Tiny garden

ただいまとおかえり(7)

 結局、その日は八時過ぎに退勤した。
 タイムカードを通した後、私用の携帯電話を確認する。メールが届いていた。既に電車を降り、これから駅を出ると主任が言っていた。メールの受信時刻は二分前。駅から我が社まではほんの五分の距離だから、本当にもうじき着くだろう。だったらここで待っていようかな、と思う。
 定時を三時間も過ぎ、社内はすっかり静かになっている。廊下で誰かを待っていたところで人目につくこともなさそうだ。営業課で残っているのも私と、鍵を預かっている霧島さんだけだ。霧島さんも主任を待つのだろう、帰り支度を終えてからも課内に留まり、ぼんやり思案を続けているようだった。

 朝から感じていたどぎまぎはまだ続いている。帰ってくる石田主任と、どんな顔を合わせていいのかまだわからない。
 ただ『いかにも二日酔い』な顔は、出勤時よりも大分ましになったと思う。
 二日酔いのだるさも、夕方頃にはかなり緩和されていた。きっと霧島さんの勧めに従い、ビタミンCと水分の摂取に努めたからだと思う。外回りを終えてからのデスクワークも辛くなく、普段通りのペースで取り組めたようだ。
 営業課オフィスへと戻り、改めてお礼を告げたら、やっぱり少しはにかまれた。
「気にしないでください。大したことはしていません」
「いえ、本当に助かりました! お蔭で今日の業務も普通にこなせましたし」
 どぎまぎしていようと二日酔いだろうと、業務は通常通りに行われた。
 朝のうちは、外回りに出るのが憂鬱だった。体調のせいよりも、むしろ『いかにも二日酔い』な顔をしているのが悩ましかった。昨日ご一緒した皆さんはともかく、他の取引先の方々は、私が前の晩にどれだけ飲んでいるかなんて知らない。どんな経緯でお酒を飲んだかも知らない。それで二日酔いの顔をお見せしたら、新人の癖に遊び歩いているように見えて、呆れられてしまうんじゃないかと不安を覚えていた。
 だけどそういった不安は、意外にも杞憂に済んだ。
 営業先の誰からも、何も指摘されなかった。気付いた上であえて黙っていてくれたのかもしれないけど、方々から突っ込まれるのを覚悟していた身としては、無礼にも拍子抜けしてしまうほどだった。
 もしかしたらそれも、営業課の優しい先輩の、アドバイスのお蔭なのかもしれないなって。
「お礼を言われるようなことでもないですから」
 照れ笑いの霧島さん。だけど十分、お礼を言うべきことだと私は思う。むしろ是非ともお礼を言いたかった。
「そんなことないです。このご恩は一生忘れません!」
「大げさですよ、小坂さん……あ、そうだ」
 言葉の途中で不意に、声が上げる。
「恩返しと言うのも失礼かと思うのですが、一つ頼まれてくれませんか」
「頼み、ですか?」
 お世話になった、営業課の先輩からの頼み事。どんなことだろうと疑問には思いつつ、断るつもりは全くなかった。
「はい、私に出来ることでしたら――」
 答えかけた私に霧島さんは少し笑い、見覚えのある鍵を差し出してくる。
 営業課の、戸口の鍵だった。
「これ、石田先輩に渡してもらえますか」
 冷たい金属は手のひらに、今はずしりと重かった。そう大きな鍵でもないのに、それがどこの鍵かわかったら、急に重く感じるようになった。その鍵を、新人の私が預かるのは初めてだ。
「俺はそろそろ帰ります。今日は運良く仕事も片付きましたし」
 時刻は午後八時を過ぎたところ。
 社内は、しんと静かだった。
「他の皆も、もう退勤してしまいましたしね」
 霧島さんの言う通り、ここに残っているのも私たち二人だけだ。そして霧島さんが帰ってしまっても、私は一人きりにならない。
 なぜかと言えば、もうじき、
「先輩ももうじき来る頃でしょうから」
 腕時計をちらと見て、言われた。
 私はなかなか声を発せず、おろおろしていた。優しい先輩の言わんとしていることは容易く察しがついた。でも、察しがつくのと呑み込めるのとはまた違う次元の話だ。
 つまり霧島さんは、私一人で、これからやってくる石田主任をお迎えするようにと、
「お、お帰りになる……んですか」
 ちっとも呑み込めていない私は、うろたえながら問い返す。
「主任がもうじき戻ってくるのに、霧島さんは、待っていなくてもいいんですか」
 霧島さんなら主任を待っているだろうと思っていた。だって普段から仲も良いし、出張中も私と同様、連絡を取り合っていたようだったし。まさかここで帰ってしまうとは思わなかった。
 でも、答えは何気ないそぶりで返ってきた。
「どうせ明日には嫌でも顔を合わせる相手です。今日のところは小坂さんにお願いします」
「え、あ、あのっ」
「ほら、何と言いますか、出張に対する労いという奴です」
 それから、他に誰もいない営業課内でも、十分潜めた声で続けた。
「先輩だって俺がいるより、小坂さんが一人で待っていた方が喜ぶはずです。お任せしました」
 言うなり霧島さんは、鞄とコートを抱えたまま、弾かれたように営業課を飛び出した。木枯らし以上のスピードで、あっという間に足音まで遠ざかった。
 だから私は返事も出来なかったし、あれ以上のお礼も、引き止めることも、お疲れ様ですの挨拶すら出来なかった。

 取り残されてみると、この期に及んで奇妙な感覚を抱いた。
 見慣れた営業課の景色に、もうじき主任が戻ってくる。たった三日間の出張なのに、久し振りにお会いするような、懐かしい気持ちになってくる。その間もメールや電話で連絡を取り合っていたのに、変だなあと思ってしまう。
 二日酔いの名残を引きずる頭がぼんやりと、事実と現実とを受け止め始める。
 霧島さんはきっと、私に気を遣ってくれたのだろう。ここで主任を待つことを、私に託してくれたのだろう。優しい人だから。
 私からすればそこまで気遣っていただかなくてもいいくらいだった。こうして他の誰かに、主任との関係を意識されるのはまだくすぐったい。
 だけど、先輩のお気持ちを無駄にするつもりもなかった。託されたからにはちゃんと言おう、お帰りなさい、という言葉を。二日酔いの顔と頭でも、昨日の気恥ずかしさを引きずっていても。
 会いたかった。ただいま、と主任の声が口にするのを聞きたかった。無事に帰ってきた姿を見たかった。

 手渡された鍵を握り締めた時、遠くから足音が近づいてきた。
 ――はっとする。
 足はだんだんと大きくなる。営業課のドアの前で止まる。その間、私は身動ぎもせずにいた。
 何も出来なかった。まだ済んでいない、帰り支度すら出来なかった。ただじっと目を瞠って、ドア上部のすりガラスに、人影が映るのを見つめていた。直後に響いた軽いノックの音にも、すぐには声が出せなかった。
「……はい」
 無様にかすれた返事をすると、すぐにドアノブが回った。
 ドアが開いた。
 ひょいと覗いた顔を見るのは、本当に久し振りのような気がした。月曜日に見たのとあまり変わらない顔をしていた。目にするだけで心臓が飛び跳ねて、その後で笑いかけられたら、ぷしゅうとパンクしてしまったようだ。
 主任が、営業課に戻ってきた。
「小坂、久し振り……ってほどでもないか。三日ぶりだな」
 まず、そう言われた。
 昨日は電話越しに聞いていた声。好きな人の、好きな声。直に聞くといてもたってもいられなくなる。頬が熱くなって、どきどきする。
 つり目がちの視線は室内をぐるりと見回して、少しだけ意外そうにしてみせた。
「あれ、小坂一人か? 霧島も残ってると思ってたのに」
「あ……」
 私はそれでようやく、まともに口を利けるようになって、
「霧島さんはつい先程、退勤しました。鍵を預かっています」
 馬鹿みたいに事務的な対応を、お帰りなさいの挨拶よりも先に告げた。
 他に言うことがあるんじゃないかな、と自分でも思った。霧島さんから任されていたのに。いい笑顔でお迎えするって、主任と約束もしていたのに。
 まだ、ちゃんと笑えていない。
「へえ。あいつも案外気が利くんだな」
 主任の口調は普段通りのフランクさに聞こえた。後ろ手でドアを閉め、自分の机のある方へと歩いていく。私の前を横切っていく。肩から提げた大ぶりのドラムバッグと、がさがさ言う白い紙袋とが目についた。どちらもいつもは見慣れないもの。
 紙袋だけを机上に置いた主任は、振り向きざま私に言った。
「課への土産、お菓子だからかさばってな。このまま置いてこうと思って」
 目が合うと、表情もよくわかった。見慣れていたはずの好きな人の顔が、やはり無性に懐かしく思えた。少しくたびれた様子もうかがえた。三日間の出張、それも最終日に強行軍での帰還となれば、疲れるのも無理はない。
 主任の目に、私はどう映っているだろう。二日酔いの顔をしているだろうか。真っ赤になってうろたえているだけに見えるだろうか。そのうちにこちらへと歩み寄ってきて、すぐ真正面で立ち止まった。
 たくさんの机が並ぶ、いつも通りの営業課オフィス。主任のいない間も平常どおりの業務が行われていた場所。だけどいてくれた方がいいなと、当たり前のことを思っている。
 ここに主任が帰ってきてくれた。今の気持ちはただただ、すごく、うれしい。他の気持ちはどうでもいい。今は要らない。
 言おう。
「……あの、お疲れ様ですっ」
 深呼吸の後で切り出すと、ばかに張り切った声量になった。
 それを聞いた主任は少し笑った。
「ああ。ありがとう」
 それから首を竦めて、ごく平然と語を継いだ。
「お前への土産は、俺ってことでいいんだよな?」
 真正面からそんなことを言われると、さすがに照れた。
 でも、先にそう口にしたのは私だ。酔っ払っていた昨日の私自身だ。アルコールの力を借りていたとは言え、発言自体を撤回する気はない。嘘ではないし、適当な発言でもないから。
「はい」
 頷いてから、笑ってみた。
 いかにも二日酔いな顔をしていようといまいと、好きな人の為ならいくらでも笑えた。むしろ笑わずにはいられなかった。好きな人が目の前にいるとわかったら、口元や頬っぺたが緩んでしまってしょうがなくて、うれしくて、幸せで堪らなくて、そうしたらするりと言えた。
「お帰りなさい。お待ちしてました、主任」
 目の前の表情からは、疲労の色が吹き飛んだような気がした。そう見えたのが私の自惚れじゃないといい。多分、消えてなくなった。
 はっきりとわかったのは、陰りのない満面の笑み。
「ただいま、小坂」

 その時、幸せな気持ちなのに、うっかり泣きそうになった。
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