Tiny garden

プライドと自覚(7)

 呟かれた言葉の意味は、すぐにはわからなかった。
 ただ、霧島さんの言い方は真剣そのものに聞こえた。強い秋風のせいで聞き違えたのでなければ、とても真摯に告げられていたと思う。
 私は立ち止まろうとしたけど、霧島さんは足を止めなかった。ほんの少し歩みを緩めて、私の顔をちらと見た。気まずげな笑みが浮かんだ。
「小坂さん、あの……」
 視線が外れる。また、ためらう間があった。
「実はですね」
「は、はい」
 改まった切り出し方。私もついつい姿勢を正す。
 歩きながら霧島さんは、ぎこちなく視線を彷徨わせていた。
「先輩から、おおよそのことをうかがいました」
「おおよそ……とおっしゃいますと」
「ですからその、先輩と小坂さんのことについてです」
 ――今回はそれほどびっくりしなかった。
 と言うか予想はついていた。安井課長にも長谷さんにもそれぞれ私のことを話しているようだったから、それでまさか霧島さんの耳に入らないなんてことはないだろうなと。未熟なルーキーの私にもそのくらいの察しはついた。
 但し、びっくりしなかったからと言って、うろたえないとは限らない。
「え、いえ、そんな」
 私は慌てふためいた。それにつけても外堀の埋まりようったらない。主任にとって親しい方々の耳に入ってしまうことは仕方ないと思うけど、やっぱりまだ恥ずかしい。そういうのにまだ慣れていないから、うろたえる以外のどんな反応をしていいものやらさっぱりだった。
「すみません、あの、誤解しないでくださいね」
 なぜか霧島さんも慌てた調子だった。弁解するように矢継ぎ早に言われた。
「先輩からはそれほど事細かに聞いていた訳ではありませんし、あの人が小坂さんのことで惚気るのもそう珍しいことじゃないんです。あとそれと、あの人も悪気は全くないと言いますか、今は幸せいっぱいで舞い上がってるだけなんで、悪い方には取らないでください」
「わ、わかりました……」
 本当に、皆の前で惚気ているんだ、石田主任。
 何と言うか、そういう主任もまだ想像出来ないんだけどな。あんまりそういう話をしそうにないと思っていたし、まして私のことをどんな顔で、どんな口調で話しているのか、ちっともイメージが浮かばない。安井課長や霧島さんとは、一体どんな風に話をしているんだろう。
「それとこれは、あくまで俺が言おうと思って、独断で差し出口を働こうとしているだけのことで、先輩に嗾けられた訳ではありませんから」
 霧島さんは早口気味に前置きして、
「だからその、俺は、小坂さんのお気持ちが本当によくわかるんです」
 と言った。
 うろたえたくなる気分がその時、すうっと引いた。私は瞬きをしてから、強い風の中、隣を歩く先輩の顔を見上げる。
 穏やかでおっとりしていて、後輩の私にも優しい、素敵な人だと思う。この人に私のような、未熟で覚束ないルーキー時代があったとは、やっぱりどうしても信じられない。
 私以外の誰にも、こんなに頼りない頃があったとは思えない。皆が皆、入社してすぐに何でも出来るようになっているんじゃないかって、そんな気さえしていた。だから自信がなくて、でも誰にも迷惑を掛けないように、早く一人前になりたくて仕方がなかった。
「自分の未熟さがどうしても気になって、仕事以外のことにさえ自信がなくなる、そういう気持ちに覚えがあるんです」
 私を真っ直ぐに見下ろして、霧島さんが言い切った。

 駅に着いてからも、私は霧島さんと一緒に歩いていた。
 がらがらのコンコースを抜け、改札を潜り、違うホームへのエスカレーターに辿り着くまで、ぽつぽつと会話を交わした。
「小坂さんは、すごく頑張っていると思いますよ。少なくとも俺の新人の頃よりはずっと優秀です」
 そんなことを言われてしまって、さすがに大急ぎで否定した。
「ま、まさか……。私なんて仕事の覚えも悪いですし、仕事自体遅いですし、全然まだまだですよ。早く一人前になりたいです」
 だけど、霧島さんは微かに苦笑した。
「俺の方がもっと酷かったんです。入社したての頃は、プレッシャーに押し潰されるばかりで、本当に辛かった」
 私はその言葉を、まだ現実としては捉えられずにいる。
「そういう時ほどかえって気が逸るんです。早く仕事を覚えなくちゃいけない、早く一人前にならなくちゃいけない。誰にも迷惑を掛けちゃいけない、とか……そんな風に」
 駅に入ってからは、歩くペースもゆっくりだった。口調は相変わらず穏やかで優しく、そして大人っぽく聞こえた。私の気持ちを全部知っているように、覚えのある言葉が並んでいく。
「俺には小坂さんの気持ちがわかります。仕事が出来るようにならないと、他のことに気を向けてもいられないという気持ちがわかるんです。俺も、一人前になるまでは、他の何も手につかない、どこにも行けないだろうって思っていましたから。今思うと、出来もしないのに一人で焦っていただけなんですよね」
 多分、霧島さんは、私と主任のことをすごくよくご存知なのだと思う。おおよそという程度ではなくて、もしかすると細部に至るまで詳しくご存知なのかもしれない。そのくらい、石田主任が打ち明けてしまったのかもしれない。
 だけど、だとしても、不快な気持ちはしなかった。
「新人であるということは、誰にも変えようがありません。一年目のうちはどこまで行っても新人です。一人前になりたいというお気持ちもすごくわかりますが、逆に言うと、一人前になったら出来なくなってしまうことをする、いい機会なんです」
 霧島さんが熱っぽく語る。
 私も思う。今年がルーキーイヤーだという事実は、どんなに努力したって引っ繰り返せない。だからこそ今、私に出来ることを頑張りたい。
「小坂さんも、今のうちにやるべきと思ったら、徹底してそれを頑張ればいいと思います」
 そう言ってもらえることが心強かった。
「先輩は、普段でこそあんな調子ですけど、仕事の面ではすごく頼りになる人です。小坂さんの頑張りも見守っていてくれるはずですし、大変な時はちゃんと手を貸してくれます。だから小坂さんは自信が持てるようになるまで、今のうちに頑張り通せばいいと思います」
 私の気持ちを理解してくれる人が、主任の他にもいることを、幸せなことだと思った。
「それに、石田先輩は、小坂さんが辛くなるようなことは絶対にしない人です」
 霧島さんがきっぱりと言った。
 普段のやり取りとはまるで違う、信頼の垣間見える物言い。だけど意外な印象はなかった。
「あれだけ惚気放題な人です。小坂さんの気持ち、きっと尊重してくれると思います。ですから小坂さんも先輩を信じて、頑張って、いつかどんなことにも自信を持てるようになってください」
 告げられて、私は無言のうちに頷く。
 そして少し理解した。主任が私のことを、皆に話したくなる気持ち。
 私はまだ惚気話をするなんて出来そうにないけど、でもわかる。私のことを知っていてくれる人がいるのはいいことだ。不安がどこかへ掻き消えてしまう。主任を好きでいることを肯定してもらえるようで、うれしい。
 思えば、学生時代から恋の相談はよくしていたっけ。そういうことを話すのが苦手なくせに、すぐ顔に出てからかわれるくせに、友達に聞いてもらえるとほっとした。気持ちが軽くなるような気がした。
 主任もそういう気持ちで、皆に打ち明けているんだろうか。
 だとしたら私は、教わった通り、石田主任を信じているべきだと思う。不安にはさせないように。いつか、公私どちらにも自信を持っていられるように。
「何だか、熱く語ってしまってすみません」
 ホームに通じるエスカレーターの前、霧島さんが立ち止まる。
 上から風が強く吹き込んでくる。秋風に、ぼうっとする頭が少し冷えた。これからはぼんやりもしていられない。頑張らなくちゃ。
「いえ、霧島さんのお話、とってもためになりました。ありがとうございます!」
 私がお辞儀をすると、霧島さんはむしろ困ったように笑う。
「そこまでの話はしていませんよ。差し出口だったのではないかと不安なくらいです」
「ちっともです! 私、うれしかったです!」
 すごくうれしかった。頑張ろうって気持ちにもなった。こうして気に掛けてもらっていることが幸せだった。すごく優しくて、素敵な先輩だと思った。
 でも――そんな霧島さんに、私みたいな頃があったとは、やっぱりどうしても思えないかな。それとも、私もいつか霧島さんや、石田主任みたいになれるんだろうか。ちっとも想像出来ないけど。
 今の私はどうあってもルーキーだ。それは三月が過ぎるまで変えようがない。だからルーキーとして出来る限りのことを精一杯頑張る。徹底的にやろう。自分に自信が持てるまで。いつか誰かに、何でもないことみたいに話せるようになるまで。
「ありがとうございます、小坂さん」
 ふっと笑んだ霧島さんに、なぜか私の方がお礼を言われてしまった。慌てて感謝を返す。
「こ、こちらこそです。貴重なお話をありがとうございました!」
 そしたらもう一度笑いかけられて、
「応援してます、俺」
 そんな風にも言ってもらえた。
「先輩と小坂さんが上手くいけばいいなと思ってます。……あ、でも、先輩にはこのこと、秘密にしといてください。知られるのは癪なんで」

 多分、と言うか絶対、霧島さんは石田主任のことが好きなんだと思う。
 当たり前か。好きじゃなかったらお休みの日まで一緒にいるはずがない。
 霧島さんと、主任と、それから安井課長と、長谷さんと。それぞれの関係がすごく羨ましくて、いいなあ、と思う。私がそこへ入っていくのはまだ気が引けるけど、もっと知りたい、近くで見てみたい、そんな気持ちは確かにある。
 それとせっかくだから、今度は霧島さんと長谷さんの惚気話も聞いてみたいな。結婚式まではまだ日があるし、機会があったらじっくりと。あんなに素敵な人たちの馴れ初めなんだから、素敵じゃないはずがない。

 霧島さんと別れて、電車に乗って最寄り駅まで戻ってきてから、私は携帯電話を取り出した。
 駅から自宅まではほんの十分程度で、走って帰ればすぐの距離だった。でも帰ったらご飯を食べたり着替えをしたりしなくちゃいけない。そんな時間も今は惜しい。
 主任の声が聞きたくなった。
 主任を、安心させられたらいいなと思った。
 信じたいと思う気持ち、伝えたかった。メールだと伝え切れそうにないから、出来ればちゃんと声に出して告げたかった。
 もっとも、気軽に電話をするほどの間柄ではまだない。私はどきどきしながら、主任の番号を表示させて、通話ボタンを押してみた。

 一コール目の後に繋がった。
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