Tiny garden

ただいまとおかえり(8)

 車で来ているから送っていく。
 そう言われた時、私は久し振りに何と答えようか迷った。
「駅に車を置いてたんだ。当初の予定では金曜の朝に戻ってくるつもりだったから、すぐ家に帰れるようにな」
 いつもの通勤鞄の代わりに、ドラムバッグを提げた主任が言う。預かっていた鍵を手渡すと、それを指先に引っ掛け、くるくる回してみせる。
「予定こそ変更になったが、車置いといたのは正解だった。お蔭でお前を送ってってやれる。乗ってくだろ?」
 問われて、私はおずおず聞き返した。
「でも主任は出張から帰ってきたばかりですし、お疲れではありませんか」
 ここ最近のお誘いは、なるべく遠慮をしないようにと自分に言い聞かせてきた。石田主任は遠慮されるのが好きではない人。私と一緒にいたいと思った上で、誘ってしてくれたのだから――そう捉えていたから、断る気にはなれなかった。
 それでも今日みたいな日は、何よりもご自身の体調を優先させて欲しいと思ってしまう。
「復路は電車だったからな。飛行機よりは寝易かったし、疲れてない」
 嘘のない口ぶりで主任は言う。
「お前には俺が、疲れてるように見えるか?」
 実のところちっとも見えなかった。営業課に現れた直後は多少なりともくたびれた様子でいたはずなのに、今となってはもう、疲れの色はどこからもうかがえない。表情はいきいきと輝いている。
 だから正直に答えた。
「見えないです」
「そうだよな? じゃあお前が心配することなんて何もない」
 断言した後で、からかうような笑い方をされた。
「それに小坂こそ、どうやら二日酔いの様子じゃないか。素直に送られた方が楽だろうに」
「え! お、お気付きになりましたか……」
 朝よりは大分ましになったものの、二日酔いの名残は引きずったままでいた。数日顔を合わせなかった主任にすら見抜かれるとは、やっぱりばればれだったんだろうか。しょげたくなる私に、ふとこんな言葉が向けられた。
「そりゃ気付くよ。いかにもって顔してるんだからな」
 こっちが慌てふためくくらい、柔らかく笑んだ顔で言われた。
「お前に会いたくてしょうがなくて、予定を変えてまで帰ってきたんだ。霧島もせっかく気を利かせてくれたんだし、少しくらい付き合えよ」
 そういう誘い方をされて、断れるはずもない。
 何だかんだで会いたい気持ちは、私の方も持ち合わせている。容易く見抜かれるような二日酔い患いでも、その気持ちを封じることなんて出来はしなかった。心の中で霧島さんに感謝をしつつ、頷いた。

 帰り支度と営業課の施錠を終えてから、二人で地下駐車場へと足を向けた。
 久し振りと言うほどではないけど、何日かぶりに乗せてもらったSUV車の中。シートベルトを締めようとした私の手が、いきなり制された。
 むしろぎゅっと握られた。
 もちろん、運転席からだ。
 主任の手は大きくて、少しひんやりしている。手を繋ぐのは本当に久し振りだったから、身体が竦んでしまった。それでも強く握られたまま、ゆっくりと視線も繋がってゆく。
 うれしそうに目を細められると、どうしていいのかわからなくなる。一緒になって笑いたい、むしろにやけたい気分なのに、緩んでしまう表情は見られたくない。それでなくても頬っぺたが熱くて、不格好なことこの上ないのに。
「小坂」
「は、はいっ」
 裏返った声の返事を笑われることはなかった。そのまま主任は続けた。
「お帰りのちゅーは?」
「――ええ!?」
 いきなり何を言われるかと思えば!
 呆然とする私の目の前、うれしげな顔が近づいた。触れるには至らない十センチ前後の距離。探るように、確かめるように尋ねてくる。
「当然、してくれるもんだと思ってた。違ったのか?」
「ええとっ、ちっとも考えてなかったです! うちにはその、そういう文化がありませんでしたから、それであの――」
 もしかすると主任のご家庭ではごく普通の文化だったりするのだろうか。あいにくとうちの両親がそういうことをする人たちではなかったので、いきなり言われると面食らってしまう。これぞまさにカルチャーショック。
「文化って何だよ。いきなりそんな難しい話になるのか」
 そこでようやくおかしそうにした主任は、だけどまだ私の手を離さなかった。顔と顔と間の距離も変わらなかった。笑みがすうっと穏やかになって、じゃあ、と尚も続けられた。
「俺たちでそういう文化を作るってのはどうだ。お前が毎日俺に『お帰りなさい』を言って、毎日お帰りのちゅーをする。それを当たり前の習慣にするっていうのは」
「ままま、毎日、ですか」
 そんなエブリデイは私の心臓が持たない。始終ショートしてぷすんと煙を出していそうだ。私が主任を毎日、お迎えできる位置にいられるなんて、それって何だか、想像するのもおこがましいけど何だか、すごく、いわゆる――新婚さんみたいだ。
 単語を連想しただけで再び酔いが回りそうになる。くらくらし始めた私の手は、突如強く握られた。引き戻すように。
「な、いいだろ? 毎日俺の為にお帰りなさいって言ってくれよ」
「ひいっ、あの、その、ええと」
「大丈夫だ、キスだって毎日やってりゃ慣れるって」
「な、慣れるってそんな、だって、あの」
 おこがましい想像と告げられた台詞とに挟まれて、まともに返答も出来ない私。想像だけで気絶しそうな勢い。無理無理、絶対無理です。
 とそこで、主任が片眉を上げた。
「だったら、お前の酔ってる時に、同じことを聞いてみようか」
 あえて笑いを作ったような、苦々しい表情が私を見据える。

 反射的に息を呑んだ。
 何かが変質した。車内の空気か、それとも目の前にいる人の表情か、その内にある見えないものか。
「お前の本音は昨日聞いた」
 低い言葉に交じった吐息が、唇に触れた。
 地下駐車場のオレンジがかった光をかすめるように受けて、陰影がくっきりと浮き上がった表情。見慣れた好きな人の顔つきに、見たことのない色が過ぎった。先の見通せない暗い色合い。鼻筋と唇の影はぞくっとするほど形がきれいだ。
 そして眼光は鋭い。
 つり上がった両方の目に捉えられると、逃げ出したくなる衝動に駆られた。
 でも逃げ場なんてどこにもない。手を繋いでいるから、車の中だから、それ以上に相手が他でもない、石田主任だから。
「次は、もっと深い本音を聞かせてもらう」
 すぐ目の前で言葉が重ねられていく。
「その時は逃げるなよ、小坂」
 呟くように言った後、近づいていた顔が離れて、主任の空いている右手がエンジンを掛ける。
 直に振動を始めた車内、空調の風が吹き込んできた。
 静寂は打ち破られても、私は声を出せずにいた。主任の顔が離れても、そのまましばらく固まっていた。騒ぎ出せないくらいどぎまぎしていた。
 直前に言い渡された事柄は、キスを要求する言葉より、プロポーズ紛いの言葉よりもずっと心臓に悪かった。
 どうしてかまた、怖いと思った。
 言い知れない感覚に背筋がぞくぞくしていた。

「でもな、小坂」
 愕然とする私とは対照的に、主任はいつの間にか普段の声音を取り戻していた。エンジン音と空調で騒々しい車の中でも、はっきりと聞こえるように告げられた。
「ああいう酔っ払い方を他の奴の前ではするなよ。俺の前だけにしてくれ」
 念を押された。言葉以上に眼差しが真剣だ。
 言われた私はさっきの動揺がまだ収まらずにいる。だけど、酔うことに関して言えばどうしても、逆らいたくなった。深呼吸を何度か繰り返してから、反論してみる。
「その、おっしゃる通りああいう風に酔っ払うのはさすがにまずいと思いますし、それが主任の前でも、さすがに、ちょっと」
 酔いに任せて本音を口走った後の気まずさや、二日酔いのだるさを踏まえれば、酔っ払うことが正しいとは到底思えない。
 私の答えを、主任はどこか不満げに受け取る。
「何でだよ。俺の前ならまだいいだろ」
「そんな、駄目ですよ、みっともないです」
「可愛かったって言ってるのに」
 主任が私の手を解き、ハンドルを握った。手早くシートベルトを締める。私が、ぬくもりの残る手でもたつきつつ後を追うと、やがて車は動き出す。
「だから、他の奴には見せたくないんだよ」
 窓の外の景色が、夜のビル街に切り替わる。
 こちらを見なくなった主任が、それでも私へと語り掛けてくる。
「お前はもう俺のものだからな」
 私はずっと主任を見ている。右隣の運転席、すっかり目を離せなくなった好きな人の横顔を見ている。何度どぎまぎさせられても、心臓が止まりそうになっても、ごくたまに、怖くなるような感覚を味わわされても、惹かれている。
「それに俺だってお前のものだ。出張土産だって言ったよな」
 そうも言われた。
 現実離れした言葉に聞こえた。好きな人が自分のものになる、それってどんな感じなんだろう。私はまだ、主任が自分のものになればいい、なんて思ったことはなかった。
 でも他の誰かのものにはなって欲しくない。
 他の誰でもなく、主任の傍には、私が一緒にいたいとも思う。
 昨日の夜、酔いに任せて告げた言葉は嘘じゃない。次は素面の時にも、あんな風に言えるようになりたい。あれだけ酔っ払ったところをお見せするのはやっぱり、絶対に恥ずかしいから。
「持ち帰ってもいいぞ」
 不意に主任がそう言った。
 言葉の意味を掴み切れず、私が小首を傾げると、
「お前宛ての出張土産。いくらでもくれてやる」
「え? 持ち帰るって……主任を、うちにですか?」
「いや、さすがにお前の家はまずい。だから俺の部屋か、その辺のホテルにでも入るか」
「ええ!? な、何をおっしゃってるんですか!」
 聞き捨てならない台詞のオンパレードに眩暈を覚えた。
 一方、主任は喉を鳴らして笑い出す。
「持ち帰るってそういうことだろ。それとも何か、俺ごときじゃテイクアウトの価値もないってのか」
「……からかわないでくださいっ」
 冗談の気配をようやく見つけて、私は控えめに噛みつく。
 ハンドルを握る主任は笑っている。疲れの色なんて微塵も見せずに、楽しそうに。
「お前が二日酔いじゃなければな。逆にこっちが持ち帰ってたところだ」

 そういえば、二日酔いの最後の名残もいつの間にか消えていた。
 気だるさも頭の重さもまるで感じなくなっていた。
 もしかするとアルコール以上に強い力が、恋には潜んでいるのかも知れない。例えば疲れさえも吹き飛んでしまうような。コンディションの悪さも忘れてしまうような。
 でも、得体の知れないその力の強さが、私にはまだ少し怖い。だから今は黙っていようと思う。
 私も主任に、毎日『ただいま』と言われたいです。何よりのお土産を毎日、受け取っていたいです。――そんな台詞をいつか、お酒の力を借りなくても告げられたらいい。
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