度をするのも大変だというお話でしたよね。主任には元気でいて欲しいですから、是非これを召し上がって、仕事納めまで乗り切ってください」
 好きな人の為に用意した、精一杯のプレゼント。喜んでもらえたらいいと思って、私は素直な気持ちを打ち明けた。
 でも当の主任には、少し微妙な顔をされていた。
「も、もしかして、鮭はお嫌いでしたか?」
 気になって尋ねると、そうじゃない、とかぶりを振る。
「俺が食欲ないって言ったから、これを買ってきてくれたんだよな?」
「はい、そうなんです」
 正直に頷く。
「それでクリスマスプレゼントを、まるでお歳暮みたいな、色気もへったくれもない鮭フレークにしようと考えたんだな?」
「はい」
 もう一度、やはり私は頷いた。
 主任は膝の上に箱を乗せ、蓋を開けてから、瓶の一つを手にとって眺めている。表情はやはり複雑そうで、でも瓶の中身は美味しそうな、いいサーモンピンクをしている。
 溜息の後に言われた。 
「お前って、本当に可愛い奴だな」
「えっ!? な、な、どうなさったたんですか急に!」
 いきなりそんな、どきっとするようなことを口にされたらこっちはどうしようと思ってしまう。可愛い、なんて言われ慣れてる単語のはずだけど、今はすごくときめいた。エンジンの掛かっていない、静かな車の中だから、だろうか。
 化粧箱の蓋を閉めた主任が、なぜか力なく告げてきた。
「惚れた欲目って奴なんだろうな。お前のやることなすこと全部可愛い。明らかにツッコミどころだろうってとこでも突っ込めないくらい、心底惚れてる」
「あ……」
 可愛い、以上にすごいことを言われてしまったような気がする!
 虚を突かれた私は、あたふたしながらお礼を言う羽目になった。
「そ、その、ありがとうございます。喜んでいただけてうれしいです」
「礼を言うのは俺の方」
 再度かぶりを振ってから、呟くように続いた。
「疲れてる時ほどお前の可愛さが身に染みる。お蔭で食欲も出そうだ」
 その口調が本当に疲れているようで心配にもなったけど、食欲が出るならひとまずは安心。私がほっと胸を撫で下ろした時、なぜか右手を掴まれた。
 強く握られてもシートベルトのせいで引き寄せられることはなく、ただ目が合った。
「小坂、俺は――」
 つり目がちの眼差しが真剣だった。
「お前に貰っといて何だが、クリスマスプレゼントは用意してなかった。悪いな」
「え……あ、そんな、別にそんなのいいんです」
 私はかぶりを振ろうとしたのに、ぎくしゃくするあまり上手くいかなかった。日頃の感謝と気持ちとを伝えたかっただけで、プレゼント交換がしたかった訳じゃない。だからちっとも気にしないのに。
 その間にも主任は語を継ぐ。
「よくない。だから、後で必ずお返しをする」
 冗談の色は微塵もない調子だった。
「二十八日の、納会の後。用事はあるか」
「えっと、二十八日ってことは、仕事納めの日……ですよね?」
 なかったと思う。
 と言うより、説明は受けたものの仕事納めや納会で何をするのかがいまいち掴めていなくて、どの辺りで帰れるのかもわからなかったから、予定の入れようがなかった。
「そうだ。納会が終わったら、空けといてくれ」
 熱っぽい口調で念を押された。
「その時に今日の、プレゼントのお返しをする。必ずだ」
 握る手の力は強かったけど、痛くも辛くもなかった。もっと強くされてもいいくらいだった。意識ごと熱に浮かされてしまったみたいに、私はぼんやりしていた。
「わかったか?」
 確認された時も、ふらふら顎を引いていた。
 私の様子を見てか、主任はそこでようやく笑ってくれた。そして素早く顔を寄せてきた。
 頬っぺたに柔らかい何かが触れた時は、さすがにはっとした。息を呑む私に、身を離した主任がもう一度笑う。
「この続きも仕事納めの後だ。忘れるなよ、小坂」

 直後、車のエンジンが掛けられて――そういえばまだ、会社の駐車場にいたのだと気付いた。
 よかったんだろうか。いや、多分、誰にも見られてないだろうけど。見られてなかったと思うけど。でも無用心じゃないかなと思う。いろんな意味でどきどきする。二十八日の約束も、それを告げられた時の口ぶりも、頬に残る感触だってそう。
 家まで送ってもらう間もひたすらどきどきしていた。
PREV← →NEXT 目次
▲top