Tiny garden

自覚とプライド(6)

 一件目の見積書が仕上がったのは、午後三時過ぎのこと。
 ベランダから見える空にひつじ雲が浮かんでいた。もうじき空が暮れていくだろう、雲の色から少しずつ変わり始めている。秋の空は透き通っていてとてもきれいだ。
 ――もちろん、私には空を眺めている暇だってないんだけど。
「あと一件だな」
 石田主任が、ぽんと私の肩を叩く。すかさず頷いた。
「はいっ」
「よし頑張れ小坂! 俺は見てるだけで何にもしてないが応援はしてるぞ!」
 何もしていないだなんてそんなことはなく、主任が傍にいるというだけでも十分に安心出来た。お蔭で目立ったトラブルもなく、予定していた仕事の半分までを終えている。姿勢と表情にも気を付けつつ、今のところは疲労感もほどほどで済んでいた。全て、主任が見守ってくれているお蔭だ。
 お蔭というならそもそも、今日のこの機会を提供してもらったこともそうだ。仕事が片付いたら改めてお礼を言おう。まずは残りの仕事も速やかに済ませてしまわなくては。
「頑張ります!」
 いい返事を心がけ、次の仕事に取り掛かった。

 入社して、営業課に配属されてから半年が過ぎた。
 正直言って仕事に慣れたという気はしない。いつだっていっぱいいっぱいで、あたふたしながら出来ることをこなしてきた。出来ることが増えるごとに、新しい仕事を覚えなくてはいけなくなって、自分の勤務態度を客観的に振り返る機会なんてなかったと思う。自分におかしな点や至らない点があっても、なかなか気付けずに見過ごしてきたのかもしれない、とも思う。
 だけど私の仕事を、私の代わりに見ていてくれる人がいる。そのことはとても頼もしくてありがたい。そしてすごく、幸せだった。
 その人は今、私の隣で頬杖をついている。
「こういう休日も悪くないよな」
 ぼんやりと呟いていたから、どう答えようか迷って、私は一旦手を止めた。
 たちまちこっちを向いて言われた。
「あ、いいんだ。お前の仕事を邪魔するつもりはないから、独り言だと思って聞き流してくれたら」
「……はい」
 本当にいいのかな。私が遠慮気味に頷けば、そっと笑いかけてくる。
「相槌打つ余裕のある時だけ打ってくれればいい。無理はしなくていいからな」
「はい」
 主任はすごく優しい人だ。今度は大きく顎を引き、私も仕事へと戻る。ディスプレイに表示される数字たちと睨めっこをする。
 キーを打つ音の合間に、呟き声が聞こえてくる。この部屋は静かで、トーンを落とした声でも十分に拾えた。
「もうじき十一月だし、これからどんどん忙しくなるからな。こういう休日の過ごし方があってもいいと思ってた」
 私にとっては初めての過ごし方だった。主任のお部屋にお邪魔していることもそうだけど、休みの日に、好きな人と一緒にいるにもかかわらず仕事をしているなんて。何だかもったいないような気もするし、だけど『悪くない』と言ってもらえたことにはほっとしてもいる。私としては、こういう休日はもうなくてもいいくらいだけど――そうもいかないのかな。
「これからやむにやまれぬ事情で仕事を持ち帰ることもまたあるかもしれないし、忌々しい休日出勤だってないとも限らない、営業にいればな。そうでなくても年末に向けて、仕事量が増えていくだろうし」
 主任の語る現実に、かちかちと無機質な打鍵音が重なっていく。お話だけは散々聞いているけれど、まだ全貌の見えていない年末進行という存在。私はそれに立ち向かえるだろうか。立ち向かわなくてはいけないんだけど。
「そういう時でもせめて一緒にいられるようにしたり、俺の存在を忘れずにいてもらえるような、そういうやり方を見つけておきたかった」
 微かな笑い声が落ちる。
「幸い、今日のは上手くいきそうでよかった」
 安堵した様子のその言い方が、何だか私の胸にも染みた。
 私は、仕事に追われていると他のことにまで手が回らなくなってしまいがちだ。だけど主任のことは、もっとたくさん考えていられるようになりたい。それこそ仕事と両立出来るように。
「この調子で仕事納めまで乗り切ろうな。あとちょっとで、お前にとって初めての年末進行がやってくるぞ、小坂」
「頑張ります」
 そこは相槌が必要だと思ったから、キーを打ちながら答えた。そしたら、笑いを滲ませた言葉が返ってきた。
「好きな人と過ごす、初めての年末進行か。そう言うと案外ロマンチックな感じがしないか?」
「……ええと」
 当の『好きな人』に言われると、やっぱりどうしてもどぎまぎしてしまう。ロマンチック、なのかな。とりあえず、好きな人の為にも絶対に乗り切ってみせようとは思っている。
「覚悟しとけよ。クリスマスはあってないようなものだからな」
 やっぱりそうなんだ……。何となく予感はしてたけど、そこはちょっと寂しい。
「その代わり、仕事納めの後は楽しい楽しい納会があるぞ」
 聞き慣れない単語だった。思わず聞き返す。
「納会って、どんなことをするんですか」
 すると主任は意気揚々と答える。
「社内で一堂に会して酒を飲む。しかも日が落ちる前からな。多少だけどつまみも出るし、悪くないぞ」
「何だか楽しそうですね」
 会社の中でお酒を飲むって、一体どんな感じなんだろう。それも日中からだなんて想像を絶する。日中からお酒を飲んでいる主任や霧島さんたちをイメージしてみようとしたけど、全く出来なかった。
「そんな感じで、悪いことばかりでもないからな。勤めに出れば出たで、社会人なりの楽しみ方ってものがあるんだよ」
 確かに、そうなんだろうな。社会に出てからこの方、学生時代の過ごし方と比べてしまうことが多々あったけど、社会人になってからじゃないと出来なかった楽しみもある。そういうのだって今だけだと思えば貴重だ。
「だからそう不安がることもないし、悲観することだってない」
 主任の声は、そこまでずっと優しかった。
「お前には俺がついてる。公私どちらでもな」
 とても優しく聞こえてくるから、キーを打つ手が止まってしまった。
「俺はいつもお前のことを考えてる。安心していい」
 それどころか――聞こえてきた言葉にどぎまぎするあまり、目の前がうっすらぼやけてしまって、困った。見積書を作るのにも支障があるから、どうにか瞬きを繰り返して誤魔化してみた。
 もしかしたら主任は気付いていたのかもしれないけど、それ以降はしばらく何も言わずに、ぼんやりしていたようだった。
 好きな人に、自分のことを好きでいてもらえるのは、すごく幸せなことだ。
 だから私は絶対に頑張ろうと思う。それこそ、公私どちらもだ。

 全ての仕事が片付いたのは、午後五時半を回った頃だった。
 その頃にはもう部屋の明かりが点いていて、外はとっぷり暮れていた。仕上がった見積書を保存して、主任に一応確認してもらった後、ラップトップのシャットダウンをする。ぷつんと音がして、室内はやがて静かになる。
 溜息。
「お疲れ、小坂」
 すかさず隣から声を掛けられて、私はあたふた返答した。
「はい、あの、主任もお疲れ様です」
「俺はそんなに疲れてない」
 笑顔でかぶりを振る主任。でもすっかり長居をしてしまって、しかも理由が仕事と言うんだから、やっぱり申し訳ないなと思う。もちろん、お詫びよりお礼を言うべきだとも思ったけど。
「今日は、本当にありがとうございました」
 熱を持つラップトップをビジネスバッグに押し込んでから、主任の方へと向き直り、私は感謝の言葉を述べた。
「お蔭で月曜の仕事にも間に合いそうです。それにいろいろと、ためになるお話も聞けましたし……」
 クリスマスのことは残念だけど、時期が時期だから仕方ない。それよりも俄然、仕事納めが楽しみになってきた。納会ってどんな感じなんだろう、是非参加してみたい。
「何よりも、一緒にいてくださったことがすごくうれしかったです。ありがとうございます」
 背筋を伸ばして、なるべく笑って、精一杯の気持ちを伝えてみた。元はと言えば私の至らなさで仕事が残っていたというのに、こうして付き合ってくれた主任の気持ちがうれしい。
「こちらこそ。先に無茶を言ったのは俺の方だからな」
 主任がそう言うので、慌てて否定したくなる。
「そんな、無茶なんてことは……」
「別に気を遣わなくてもいい」
 なのに主任は、またしてもかぶりを振る。少し笑んでから続けた。
「それより、思いのほか早く片付いたな。小坂も結構、仕事が早くなったんじゃないか」
「……よかったです」
 誉められたのはうれしい。でも、入社して半年以上経つんだから、このくらいの成長は出来ているのが普通なのかもしれない。だから誉められたこと以上に、目に見えた成長をまず一つ、お見せ出来たようなのがよりうれしい。
「さて」
 満足げな顔つきをした主任が、そこで時計を見て、尋ねてきた。
「懸案事項も早めに片付いたことだし、これからどうする? ちょっと早いが飯にするか?」
 尋ねられたものの、実はそんなにお腹が空いていなかった。まだご飯は要らない気分だ。胸まで一杯になっている。
「それとも、お前が持ってきてくれた大島まんじゅうでも食べるか?」
 にやっとして聞かれたのは、きっと私が空腹だと思っているからなんだろう。私はちょっとはにかんで、答える。
「いいえ、まだお腹は空いてないです」
 すると主任は意味ありげに目を細めた。わかるくらいに声を落として、更に尋ねてくる。
「じゃあ……二人きりで出来る、一番楽しいことでもするか」
 ものすごい形容だと思った。ぼかしたようで実にストレート。私でも意味がわかるくらいだ。
 そういうことを真正面から言われると、どうしようもなくうろたえたくなる。向き合って座っている位置から逃げ出したくてしょうがなくなる。だけど今日は、いつもより頑張ろうと思った。他でもない好きな人の為に。
「今日は、主任のご意向に従います」
 私の方はと言えば、いつもながらのしかつめらしい口調になってしまった。
 主任が怪訝そうにする。だからもう一度、
「ええと、その、主任は……どういう風にしたいとお思いですか」
 勇気を振り絞り伝えてみる。
「私は一緒にいられるなら、何だって構いません」
 何でもいいという答えは、それほど困った様子もなく受け止めてもらえたらしい。
 程なくして抱き寄せられた。
PREV← →NEXT 目次
▲top