Tiny garden

自覚とプライド(5)

 ラップトップが起動したところで、次に表計算ソフトを立ち上げる。
 当たり前だけど、よその家で仕事をするのも初めてのこと。今更ながらいろんな意味で緊張してきた。
 主任の部屋は、お互いに黙るとすごく静かになる。ラップトップの稼動音が一番大きく聞こえている。マンション住まいもしたことがなかったけど、結構静かなものなんだなと思った。もしパソコンが点いていなかったら、もっとしんとしていたことだろう。緊張気味の今はこのくらいでもまだ静か過ぎた。
 室内はほのかにいい匂いがしていた。主任の乗っている、あのSUV車の中と同じ匂いのような気もした。柑橘系のような、だけど僅かにだけ甘い香り。不快ではないのに、嫌いでもないのに、無性にどきどきしてくる。主任の傍にいるのだと、当たり前のことを強く実感している。

「何、緊張してんだよ」
 私の態度から見抜いたのか、主任にはそう声を掛けられた。例によってばればれだったみたいだ。
「すみません。男の人の部屋に入るのって初めてで、どぎまぎしてしまいます」
 正直に答える。
 来る前に予想していたよりは緊張していないけど、していること自体に変わりはない。それも好きな人の部屋なんだから、落ち着かない気分になってしまってもしょうがないと思う。もちろん、それをおくびにも出さずにいるのが一番いいんだろうけど。
 途端、主任が吹き出した。
「初めてが俺の部屋だとは光栄だ」
 そういう言い方をして、私を宥めるように見る。
「もっとリラックスしててもいいんだぞ、どうせこれからもちょくちょく来てもらうことになるんだから。もっと慣れとけ」
 もう、次回訪問をお許しをいただいてしまった。どうしよう、うれしいけどちょっとだけ困る。今後の滞在時間中、お言葉を翻されないようにと気負いたくなる。リラックスしてもいいと言われているのに何たる矛盾。
 まごついていれば更に言われた。
「それとも、俺が隣にいるとかえって落ち着かないか?」
「えっ、……あ、あの」
 確かにその通りでもある。
 とは言え馬鹿正直に『落ち着かないです』と答えるのは失礼な気もしたし、かと言って『全然どうってことないです』と答えるのもそれはそれでいいことじゃないように思う。その、主任が隣にいてとってもどきどきするんだけど、でも嫌じゃなくてそれどころか一緒にいられて幸せで、こうして仕事の場所まで提供してくださったことにとても感謝しています――ということを不足なしに伝えるにはどうしたらいいんだろう。
 あれこれと頭の中で考えている隙に、主任がふと立ち上がった。つられて面を上げると、こっちを見下ろす顔が笑っている。
「じゃあ、落ち着くように飲み物でも用意してやろうか」
「あ……ええと、お、お構いなく!」
 直前に考えていた内容が内容だったから、妙にうろたえた回答になった。お蔭で余計に笑われてしまったみたいだ。
「いいから遠慮すんなって。何がいい?」
 ただでさえこうして貴重な場所と時間を割いてもらっているのに、何かごちそうになるのは気が引ける。でもむげに断るのもそれはそれで……本当に、好きな人が上司というのは悩ましい。
 とりあえず、控えめに答えてみる。
「私は、何でも構いません」
「何でもいいって答えが一番困るんだよなあ」
 笑顔の主任はそう言い残し、リビングの奥から通じる、キッチンと思しきスペースへと消えた。リビングからはドア一つ分の通路が繋がっていて、その奥はちょうど見通せない構造となっている。だけど冷蔵庫の開く音ははっきり聞こえた。
 それと、主任が呼びかけてくる声も。
「うちにあるのはビールと、焼酎と、あとウイスキーだな。何がいい?」
 ものすごく自然に尋ねられたから、危うくどれがいいかなと本気で考えそうになった。
 慌てて聞き返す。
「すみませんが、ソフトドリンクはありますか?」
 すると奥からは盛大な笑い声がした。
「残念、引っ掛からなかったか」
 あ、危なかった……。
 不意打ちで引っ掛け問題をされると別の意味でどきどきする。さっきのは本当に、あの中から一つ選びそうになってしまった。
 でも後になってから、こういうやり取りも何だかいいななんて笑いが込み上げてくるのが不思議。主任が相手だから、なのかな。じわじわとうれしくなる。
「ソフトドリンクだと、ペットボトルの緑茶とウーロン茶の二択だ。どっちがいい?」
 再び、奥の方から問いかける声。それはちゃんと考えて、答えが言えた。
「ウーロン茶がいいです」
「了解。持ってくから待ってろ」
 がちゃんと何かの揺れる複数の音、それからドアの閉まる音がした。姿こそ見えないけど、好きな人がそこにいるのはちゃんとわかる。
 静かな部屋の中、足音が近づいてくる。私は不思議な気持ちのまま、リビングでじっと待っている。まるで私自身が、この部屋に溶け込んでしまったように思えた。
 石田主任が、好きな物だけ置いているという部屋の一部に、なってしまったような気がした。

 いただいたお茶はよく冷えていて、気分もすっと落ち着いた。
 すぐに見積書の作成へと取り掛かる。緊張はまだ続いていたけど、仕事をするんだから適度なプレッシャーはあった方がいい。石田主任もまた隣に座って、私の仕事を見ていてくれるつもりのようだ。気を引き締めて作成に当たる。
 当然だけど、私は自分自身の仕事ぶりを、客観的に見たことがない。カメラでもついていたら見る機会もあったのだろうけど、営業課オフィスにカメラがついているはずもなく、外に出たら尚更わかりづらいと思う。
 キーを打ち始めて五分ほどで、主任から指摘を受けた。
「小坂。お前、すごい猫背だよな」
「えっ!」
 これは結構ショックだった。まるで自覚もなかったし、今までは誰からも指摘されたことはなかった。学生の頃は先生に、『小坂さんは姿勢がいいですね』なんて誉められたことだってあったくらいだ。今は営業という職種柄、普段からことさら気を付けているつもりだった。なのに。
 言われて姿勢を直す前に、肩と背中を挟むように触れられた。大きな手にどきっとしたのは一瞬だけで、むしろショックの方が後から後から押し寄せてきた。主任の手にぐっと伸ばされたら、視界の高さが一段上がった。どうやら本当に猫背になっていたみたいだ。
「そんなに丸まって画面覗き込んだら、目も肩もかえって疲れるだろ」
 主任が気遣わしげな目を向けてくる。
「普段は姿勢いいのに、パソコン見る時だけ姿勢が悪くなるのな。気を付けた方がいいぞ」
「……そうします」
 知らなかった。結構へこんだ。
 最近、妙に疲れが残ると思っていた。肩は張るし目は疲れるし、車で外回りしてるのに足までぱんぱんになるし。営業デビューを果たして、新しい仕事に追われているせいだと捉えていたけど、姿勢の悪さも相当影響していたのかもしれない。
 打ち込み途中の見積もりを見て、少しの間ショックに打ちひしがれていたら、隣ではぷっと笑うのが聞こえた。
「大体お前、猫背って! 小坂が猫背ってのも変だろ、そこは犬背じゃないと、なあ?」
 さっきまでの心配そうな様子はどこへやら。主任はげらげら笑っている。妙に楽しそうで、打ちひしがれていた私はすっかり置いてけぼりを食らった。
「犬背……って、あるんですか?」
 初めて聞いた単語だ。いや、ツッコミどころはそこじゃないんだろうけど。
 でもあんまり楽しげに笑われているから、こっちもへこんでいるのが無意味に思えてくる。もしかすると私がへこまないように、余分に笑ってくれているのかもしれない。
 落ち込むようなことでもないのかな。いいことでもないだろうけど、よくないとわかったなら今日から直せばいいだけだ、うん。
「さあな。適当に言ってみた」
 明るく言い切った主任が、更に続ける。
「どっちにしても、小坂には猫背は似合わない。気を付けろよ」
「わ、わかりました」
 肝に銘じておく。
 本当に気を付けよう。意識して直せば、終業後の疲労感も緩和されるかもしれない。
「それと笑顔も忘れるなよ」
 まだおかしそうにしている主任が、指先で私の頬っぺたに触れる。温かい。にゅっと持ち上げるようにして、続けた。
「作業中は難しいだろうがな、もうちょい表情緩めてもいいんじゃないか。見てる方もそっちが好みだ」
 好みだなんて言われてしまうと、笑わない訳にはいかない。
 と言うかすぐさまにやけてしまった。つくづく単純だ。
 仕事中も笑っているというのは案外と難しい。仕事量が増えれば増えるほど難しく感じるようになってきた。だけど、私は光栄なことに主任のジンクスを担っている。笑っていなくちゃいけない。好きな人の為にも。
「頑張ります」
 隣を向いて、まずは意識的に笑ってみる。なるべくきちんとした営業スマイルでと思っていたけど、多分にやけていたんじゃないかと思う。
 それでも、主任は満足そうにしてくれた。
「お、いい笑顔。その調子で頑張れよ」
 いい笑顔、かなあ。多分、にやけていたはずだと思うんだけど。それとも笑顔の質も、客観的に見ないとわからなかったりするんだろうか。

 隣で見守ってもらっていたから、私はしかめっつらにならないよう作業を続けた。
 主任が傍にいたら緊張するだろうと懸念していたものの、言ってしまえば営業課でデスクワークをする時だって、同じように見守ってもらうことがある。勤務中と状況はあまり違わない訳だ。
 その環境と適度な緊張感が幸いしたのか、見積書の作成は予想以上にはかどった。
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