Tiny garden

食欲と睡眠欲(1)

 遂に、社会人として初めて迎える年の瀬がやってきた。
 覚悟は出来ていたから、それほど戸惑うことはなかったように思う。仕事の濃度はお盆前後以上だったし、お昼の休憩にも入れないほど忙しい日も幾度となくあった。だけどそういう忙しさに、身体がついていけるようになっていた。ここぞとばかり、実家暮らしの気楽さに甘えた。何時に帰ってもご飯があるというのはありがたいことだった。お昼抜きでもどうにかやっていける。
 そんなこんなで、十二月の〆日まではどうにか乗り切った。
 だけどそこは初めての年末進行。新人の私が想像だにしないような難関もあったりする。

 例えば年賀状。
 私は今年、人生で一番たくさんの年賀状を書いた。しかも〆日を過ぎたばかりの数日間に、大慌てで仕上げる羽目になった。
 なぜかと言うと、すっかり油断していたからだ。
 学生時代は親戚と、一部のマメな友人にしか出していなかった。年賀状を出すという風習が廃れ始めているらしい昨今、私もご多分に漏れず、年賀状より年賀メールの方に比重を置いている有様だった。いざ仕事として出すとなると、宛名が真っ直ぐ書けていないのが気になり、挨拶文一つにも頭を悩ませ、そして最後の最後で郵便番号を書き間違えたことが発覚したりする。書き慣れていないせいで、やたら時間を掛ける結果となってしまった。しかも出すべき枚数は過去最高と来ているから厄介だ。
「小坂、投函はもう済ませたか」
 主任からの確認を受け、私はよろよろと頷く。
「お蔭様でどうにか済みました。今朝方出してきたところです」
 年賀状の宛先は主に取引先の皆さん。もちろん社内でお世話になっている皆さんにも書いたけど、取引先宛ての年賀状には社名が入っていたから文面にはことさら気を遣った。書き終えてみれば去年の約四倍の分量になっていた。さすがに退勤後、帰宅してからの作業では追い着かず、一昨日昨日と、土日の休みを利用してまで取り組む羽目になった。
「こんなにいっぱい書いたの初めてです」
 書き終えた翌日は利き手が筋肉痛気味だった。その手をさすりながら私が言うと、主任には同情的な目を向けられた。
「でも、一年目だからこんなもんで済んでるんだぞ」
「えっ……」
 絶句。
「来年はもっと増えてるはずだ。挫けずに頑張れよ」
 今から来年の分を励まされて、うっかり気が遠くなりかけた。去年の四倍でも信じられないくらいだったのに、それ以上の枚数なんて、ちゃんと書き切れるだろうか。今から手首を鍛えておいた方がいいだろうか。
 ルーキーの私であれだけの量だと言うのなら、主任はどのくらい書いたんだろう。気になったので聞いてみた。
「なら、主任はもっと大変だったんですね、年賀状書き」
 すかさず主任はにやっとする。
「俺はばっちりだ。十一月のうちから取り掛かってたからな」
 さすが、計画的だ。
「だが気を付けろよ。前もって用意しとくと欠礼の分を見落とすことがある。早めに仕上げても投函は少し待った方がいい」
 是非覚えておこう。来年は今年以上に枚数が増えているのだろうし、私も計画的に片付けていく必要がある。と言うか今年は用意を始めるのが遅かったみたいだ。初めての年末進行に気を取られ、すっかり出遅れていた。
「参考になります」
 私は深々と顎を引く。
「昨日の夜はまるで、夏休みの最終日に宿題を片付けている気分でした」
「ああ、わかる。いかにもって感じだ」
 主任も腑に落ちた様子で頷いていた。
「始業式当日、必ず一人はいるんだよな。今のお前みたいに徹夜明けって顔してた奴」
 最終日に泣きながら宿題をやっつける小学生の気分を、この歳になって味わうとは思いもしなかった。明け方の三時間くらいしか寝ていないので、きっと顔にも出ているんだろう。実家暮らしの恩恵を受けていながらこの体たらく、やっぱり年の瀬は恐ろしい。
「眠いか、小坂」
 それでも、言い当てられたら慌てたくなる。せめて見た目だけでもしゃきっとしていなければいけない。
「ね、眠くないです。平気です!」
 すると主任はほっとしたように笑んだ。
「いい返事だ。仕事納めまであと少しだぞ、頑張れよ」
「はいっ!」
 頑張れ、という言葉もそうだけど、一緒に向けられた主任の笑顔に、これはもう是が非でも頑張らないとと思ってしまう。
 私のモチベーションは仕組みが単純だ。だから初めての年末進行も、どうにかこうにか乗り切れそうなのかもしれない。何せすぐ傍に、私を見ていてくれる人がいるんだから。

 年賀状の件を抜きにしても、とにかく仕事に追われていた。
 仕事量自体が急増したという訳ではないけれど、忙しいのは我が社だけではなくてどこもかしこもそうだ。取引先のあちこちがばたばたしているから、例えば打ち合わせの約束に遅刻されたり、急な呼び出しを食らって飛んでいく羽目になったり、逆にこちらが貰った連絡を受け取れず、いつの間にか留守電が溜まっていたりする。
 他社の方とお会いする時、二言目には『忙しいですねえ』と口にするようになった。疲れた顔の人、二日酔い気味の顔の人もちらほら見かけた。かく言う私も、最近はビタミンCのタブレットを常備している。あれ以来大量に飲む機会は訪れていないけど、備えあれば憂いなしと言ったところだ。
 ともあれ、そんな風に慌しい毎日だから、カレンダーの並びにも疎くなった。数字がいくつか、赤いか黒いかだけが重要で、その日付が何を意味しているかまでは頭に入ってこない。外回りの途中、ふと立ち寄ったコンビニでクリスマスソングを聴いて、そういえばクリスマスが近いんだなあと思う程度だ。
 学生時代なら、もっとこの時期を意識していたはずだと思う。いつも十二月に入ったうちから浮かれていた。ジングルベルが聴こえたらもううきうきして、ケーキの予約も早々に済ませて、友達とパーティの計画を立てたりして。とにかく待ち遠しいほど楽しみだったクリスマス。
 だけど今年はうってかわって、他人事みたいに受け止めている。二十四日も二十五日も勤務だし、それどころじゃないのはわかっている。だけどふと我に返った時、ちょっと寂しいなとも思ったりする。

 と言う話をしてみたら、
「いいんだよ、クリスマスなんてなくても」
 主任はばっさりと、十二月のメインイベントを切り捨ててしまった。
「大体、十二月のくたびれた胃腸じゃチキンだのケーキだのは受け付けられない。九時十時に家に帰って、そんな重たいもん食べる気になるか?」
 まくしたてられて、私は首を捻る。
 確かに夜遅く帰った後は、脂っこい食事は控えたくなるかもしれない。クリスマスと言えばローストチキンにケーキと相場が決まっているものの、それらは深夜に食べていい品々ではない。
「太っちゃいますもんね」
 そう思って答えると、途端に訝しそうな顔をされた。
「いや、太るかどうかって問題以前の話だろ」
「そうなんですか?」
 私からすると、最もたる懸念材料が太るかどうかなのに。それ以外に重大なことでもあるんだろうか。
 考えているうちに重ねて問われた。
「散々仕事して、夜遅くに帰って、それから脂っこい飯を食べる気力がお前にはあるのか?」
 気力と言われても、用意されてる晩ご飯がその二つだったら、きっとお腹が空いてるだろうし普通に食べる。仕事の後のお肉も甘いお菓子も、きっととびきり美味しいはずだ。
「一日くらいなら、自分へのご褒美ってことで美味しく食べてしまうと思います」
 私の回答に、今度はショックを受けた様子の石田主任。
 ぼそりと言われた。
「今、小坂との歳の差を痛烈に実感した」
「え? え? どういうことですか?」
 歳の差とチキンとケーキの関係がぴんと来ない。こんがらがっていれば、居合わせた霧島さんが加わってきて、曰く。
「小坂さんは胃腸が丈夫なんですね」
「そ、そうでしょうか……確かに頑丈に出来てる方だとは思いますけど」
 いきなり誉められたようでうろたえつつ、だけど少し考えてその言葉の意味がわかる。つまり主任や霧島さんは、夜遅く帰った後にチキンやケーキは食べられない、受け付けないってことなんだろう。
「いいよなあ、二十三歳」
 いつだったか聞いたような台詞を、主任は羨ましげに口にした。霧島さんが苦笑しながら後に続く。
「本当です。俺なんて、この時期の夕飯はあっさりしたものしか受け付けないですよ」
「俺もだ。ここ数日は食欲もなくて、毎晩お茶漬けだよ」
「帰ってからでは作る気力だってないですしね」
「霧島はまだいいだろ、奥さんがいるんだから。こっちなんて独り身だぞ」
 主任がやっかむように唸る。
 そこで霧島さんは、困ったような照れ笑いを浮かべた。
「まだ結婚してないですよ。それにこの時期は、彼女だって暇じゃないんです」
 彼女、と口にした時、一層照れたように見えた。
 さておきこの時期はどこの部署だって忙しいはずだった。長谷さんのいる秘書課だって例外じゃないんだろう。師走の名の通り、誰もがばたばたと追われるように忙しいのが十二月、のようだ。
「それにしても、小坂さんの胃腸が羨ましいですよね」
「全くだよな」
 話は戻り、お二人はしみじみと顔を見合わせている。
 多少の居心地悪さを覚えたものの、これが若さの特権って奴なのかもな、とも思う。
 ルーキーでいるのは悪いことばかりじゃない。年の瀬の忙しなさに押し流されつつ、それでも持ち堪えていられる体力がありがたい。無理の利くうちにもっと頑張っておこう。今年のうちにいろいろ学んで、来年以降にきっちり活かそう。

 気を引き締めて、土日で溜め込んだ眠気をえいやっと追い払う。
 十二月も下旬、仕事納めを目前にして、気持ちはしっかり前を向いていた。
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