Tiny garden

ただいまとおかえり(3)

 主任からは、月曜のうちにメールが届いた。
 夜の九時過ぎに『さっきホテルに着いた』と短い報告があった。ちょうど帰宅した直後だったので、すぐにお疲れ様ですと返信を送った。するとやはり素早い返事があって、電話してもいいかと尋ねられた。
 もちろん拒否する理由なんてない。むしろ私から掛けましょうかとメールしたら、返事より先に電話が掛かってきた。

『お疲れ、小坂。もう家か?』
 電話越しに聞く声には大分慣れたつもりでいたけど、今夜は心なしかいつもと違う雰囲気がした。単に気の持ちようだろうか。それとも物理的な距離があるから、なんだろうか。
「お疲れ様です、主任。私は一時間ほど前に帰宅したところです」
 姿勢を正して答える。
 耳元では、微かな笑い声がした。
『そうか。お前は仕事の後でもくたびれてるって感じがしないな』
 それはもう、疲れてる声なんて主任には聞かせたくない。こうして離れている時に心配を掛けるのは嫌だ。今日は特別に疲れたというほどでもなかったから、なるべく明るく通話をしたいと思っていた。
「お蔭様で元気です。主任はいかがですか」
 聞き返すと、また笑い声がする。
『こっちはさすがに移動で疲れた。飛行機だと寝られないから余計にな』
「大変ですね……。耳がきーんってなりますもんね」
『まあな。そこも重大だよな』
 言葉の割になぜかおかしそうにされてしまった。そういう理由だけじゃないのかな。ともかく、主任に笑われるのは決して嫌じゃない。
 笑う主任は、更にこんなことを聞いてきた。
『課の方はどうだ。俺がいなくて、皆せいせいしたって言ってなかったか』
「そんなことないですよ! 全然ないです!」
 本当に、そんなことはちっともない。もちろん表立って寂しがっている人もいなかったけど――それは営業課員にとって出張がそう珍しいものではないからであって。たった三日くらいのことだし、わざわざ口にする人もいないだけの話だと思う。
 もちろん、一人だけはっきりと、主任のことを話題にしている方もいたけど。
『霧島は何か言ってただろ』
 さすが付き合いが長いだけのことはある。主任もその辺りの勘は鋭い。
 私は取り繕うつもりで答えた。
「はい、あの、霧島さんは寂しいって言ってましたよ」
『どんな要約をしたらそういう言葉が出てくるんだ、あいつの口から』
「嘘じゃないです。確かにそのようなことを聞きました」
 寂しいとはっきり言っていた訳ではないけど、『先輩がいないと営業も静かでしょうがないですね』とは言っていた。それはイコール寂しいという意味だと、私としては解釈している。ご本人に尋ねたら苦笑いで否定されそうだけど、それだって照れ隠しだと思う。
 私は仲のいいお二人が好きだから、そういう解釈をしたかった。
『お前のポジティブな解釈がどこまで当てになるかだな』
 主任は呆れたように言ってから、別のことを口にした。
『もっとも、俺はお前がいればいい』
「え?」
『小坂が俺の帰りを待っててくれるなら、それで十分だ。こっちでも頑張れるよ』
 電話でも相変わらず、どきどきするようなことを言われてしまう。顔が見えないからと言って油断は出来ないみたいだ。頬がすっかり赤くなってしまった。
 自分の部屋で電話していてよかった。
「あ、あの……」
 ためらいがちに、私も告げてみる。
「主任のお帰りをお待ちしてます、私」
 寂しいとは、私こそ言いたくなかった。そんな言葉を告げるくらいなら、もっと主任の喜ぶことを伝えたかった。
『ああ。待ってろ』
 頼もしい口調で主任が言う。
『俺が帰ったら、いい笑顔で出迎えてくれよ』
「はいっ」
 それはもちろんだ。私もそのつもりでいた。
 とびきりの笑顔で、おかえりなさいを言えたらいいなと思っている。
 その為にもこれから三日間は仕事のトラブルもなく、体調も崩さないようにして、平穏無事に過ごしていきたい。そして主任にも無事で帰ってきてもらいたい。そこまでが前提条件。
『毎日メールするからな』
 優しい言葉まで貰ってしまって、何だか感無量だった。
 そこまでしていただかなくてもいいのに。こうして電話出来るだけでも十分なのに。
「ご面倒ではない程度で構いませんから」
 私が言うと、柔らかい口調で念を押された。
『ちっとも面倒じゃないから気にするな。俺がお前に連絡したいんだよ』
「主任……。ありがとうございます!」
 出張中で離れていても、こんな風に繋がっていられるのがうれしい。
 恋人同士らしさって、例えばこういうことなんじゃないだろうか。お互いに心配を掛けないようにすること。お互いに、離れていても繋がっていたいと望むこと。
 私は私の好きな人と、いい恋人同士になれるだろうか。そういう未来はまだ想像もつかないけど、そうなる為の努力は、やはり惜しみたくないなと思う。


 宣言通り、主任は出張先からもたびたび連絡をくれた。
 朝起きた時の挨拶から始まって、出勤前と休憩中、そして仕事の後にもちょくちょくメールを送ってくれた。内容はほとんどが一言二言で、出張先で食べたご飯が美味しかったとか、こっちの景色を撮ったから送ってやるとか、まるで旅行記みたいなメールばかりを貰っていた。特にホテルの窓から見える景色を撮ったという画像は、見知らぬ町の駅前の風景が趣のある姿で写り込んでいて、こまごまと建物の居並ぶ画像に何だか私まで旅がしたくなってきた。そして主任は、カメラの腕も相当のようだ。霧島さんの結婚式も、きっときれいに撮影するんだろうなと、貰ったメールを見て思った。
 私の方からも暇を見てはメールを送った。もっともこちらは代わり映えのない日常を過ごしているので、いきおい内容はごくありふれた報告だけになってしまう。せいぜい仕事でこんなことがあったとか、営業課でこんな会話をしたとか、帰宅は何時だったとか、実に味気ないメールばかりを送ったような気もする。その分、まめに連絡をするようには心がけていて、だからか主任も、うれしそうな返信をくれたりもした。
 水曜日の昼頃には、今日の飲み会頑張れよと励ましのお言葉をいただいた。頑張ります、と返事をしたのが夕方近くになってしまったけど、主任の心遣いはしっかり伝わった。頑張ろうという気持ちにもなった。
 石田主任のいない勤務日も、刻一刻と過ぎていく。いつものくせで空っぽの席に目をやって、あ、と思ったりすることはあったけど、それほど寂しさを感じることはなかった。主任のお蔭だと思う。

 そして、客先との飲み会がある水曜日。私は定時を少し過ぎた辺りで仕事から上がった。
 タイムカードをレコーダーに通した直後、営業課のドアが開いて、
「小坂さん、お疲れ様です」
 霧島さんに声を掛けられた。
「あっ、お先に失礼します」
 すぐさま私が返事をすると、霧島さんは後ろ手でドアを閉め、温厚そうな笑みを向けてくる。
「今日は飲み会でしたよね。体調の方は、大丈夫ですか」
「はい、万全です」
 胸を張って答える。
 今月に入ってからの多忙さで疲れは溜まっていたけど、お酒が飲めないほどでもなかった。飲むのも仕事のうちだと思って、体調には気をつけていた。
「小坂さんはお酒、強いんでしたね」
 質問と言うよりは確認の口調で聞かれた。強いつもりはなかったので、霧島さんは私を誤解していると思う。
「そんな、まあまあですよ、本当に人並み程度で」
「でも小坂さんが飲み会で酔っ払ったところ、見たことがないですよ」
「それはその、気をつけて、ほどほどにしてましたから」
 ルーキーが飲み会で酔い潰れては面目ない。だから控えめにしているところはあった。幸いうちの課の飲み会はのんびりマイペースで、飲みたいだけ飲めて食べたいだけ食べられるからありがたい。
 でも、よその飲み会ではそうもいかないんだろうな。勧められたら断りにくいだろうし。
「では今日も、なるべくほどほどで切り上げられるといいですね」
 霧島さんが気遣わしげに微笑む。
「今日みたいな飲み会は神経を使うこともあるかと思いますが、きっと皆さん、小坂さんみたいな女の子には優しくしてくれるはずです」
 そう話す霧島さんが、ものすごく優しいなと思った。
 心配してくれているんだ。他社の飲み会にお邪魔するのは初めての私に、ためになるアドバイスをくれた。
「くれぐれも無理はしないで、これ以上は飲めないと思ったら、そういう風に言った方がいいですよ。体調を崩す方がよほど先方に迷惑を掛けますからね」
「は、はい! 心に留めておきます!」
 うれしさから思わず声を張り上げる私。声が廊下に響いてしまったけど、霧島さんはにっこりと笑ってくれた。
「頑張ってくださいね、小坂さん」

 うれしい。すっごくうれしい。
 本当に頑張っちゃおう。飲み会でのマナーも、引き際を弁えることも、両方すごく頑張ろうと思った。主任にも霧島さんにも応援してもらったんだから、その分の働きはしないと!
 挨拶の後で、うきうきとロッカールームへ足を向けた時、
「あ、そうだ」
 霧島さんの思いついたような呟きが聞こえた。
 とっさに振り向くと、さっきまでとはうって変わった、男の人らしい苦笑いが映る。
「小坂さん。俺、先輩がいないからって別に寂しくはないですよ」
 そして、そういう風に言われた。
「ただ、石田先輩がいないと静かで、張り合いがないってだけです。本当ですからね」
 どこか意地を張るみたいな口ぶりの霧島さんに、私は少しの間ぽかんとしていた。

 その意味に気付いたのは、飲み会へ向かうべく、退社した直後のことだった。
 ――もしかして主任、霧島さんともメールの交換、してるのかな。
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