Tiny garden

ただいまとおかえり(2)

 週が明けて、月曜日。
 今日の外回りは、なるべく早めに切り上げたかった。明日の夜の飲み会に備えて仕事を片付けたいのもあるけど、別の理由の方が大きい。
 だけどただでさえ忙しい時期。そうそう予定通りともゆかず、帰社したのは午後四時を過ぎたところ。私は慌しく車のエンジンを切る。

 車を降りた直後、思わず身震いしてしまった。夕方ともなると、コンクリ造りの地下駐車場はしんと冷え込む。十一月に入ったばかりでこんなに肌寒く感じるのだから、本格的な冬を迎えたら相当堪えそうだ。コートをクリーニングに出しておいたのは正解だった。明日辺りから早速冬物に移行しよう。この時期は風邪なんて引いていられない。
 冷たい空気に震えつつ、社用車の助手席側へと回る。そちらのドアを開けて、ずっしり重いビジネスバッグと、隣に寄り添うビニール袋を取り出す。コンビニのロゴが入った袋の中身はサンドイッチ。外回り中に食べられるようにと選んだのに、結局それすら食べる暇がなかった。月が替わったら忙しさにも拍車が掛かったようだ。お腹が空き過ぎて、胃がしくしくしていた。でもそういう感覚すら後回しにしたい。今は。
 社用車を施錠してからは駆け足でエレベーターへと向かう。その間に腕時計で、再度時刻を確かめる。やっぱり午後四時を過ぎたところで、際どいタイミングだと溜息が出た。
 主任はもういないかもしれない。出立前に、せめてご挨拶がしたかったんだけど。

 今日からしばらく、主任とは会えなくなる。
 スケジュール上は明日からの出張となっていたけど、明日の朝一には現地に着いていなければならず、その為今日の夕方の飛行機に乗って出かけるのだと聞かされていた。なるべくそれまでには間に合いたかった。せめて出掛けに、お気をつけてと一言告げておきたかった。だから降りてきたエレベーターにも駆け込んだし、三階行きのパネルも早押しクイズみたいなスピードで押した。
 メールはすると言ってもらっていた。時間が会えば出張先からも電話をするから、小坂も毎日メールをくれ、とも言われた。私はその通りにするつもりでいたし、そうして気を配ってくれる主任が素敵だなとも思った。だからこそお見送りだってしておきたかった。
 間に合うといいんだけど――あまり過大な期待はせずに、だけどやっぱり思ってしまう。
 三日も会えなくなるのだから、せめて別れ際には笑顔を見せたかった。見てもらいたかった。
 もちろん間に合わなければ何の意味もない。間に合うといい。

 エレベーターを降りてからは走る訳にもいかず、精一杯の早足で営業課を目指した。鞄の重さも空腹もさしたる障害にはならなかった。エレベーターホールを抜け、定時前のざわめく廊下を通り抜けて、通い慣れた営業課オフィスのドアを目指す――。
 すると、目指すドアの前に、人影を見つけた。
「小坂」
 こちらを振り向いたその人に、名前を呼んでもらえた。
「あ……主任!」
 よかった。真っ先にその言葉を思い浮かべる。
 次に、間に合った、と思った。
 石田主任はスーツの上にコートを着込み、鞄を足元に置いたまま、営業課のドアの真横に立っていた。早足で近づいていく私に気付いてくれた。そして私が辿り着くと、うれしそうに笑ってもくれた。
「お帰り、小坂。遅かったな」
 間近で見上げる笑顔は、一週間経った今でも時々、眩しい。つり目がちの眼差しにはいつだってどきどきさせられている。だけど勤務中は目を逸らすのだって不自然だ。なるべく普通にしていようと心がけている。
 実際に普通になっているかどうかはともかく、応じる。
「あ……あの、お疲れ様です。ただいま戻りました」
 ここまで急いできたせいで、ぜいぜいと息が切れていた。それでも呼吸を整えながらの言葉を、主任はちゃんと聞き取ってくれる。
「これから、出発なんですか」
「ああ」
 短い返事の後で、声を潜めて続けた。
「間に合ってくれてよかった。あと五分したら出ようかと思ってた」
「え、あ、もしかして……」
 もしかしなくても、私が戻ってくるのを待っててくれた、みたいだ。
 主任も、三日も会えなくなるのだからと、そういう風に思っていたんだろうか。だから時間のない中でも、少しの間だけでも私を待つ気でいてくれたんだろうか。
 ――そうなんだろう、きっと。
 以前なら掴み切れなかった好きな人の気持ちが、今ならおぼろげにだけどわかる。些細な行動からじわじわと、穏やかに伝わってくる。うれしい。
「あのっ、主任!」
 込み上げてくるうれしさから、私は口を開きかけた。
 だけど主任はにやっとして、続く言葉を押し留める。
「わかってる」
 はっきり言われた。それもきっと、伝わっているということなんだろう。ひょいと首を竦めて、別の話題を振ってきた。
「そういえば、土産の希望も聞いてなかったしな。何がいい?」
「お土産、ですか?」
 考えもしなかった問いに、私は眉根を寄せた。すぐに慌てて答える。
「い、いえ、そういうのはその、どうぞお気遣いなく」
「遠慮するなよ。どっちにしたって課の連中には買ってくる予定なんだから、お前の希望も聞いとかないとな」
 そう言われても、これこれこんなお土産がいいです、なんて堂々と言えるような度胸はない。むしろお土産なんてなくてもよかった。主任の旅が安全で、平穏なものであればそれだけで。
 思案に暮れていると不意に、
「大島まんじゅうにしようか」
 ごく軽く、さらっと言われた。
 だけど当然、心臓も跳ねた。
 口調こそ何気ない風だったけど、私をうろたえさせたい意図はあったみたいだ。品名を口にした直後、意味ありげに目配せをされた。
 とっさに、一週間ほど前の出来事を思い出してしまう。――結局あの日、手土産に持っていった大島まんじゅうを、私自身が食べるということはなかった。お土産だったからというだけではなくて、あの日は、とてもじゃないけど食欲なんて湧かなかった。
 一層答えに窮した私を見てか、主任はしてやったりという顔になる。
「こないだのも美味かったぞ」
 小声でそう言ってから、付け足した。
「俺もお前の好みを把握しておきたい。向こうで土産物屋も覗いてみるから、お前も少し考えておいてくれ。後で聞く」
 そして足元の鞄を持ち上げると、空いた方の手も軽く上げてきた。こちらには笑顔が向けられる。
「じゃ、行ってくる。大体のことは霧島に引き継いでもらってる。トラブルがあったらあいつに責任を押し付けてくれ」
「は……いえ、そうならないよう善処します」
 危うく頷いてしまいそうになった。理想としては、何の問題も起こさずに、粛々と業務に努めたい気持ちでいる。霧島さんにも他の誰にも迷惑は掛けたくない。
「小坂も仕事、頑張れよ」
 そう言った時の、優しくて、うれしそうな笑い方。
 間に合ってよかった。その表情を見て、改めて思う。よかった。
「はい」
 私は会釈を返す。面を上げた時にはもちろん、なるべく笑うようにした。
「主任もお仕事頑張ってください。お気をつけて!」
 自分で思う『なるべくの笑顔』が、実際のところどのくらい笑えているのかはわからない。
 でも主任なら、私のどうしようもなく引き攣った笑い方でも、うろたえつつの笑顔でも、その奥にある気持ちまでちゃんと読み取ってくれるような気がする。ずっとばればれだと言われていたけど、裏を返せばそれは、私の本心を読み取れるということでもあるはずだから。
「ありがとな。急いで戻ってきてくれて」
 囁きほどの声量で言い残し、エレベーターホールへと歩いていく主任。
 私はその背中をちらっとだけ見送った。ずっと見つめていたいのはやまやまだったけど、まだ勤務中で、仕事だってたくさんある。それに主任だって、そうまでして見送って欲しいとは思ってないだろう。
 気持ちを切り替えて踵を返した。

 明日から三日間、石田主任のいない営業課で勤務することになる。
 寂しさ以上に、無事で帰ってきて欲しいなとか、平穏な道中だったらいいなと思っている。次にまた会える時が楽しみなような、ちょっと照れるような、そんな気持ちでもいる。
 そして、帰ってきた主任にも笑顔をお見せ出来たらいいと思う。

 パスケースの中に、まだあの名刺を潜めていた。
 こういう時こそジンクスの出番だ。営業課の自分の席に着いてから、小さな小さな顔写真をちらっと見た。
 それから、空っぽの席も横目で、一瞬だけ見た。
 三日間なんて私にとっては大したことない。それ以上に長く主任をお待たせしているんだから、この程度待つくらいなら本当に、どうってことないはずだった。
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