Tiny garden

プライドと自覚(8)

『――小坂?』
 第一声は、やや怪訝そうな問いかけだった。
 好きな人の声は、電話越しに聞いてもどきどきするものだ。むしろ電話だと耳元のすぐ傍で聞こえてくるから、より一層どきどきする場合もある。
 夜道をゆっくり歩きながら、私は恐る恐る切り出す。
「こ、こんばんは。主任、今、よろしいですか」
『ん? いいぞ、どうした』
 突然の電話だと言うのに快く受け入れてもらえて、ほっとする。そうは言ってもあまり長く時間を取らせるのも悪いから、すぐに用件に入ることにした。
「その、実は、まだ帰宅途中なんですけど」
『何だ、そうなのか。今どの辺だ』
 尋ねられたので私は立ち止まる。辺りを見回してから、何々商店の前、なんて答えてもしょうがないことに気づいて、現実的な答え方をした。
「さっき電車を降りて、駅を出たところです。もう七、八分で家に着きます」
『そうか。くれぐれも気をつけて帰れよ』
「はい。あの……」
 心配されているのがわかって、しみじみうれしくなる。私は幸せな気分で語を継いだ。
「メールじゃなくて、電話を掛けてしまってすみません」
 その言葉は軽く笑い飛ばされた。
『何言ってんだ、そんなの気にすることない』
「ご迷惑ではなかったですか?」
『馬鹿、うれしいに決まってるだろ。何なら俺から掛け直すか?』
「い、いえ! ……大丈夫です」
 うっかり夜道で声を張り上げそうになって、慌てて声を潜める。うれしいと言ってもらえた。こちらこそ、すごくうれしい。
 そういう気持ちをはっきり、声にして告げておきたい。
 私は深呼吸をしてから切り出した。
「実はその、主任の声が聞きたくなって」
『……俺の?』
 また、主任が怪訝そうにした。
 どぎまぎする。自分で切り出しておいて。
「はい、ええと、メールじゃなくて電話でお話したいなあって、思ったんです」
 つっかえながら言う私。
 耳元では微かな笑い声がした。吐息まで触れたようなくすぐったさ。
『俺の声が聞きたかったって?』
「はい」
『それで電話寄越したのか。可愛い奴め』
 途端に主任は弾んだ口調になって、
『しょうがない奴だな、そういうことなら目一杯聞かせてやるから遠慮せずいつでも言え。何だったら声だけでお前を眠れなくしてやろうか』
「え! そ、それはちょっと」
『何だよ、俺に言って欲しいことでもあったんじゃないのか』
「いえ、そういう訳では……明日に差し障ると困りますし、お気持ちだけで」
 ちょっと気にはなるけど。でも明日も勤務だし、眠れなくなったら困るし、現状でも大分どきどきさせられているので十分だった。溜息まで震えている。
 続きはどうにか続けた。
「私、主任を不安がらせないようにしたいんです」
 歩きながら、考えながら、勇気を奮い立たせて話をするのは難しい。だけど頑張った。こうして繋がっている間は、主任にも喜んでもらえるような話をしたかった。
「いろんなことが初めてで、どうしても戸惑ってばかりいますし、わがままだって言ってます。でも……」
 でも、私は今の気持ちを貫きたかった。
 石田主任を好きになったこと。自分の未熟さを実感しつつも、ずっと好きでいること。だからこそルーキーとして、仕事を頑張ろうと思うこと――何もかも間違いじゃないって思っていたかった。
「どんなことでも頑張ります。主任の為にも、私自身の為にもです」
 そう言った。
「主任のお気持ちを信じて、頑張ります。いつか私の気持ちも信じていただけるように、です」
 霧島さんが言っていた。主任は、私が辛くなるようなことをする人じゃないって。
 私も同じように思うし、現に今日までそうだった。優しさも、気配りも、ほんのちょっとのからかいや意地悪も、辛い気持ちにまではならなかった。むしろ私を、私の知らなかった感情や意識まで連れ出してくれるようなやり方だった。主任と一緒にいて、私は本当にたくさんのことを学んだと思う。だけどそれすら全部ではなくて、まだまだ知らないこと、初めてのことがたくさんある。そういうことの全てを、辛くないと思えるように、誰よりも主任を信じていたい。
「ですから時々は、こうして電話をしてもいいですか」
『……当ったり前だ』
 電話の向こうで、また微かな笑い声。
『それにしても可愛いな、小坂』
 脈絡なくいわれたから、ひっ、と喉の奥で変な呻きが出た。
「からかわないでください、眠れなくなります」
『しょうがないだろ、本当のことなんだから。可愛過ぎてどうしてやろうかと思うくらいだ。もし目の前にいたら黙ってないのにな』
 もし目の前にいたら、どうされていたんだろう。――私は唐突に、だけど繰り返し思い出している二週間ほど前のキスの記憶に苛まれた。もう既に眠れなくなりそうな予感がする。困った。
『それはそれとしてだ』
 無言になった私が狼狽しているとわかったからか、主任の方から話題を振ってきた。
『こうして仕事の後に、電話だメールだってやってると、普通に付き合ってるみたいな感じがするよな』
「え?」
『え、じゃなくて。もうほとんど恋人同士と違わないだろ、俺たち』
 辛いというほどではないけど、主任は時々さらっとものすごい発言をして、私をどぎまぎさせる。今だって、あまりのストレートぶりにどう答えていいのかわからなくなる。そんなこと言われても、そもそも付き合うってどんな感じか知らないくらいなのに。
 こんな感じ、なのかな。
「あの、主任」
『ん?』
「お付き合いするって、こういう感じなんですか」
 仕事の後にメールをするとか、電話をするとか。
 あと、お互いに心配し合うとか、相手を不安がらせないようにするとか。
 私は本当に何も知らない。漠然としたイメージと、ドラマや漫画で得た知識はあるものの、本当にちっともわかっていない。恋人いない歴二十三年。無知にも程があるなと自分でも思う。
 少しずつでも学んでいけたらな、とも思う。
「私、あの、まだよくわからなくて……」
 ぼそぼそと付け足したら、諭すような口調で返された。
『そんな難しく考えることじゃない。まさにこんな感じだからな』
「……そう、なんですか?」
『ああ。意外と大したことじゃないだろ? 案外気楽なもんだって思わないか』
 主任はあっけらかんと言ったけど、これでも私にとっては結構大したことだった。好きな人とメールをしたり電話をしたり、心配してもらったり。何だか大それていて、すごく幸せで、夢でも見てるんじゃないかと思うくらい。
 でも、想像していたよりは気楽と言うか、確かに身近な感じがした。夢じゃない、現実として掴めそうなお付き合いのしかた。
「はい」
 私は、そう答えていた。
「何だか、私にも出来るかもしれないって気がしてきました」
 出来るかもしれない。恋人として、好きな人を想うこと、大切にすること、一緒の時間を過ごすこと。それは思っていたよりは難しくなさそうだった。私にも手が届きそうだった。だけど、思った以上に素敵なことに見えた。
 だって今、すごく幸せだ。どきどきするけど、うろたえたりもするけど、以前の私では想像もつかなかったことをしている。主任に少しずつ近づいている。自分の気持ちも、こうして伝えられるようになっている。
 大丈夫な気がする。私、頑張れそうだ!
『お前なら出来るよ』
 主任も、そう言ってくれた。
『何たって俺がついてるからな。心配すんな、どーんとぶつかってこい』
「はいっ」
『俺はお前を、ちゃんと見ててやるから』
 大変うれしいお言葉の後で、あ、と声が聞こえた。
『それとな、小坂。勤務中はもうちょい笑っててくれ』
「えっ、……わ、笑っていませんでしたか」
 ぎくりとした。自覚はあるような、ないような。この頃忙しかったから、確かに笑顔大作戦はおろそかになっていたようにも思う。
『今日だって、俺が笑っててくれと思うタイミングで微妙な顔してるんだもんな。仕事に差し支えるっての』
「すみません! あの、気をつけます」
『忙しいのはわかってる。でも、俺はお前の笑ってる顔が見たい。ジンクスが掛かってるんだからな』
 軽口の物言いで釘を刺された。
 そうだった。主任のジンクスの対象は私。だから私が笑っていないと駄目なんだ。ようし。
「明日からは頑張ります」
 すぐさま私は宣言し、電話越しにも満足そうな答えを貰う。
『頼むぞ、小坂。お前の笑顔に救われてる奴が、ここにいるんだからな』
「はいっ!」
『いい返事だな。俺はお前の、その返事が好きだ』
 ――わあ。
 今、好きって言われた。
 自分の家が見えてきた夜の住宅街。涼しい風の吹く中で、私は思わず立ち止まる。主任は私の、いい返事が好き。だったらこれからはいい返事を続けていきたい。喜んでもらえること、好きでいてもらえることをしたい。
 今の直球発言にもうろたえそうにはなった。
 どう答えていいか、しばらく思案に暮れた。
 でも結局は、素直な気持ちを伝えたいと思った。その方が絶対、喜んでもらえるはずだから。
「うれしいです、主任」
 すると主任は愉快そうに、
『可愛い奴め。もう一回言ってやろうか』
「い、いえ、それはまた次の機会にお願いしますっ」
『わかった。じゃ、今度は顔を合わせた時にな』
 実は私も、次は電話じゃない方がいいなあ、なんてこっそり思っていた。
 それにもうじき家に着く。家族の前で普通にしていられないと困るので、今日はこれだけで十分だった。

「電話してくださって、ありがとうございました」
 家の手前でお礼を言ったら、笑われた。
『礼を言うのはこっちだ。話せてうれしかった』
「わあ、こ、こちらこそです!」
『これでようやく、美味い晩飯が食べられそうだ』
 主任がそう言ったので、私はちょっとびっくりした。七時過ぎの退勤だったのに、まだご飯を食べていなかったなんて!
「晩ご飯、まだだったんですか?」
 尋ねると、妙に照れたような答えが返ってくる。
『まあな。ほら……心配事が片付いてからじゃないと、美味くないだろ?』
 もしかすると石田主任は、結構心配性だったりするんだろうか。そんなに心配されていたなんて申し訳なくもあり、うれしくもある。心配を掛けずに済むのが一番いいんだろうけど。
「重ね重ね、ありがとうございます」
『いいんだよ、心配したくてしてるんだから。小坂も美味い晩飯にしろよ』
「はい!」
 通話の最後は、とびきりのいい返事で締めくくる。
 本当に少しずつだけど、私は主任のことを知り始めている。ルーキーらしくあることも、恋人同士らしくあることも、少しずつわかるようになってきた。
 だから頑張る。仕事でもそれ以外でも、いつか自信を持てるようになってみせる。
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