Tiny garden

食欲と睡眠欲(2)

 二十二日の退勤時刻は、午後九時三十六分だった。
 タイムレコーダーにカードを通すと、どっと眠気が押し寄せてきた。くたびれた。眠い。土日の眠気が今日まで残っている。
 明日は水曜日だけど祝日だからお休み。いい機会だからしっかり身体を休めようと思う。残業続きでばたばたしていたここ最近、若さを過信し過ぎるのもよくない。
 この時期、残業が常態化しているのは私に限った話ではなく、そして居残っているのは営業課員だけでもないようだった。年の瀬の忙しさに加えて明日が祝日だからか、この時間でも方々の部屋に明かりがついていた。人のいる気配や話し声もして、どこもかしこも忙しそうだ。
 廊下の肌寒さ以上に、十二月らしさを感じる瞬間だった。

「小坂、お疲れ」
 タイムレコーダーの前で、あくびを噛み殺そうとしたら、急に声を掛けられた。主任の声だ。
 振り向けばちょうど廊下を歩いてきたところで、どうやらコピーをして戻ってきたらしい。手に数枚の書類を提げている。
「あっ、お先に失礼します、主任」
 今日一日の疲労を追いやり、背筋を伸ばして挨拶をする。主任の目に止まる時は、いつでもいい表情でありたかった。そう思ったらいつでも不思議と笑えた。今も然り。
 私の傍まで近づいてきた主任は、そこで悔しそうな表情になった。
「送ってやれなくて残念だ」
 周囲を気にしてか、声を落として言われた。この時期は誰だって忙しい。上に立つポジションなら尚のことそうだ。近頃の主任は本当に忙しそうにしていて、夕ご飯はお茶漬けしか入らないと言うのも、少しわかるような気がしていた。
 告げられた内容に関しては、大急ぎでかぶりを振っておく。当然、こちらも小さな声で。
「そんな、お気持ちだけで十分です。うれしいです」
 今月に入ってからは、一緒に帰る機会もほとんどなくなっていた。
 もっとも私からすれば、主任に車で送ってもらうということに若干の申し訳なさもあって、こんな風に気を遣われるとかえって恐縮してしまう。私の方こそ、ろくにお返しも出来ていないのが心苦しい。せめてマイカー通勤だったなら、逆に主任をお送りすることも出来たのに――その為にはまず車を買うところから始めないといけない。実家暮らし、貯金を作り始めたばかりのルーキーには、いささか厳しい。
 だからそれ以外の部分でお礼が出来たらいいんだけど。
「俺が送りたかったんだよ」
 それで主任の顔には、ちらと微かな笑みが浮かぶ。
 いつもの自信に溢れた感じとは違う、だからこそ余計に大人っぽい笑い方。
「今日は冷え込んでるからな。気を付けて帰れよ」
 掛けてくれる言葉は優しい。心がほんのり温かくなる。
「はい。ありがとうございます」
「天気予報じゃ雪が降るかもって話だ。今頃はきっとかなり寒いぞ」
 主任の視線が廊下の窓へと投げかけられ、つられるように追ってみる。ガラスの向こうは真っ暗で、蛍光灯の明かりだけが白く映り込んでいる。今はまだ、雪がちらついている気配もない。
 今日降ったら、初雪になる。
 さすがに今年は、ホワイトクリスマスなんて望みもしない。車で通勤する人にとっては大事だろうし、私自身も外回りなどで影響を受けたりするから。
 でも、去年までの私なら確実に雪景色を望んでいた。そう思うと雪を毛嫌いする気にもなれない。なかなか複雑な心境だった。
「主任も風邪を引かないよう、お仕事頑張ってください」
 私がやはり小さな声で告げると、主任はわざとらしく首を竦めてみせた。
「小坂に看病してもらえるなら、風邪引くのも悪くないな」
「だ、駄目です。是非、元気でいてください」
 当たり前のことだけど、いつだって主任には元気でいて欲しい。そりゃあもしものことがあれば、何でもするつもりではいるけど。そういう時こそ頼ってもらえたらとは思うけど、でも風邪を引かずにいてくれる方がずっといい。
「わかってるよ、言ってみただけだ」
 もう一度笑んだ主任は、既に営業課のドアへ手を掛けていた。
「お前も若いからって無理しないで、明日はゆっくり休めよ。明後日、眠そうな顔して出てこないように」
「気を付けます」
 答えてから最後にもう一言、例によって小声で付け足しておく。
「今日帰ってからも、明日も、メールしますから」
 そうしたら、すごくうれしそうな顔をしてもらえた。
「楽しみに待ってる」

 好きな人を喜ばせる方法がある、というのは幸せなことだ。
 近頃の私はそのやり方を、ちょっとずつだけど学んできていると思う。
 学んでみれば大抵はごく些細な事柄だった。例えば事あるごとにメールで連絡を取るとか、時々それを電話に変えてみるとか、空いた時間にふと、主任のことを考えてみて、そうして考えたことを本人に伝えてみるとか。
 想うだけじゃなくて、実行に移すこと。相手にわかってもらえるように伝えることが大切なのだと思う。私が心の中で想いを募らせたところで、それを読み取ってもらうのは不可能だ。好きな人を好きでいる、それだけでは足りない。確かな気持ちを、伝わるように表せなければならない。
 恋愛するってそういうことなのかもな、とわかった風なことも思ってみる。これについてはまだ、当面は自信も確信も持てずにいるけど。

 着替えを終えて退社すると、天気予報通り、ちらちら雪が降り始めていた。
 手袋を填めた手のひらの上、小さな一つを受け止めてみる。――初雪だ。
 アスファルトの路面にはまだ積もっていない。この降り方だと多分積もらないと思う。ただ明日の朝は要注意だ、道路が凍っているかもしれないから。肩を竦めながら、駅までの道を早足で歩く。
 街灯や信号機の放つ光の中、細かな雪が静かに落ちていく。白い吐息は雪よりも早く、冷たい空気に溶けてしまう。夜遅いビル街は人気がなくて、ブーツの足音だけがこつこつと響いた。
 帰ったら、主任にメールをしよう。歩きながら文面を考えるのがすっかり習慣になっていた。どんなことを書いたら喜んでもらえるかなと考えつつ、伝えたい言葉を胸のうちに並べてみる――雪が降ってきましたし、本当に冷え込んでいますから、風邪を引かないようにしてください。
 そこまで考えて、何となくおかしくなって、少し笑う。
 初雪の降った日だって言うのに、クリスマスが近いって言うのに、何だかロマンのかけらもないメールになりそうだ。もっと可愛いことを書いた方がいいのかなとも思ってみたけど、真っ先に浮かんでくるのは心配事ばかり。主任は車で帰るはずだから、雪が降っていたら手間取っちゃうだろうな、寒いと車に乗り込んですぐが堪えるだろうな、なんてことを次々と考えてしまう。
 雪を純粋に喜べたのは子どもの頃だけだった。
 クリスマスを祝えたのも、去年までのことだった。
 だけど今の私も、その両方が嫌いになった訳じゃない。雪もクリスマスもケーキもチキンも、本当は今でも全部好き。ただ、それを好きでいられる時間が減ってしまっただけのことだ。

 主任は『好きな人と過ごす、初めての年末進行』をロマンチックだと言っていた。
 私はまだ、年の瀬の慌しさにロマンを見出せてはいない。忙しい中でも好きな人のことを考えてしまうのはごく当たり前だと思うし、その時、忙しさや寒さのせいでついつい心配が増えてしまうのは困るなとも思っている。夕ご飯にお茶漬けしか食べられない主任が気がかりだった。絶対に、風邪なんて引いて欲しくない。元気でいて欲しい。
 ロマンを見つけられていないから、どうにかして掘り起こしたくなる。あってないようなものと通り過ぎてしまいそうなクリスマスを、何となく、気にしたくなる。
 主任は『クリスマスなんてなくてもいい』とも言っていた。だけどそういう人の為に、クリスマスにかこつけて何かしようと企むのは、別に悪くないと思う。
 去年までだってこの日は私にとって、パーティをする為にあったようなものだ。今年はそれを、好きな人に贈り物をする為の日と変えてしまったって問題はないはず。日頃の感謝を込めて、今までのご恩を少しでもお返しするつもりで、それから私の気持ちを精一杯、形にして伝えるべく、何か贈り物をするのはどうだろう。
「……いいかも」
 白い息と共に独り言を呟いてみる。
 雪のちらつく道で立ち止まった私は、思い浮かんだアイディアについにまっとした。主任の為にクリスマスプレゼントを贈る。きっと喜んでもらえるはずだ。我ながらこれは名案だと自画自賛したくなる。
 振り返ってみれば、七月。主任の三十歳のお誕生日には何も贈っていなかった。あの日は一銭も払わせてもらえなかったし、逆にあれこれと気を配っていただいて、まるで私の方がもてなされていたみたいだった。
 だからクリスマスくらいは何かしよう。うん、決めた。幸いにして明日はちょうど、祝日だ。


 二十三日は、うっかりお昼まで寝てしまうところだった。
 どうにか午前中のうちには起きて、身支度を整え、買い物に出かける。
 好きな人の好きなものは、まだちょっとしか知らない。でも全く知らない訳でもない。私なりに考えて、主任が喜んでくれそうなプレゼントをしようと思った。主任のお役に立てて、でも気を遣われない程度の価格帯で、やっぱりうれしそうな顔をしてもらえそうな贈り物。デパートをうろちょろしながら考えに考えた末、どうにかその日のうちに決められた。贈答用のきれいな包装もしてもらって、プレゼントの準備は出来た。
 買い物を終えて帰宅してから、主任にメールを送った。
『明日はクリスマスイブですね。勤務の後、ほんの五分程度で構いませんので、お時間をいただけませんか?』
 ロマンのかけらくらいは潜めたメールにしてみたつもりだ。
 その返信は、三十分もしないうちにあった。
『わかった、なるべく退勤時刻を合わせるようにする。プレゼントは小坂でいいからな』
 ――あれ。何の用事かってばれているような気が。
 まあいいか。そもそもクリスマスイブの用事なんて、私じゃなくてもわかりやすいことこの上ない。びっくりさせるのが目的じゃないんだから、それでいいと思う。
 あとは明日、眠そうな顔をしていないように気を付けないと。
 でも、土日とは違う意味で、眠れない予感がしているから困る。
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