Tiny garden

ただいまとおかえり(1)

「たまたま車で来てるからな、帰り、乗せてってやるよ」
 退勤後、石田主任にそう声を掛けられたのは、今週に入って三度目。
 お気持ちはもちろんうれしいながらも、告げられた『たまたま』という単語を鵜呑みには出来なかった。大体車で送ってもらうにしても、私の家と主任のお住まいとは方向がまるで違う。会社帰りともなると大幅な遠回りをさせてしまうことになる。
「よろしいんですか? あの、ご迷惑では……」
 恐る恐る尋ねてみても、笑顔以外が返ってくることはない。
「迷惑なら端から誘ってない」
「それはその、うれしいですけど」
「だったら構わないだろ? いいから乗ってけ」
 にこにこしながら勧められると断り切れない。遠慮をされるのが好きではない人だから、きっと素直に従った方が喜んでもらえるのだと思う。そうだとしても、遠慮を全くしないという訳にはいかなかった。
 それに、この間の出来事も記憶の中に、はっきりとある。

 主任のお部屋にお邪魔してから、もうじき一週間になる。
 あの日の気恥ずかしさも居た堪れなさもまだ鮮明に覚えている。だけど、うろたえている暇だってそうあるものでもなかった。忙しい時は別の感情の方が強くなる。少しの時間でもいいから一緒にいたい。慌しさの隙間で、ほんのちょっとでも好きな人と過ごせたら、まだまだ頑張れそうな気持ちになってくる。
 初めてのキスは、一人きりでいる時にはよく思い出してしまう。唇の感触や温かさ、唇を重ねたという事実そのものをまざまざと実感する度に、突っ伏したくなるような、床を転げ回りたくなるような衝動に囚われる。よくもまああんなに大それたことを、してくださいなどと言えたものだ。あの時の私の言動は忘れることも出来そうになく、今となっては恥ずかしくてしょうがない。もう二度と言えない。
 だけど、こうして二人きりになってみると、思い出すのはもっと別のことばかりだ。――キスの後の、不思議と穏やかだったひととき。いただいた冷たいお茶の美味しさ。主任の幸せそうな笑顔。そんなことをとりとめもなく巡らせて、思いのほかうろたえていない自分に気づく。全く平然としていられる訳ではないけど、心のどこかでは当たり前のようにも受け止めていた。

 慣れたという気はしない、でも見慣れてはいるSUV車の中。主任が運転席へと座り、エンジンを掛け、シートベルトを締める一連の動作を見守っていた。あの大きな手に触れられると、ハンドルやギアも小さく見えてくる。退勤後とあってか、表情は少しくたびれていて、だけどぐったりしているというほどでもない。眉を寄せる横顔がかえってきりっと映る。
 助手席からの視線はわかりやすいのか、直後、その横顔に笑われた。
「どうした小坂。じっと見て」
「あ、ええと、何でもないです、すみませんっ」
 私は慌てて目を逸らしつつ、なぜか幸せな気分にもなる。金曜の夜、仕事を終えた後だから、自然と気も緩んでいるんだろうか。浮かれたくなるのを抑え、姿勢を正してお礼を述べた。
「今日も、送ってくださってありがとうございます」
「礼なんていい」
 短く言って、主任が車を発進させる。地下駐車場の薄闇を照らすライトが、やがて外の景色を切り開いていく。
 とっぷり暮れた十一月の夜。風が強いらしく、電線や街路樹が揺れている。月が替わったら途端に気温が下がったようだ。そろそろ冬物のコートを準備しておくべきかもしれない。
「今夜も冷え込みそうだからな。お前に風邪を引かれると困る」
 忙しい時期だからなと続けられて、だけど私はかえってお礼を言わずにはいられなくなる。体調管理なんて自分自身ですべきことなのに、そこまで面倒を見ていただいていいんだろうか。そもそも滅多に風邪を引かない、典型的な『何とか』なのに。
「それに、今日送ってやれたのはあくまでたまたま、偶然だ。そこは忘れるなよ」
 言いながら目配せしてくる主任。その言葉を額面通りに受け取ることは、何とかな私でも出来やしない。
「その、お気持ちはすごくうれしいんですけど、そんなに優しくしていただかなくても十分ですよ」
 あんまり親切にされると返し切れなくなる。今でも、感謝とうれしさとをどう伝えていいのかわからないくらいなのに。戸惑う私に、それでも主任はひたすら優しい。
「だから偶然だって。今週に入って三日くらい、上がりの時間が一緒になったのも偶然。そういう日に限って俺が車で来てるのも偶然だ。上司がそう言ってんだから素直に聞け」
 からっとした口調で言われて、ほんの少しためらいもしたけど、結局素直に頷いた。うれしい気持ちも本当に、あったから。
「ありがとうございます、主任」
「礼はいいってば」
「では、偶然に感謝、ということにしてください」
 私らしくもない、気障な物言いかもしれない。でも感謝だけはちゃんと伝えておきたかった。
 主任もそこで、ちょっとだけ笑った。
「それならよしとする」
 そしてしばらく進んだ先、信号で停止した際に、こちらを見て首を竦めた。
「来週は俺の出張もあるし、お互い忙しいからな。こうして会う時間でも作っとかないとやってられない」
 十一月に入って加速したのは気温の下降だけではなく、スケジュールの過密化もそうだった。営業課備え付けのホワイトボードには、皆の予定がぎっちりと書き込まれるようになった。石田主任のスケジュール欄には来週火曜日から三日間の出張と記されていた。
「出張さえなけりゃ、明日でもまた部屋に呼んだのにな」
 どこか悔しそうに唸る主任。私は何も言えず、もじもじしたくなる。その後で信号が青になったので、答えるタイミングを失ってしまった。
 明日は土曜日で、初めてお部屋に招いてもらった日からちょうど一週間になる。会いたい気持ちも、まだどうしても恥ずかしい思いと、先日の記憶とがごっちゃになってしまっている。どうしたいのか自分でもよくわからない。もし来週の出張がなくて、またお部屋に招いてもらっていたら、私はどんな反応をしただろう。
 出張中は主任と会えなくなってしまう。仕事のことで不満を唱えるつもりはないけど、寂しさだけはどうしようもない。私のスケジュールだってぎっしりしているから、寂しいなんて言っている暇もないものの。
 会っておきたかったな。会えないとわかった後で、今更みたいに思う。
 せめてお見送りでも出来たらいいんだけど。
「小坂は小坂で、来週は飲み会だろ?」
「そうなんです」
 私はと言えば、来週の水曜日は取引先の飲み会に招かれていた。社外での飲み会は私にとって初めてのことだったけど、営業職をやっていればごくありふれた――と言うよりむしろ避けて通れないものらしい。
 先方は営業でお世話になっている方々のところなので、何度も顔を合わせているし、お話しだってしたことがある。とは言え年上の方ばかりだし、仕事に関連する飲みとあってはプレッシャーもひとしおだ。失礼な行動を取らないよう、土日でビジネスマナーをおさらいしておかなくてはならない。
「客先の飲み会って、緊張するよな」
 主任の横顔に、何かを思い出したような苦笑が浮かんだ。
 私も小さく溜息をつく。
「はい。ドジを踏んで契約を切られることのないように頑張ります」
「さすがにそこまでの失敗はそうそうないだろうがな」
 ふっと軽く笑って、主任は続ける。
「ただほら、気をつけろよ。お前みたいに若い女の子が行くとなると、やたらはしゃぐ連中もいるからな。べたべた触られたら逃げて来い」
「そ、そうなんですか?」
 そういう心配は言われるまで全くしていなかった。確かに営業中、取引先の皆さんにはやたら『若い女の子』扱いをされることがあったけど、言ってしまえば事実でもあるし、ルーキーイヤーと思えば仕方のないこと。今回の飲み会もお酌要員であることは半ば覚悟している。それで取引先との良好な関係が築けるのならどうってこともない。
 でも、あまり親しくない人にべたべた触られるのはちょっと……嫌だなあ。そういうのってよくあることなのかな。ないといいんだけど。
「膝の上に乗せられたりしたら、ちゃんと拒否しろよ」
 もっともらしい口ぶりの主任。
 思わず私が視線を向けると、すかさず唇の端を吊り上げた。
「それをしていいのは俺だけ。そうだよな?」
「えっ、あ、あの」
 とっさに詰まってしまう。先週の土曜日のことをまざまざと脳裏に浮かべて、私は俯く。
 本当のところは主任の言う通りなんだろうけど。
 好きな人だけがいい、そういうことをされるなら。
「あと、ちゅーも駄目だぞ。それも俺だけだからな、二回目も俺がする」
 更に付け足された注意にうっかり頷きかけて、すぐに慌てた。
「そそそ、そんなことを急に言われましてもっ」
「何だよ。まさか他の奴ともするつもりか」
「いえそうではなくて! あの、いきなりそういうこと言われると、さすがにどっきりします……」
 この間のがファーストキスである私としては、次の機会なんて全くもって想像もつかない訳で、まさか二度目があるとは考えられない。今のところ、なくてもいいような気もしている。だってあんな、ペットボトルの蓋も開けられないほどどぎまぎさせられるのもちょっと。
「大丈夫だ。直に慣れる」
 主任には力強く断言された。
「俺が慣らしてやるから、またしような、小坂」
 むちゃくちゃ格好いい表情をして、別の意味でむちゃくちゃなことを言う。
「仕事が一段落ついたらまた誘うから、その時にな」
「え、ええと」
 私はどうとも返事が出来ず、ただただ戸惑っていた。
 主任が相手なら嫌でこそないけど――抵抗はある、やっぱり。と言うか慣れる気がしない。またって言われても本当に困る。

 こういう話をしていても、それでも、初めてのキスの記憶は幸せ一色だった。どぎまぎさせられようとはっきり思い出してしまおうと、後に残るのは別のもの。お互いに黙り込むと、車内の静けさにつられて、不思議と穏やかな気持ちにさえなる。
 真面目な口調とおどけた口調を交互に使い分ける主任を、私はすぐ隣から眺めている。以前ほどうろたえたくなる気持ちはなくて、手にキスをされた直後ほどの動揺もなくて、未知の事柄に対する戸惑いこそあるものの、ふつふつと別の感情を育ててもいる。あの日、キスをしてよかったと、今はそう思っている。
 私は石田主任が好き。
 優しいところも、きっぱりしたところも、若干むちゃくちゃなところだって、全部。
 好きな人の為なら何だって頑張ろうと思う。だからもしかすると、いつかキスだって当たり前なことになるのかもしれない。……もしかしたらの話、だけど。
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