Tiny garden

自覚とプライド(1)

 十月も終わろうとしていたある朝のこと。
 その日は重い荷物もあったし、前日の仕事が少し残っていたから、早めに出勤した。そしたら私は二番乗りだった。
 先に来ていたのは石田主任だ。ドアを開けるとすかさず、明るい挨拶をくれた。
「おはよう」
「あっ、おはようございます、主任!」
 笑顔を心がけつつ挨拶を交わして、ついうれしくなる。今日も頑張ろう、そう気炎を上げていたところに、主任が手招きをしてきた。
「来て早々で悪いが、小坂、ちょっと話がある」
 手をひらひらさせつつ、難しげな顔つきをされている。
 すぐさま、あまりいい話ではなさそうだと察した。主任ならいい話の時はそういう顔をしてくれるから、わかる。注意を受けるんだろうか。そうだとして、注意される理由に心当たりは――どうだろう、あるような、ないような。ここ最近は特に失敗もしていなかったけど、あくまで『自分で気付けた』失敗がなかっただけの話だ。私の気付けなかった失敗が、私よりも先に主任の耳に入ってしまったのかもしれない。
 一体どんなことだろう。得意先から何かのクレームがあったのかな。それとも発注ミスかな。前みたいに忘れ物をしてきちゃったなんてことはないと思うけど、失敗に関しては可能性が無限に広がっていくものだから、自然とびくびくしてしまう。

 ともあれ呼ばれた通りに傍まで行く。
 私が目の前に来たのを確かめてから、主任は机上に一枚の紙を置いた。
 印刷された表、のようなもの。目をやってすぐに勤怠管理表だと気づいた。前月期の出勤時刻と退勤時刻がずらっと並んでいる。小坂藍子、と名前も書いてある。
 ということはつまり、これから勤怠状況についてのお話があるんだろう。
 そこまでは察したものの、具体的に何を言われるのかがわからなかった。遅刻も早退もしたことないし、欠勤だってまだ一度もない。でも、勤務時間に見合う仕事が出来ている自信はない。そのこと、かな。何にせよ、どう注意を受けてもおかしくはない、気を引き締める。
 主任は別の机から椅子を引っ張ってきて、勧めてくれた。私がお礼を言って腰を下ろすと、主任も自分の席に着く。二人きりの朝のオフィスに、椅子の軋む音が響く。
 どきどきする。身の置き所がないという意味で。
「言いにくいんだが」
 そう前置きされたから、こちらも覚悟を決めた。
「前月、さすがに残業が多いな」
 溜息交じりに言った主任は、表の退勤時刻を示すように指先でなぞった。それによると一ヶ月のうちで残業扱いになった日数は――前月分だと十五日間。勤務日のうちほとんどと言ってもいいくらいだった。前月は一人で外回りに出るようになって、ぽつぽつと受注も請け負うようになって、結果やるべき仕事が一気に増えたせいだと思う。
 むしろ、やるべき仕事をこなし切れてないせい、だけど。日数よりも純粋に時間の方が問題なのかもしれない。
「この時期にしては多い。来月以降はもっと忙しくなるのに、大丈夫か?」
「すみません」
 身に覚えはある。最近の私はすっかり残業が当たり前になってしまった。だから素直に頭を下げた。
 そうしたら主任にも、わかっているという顔をされてしまった。
「いや、事情は把握してる。こっちだってお前が無意味に居残ってるとは考えてない。俺だって以前、お前に残業を頼んだことがあったし、最近じゃ家に持ち帰ってもやってるようだしな。真面目に働いてる奴を叱るつもりもない」
 淡々と、落ち着いた口調で続ける。
「ここだけの話、小坂に限った話じゃなくてな、営業に出始めた新人なら誰でも必ず通る道だ。だからいちいち言う方も気が引けるんだが、一応釘は刺しとかなきゃならん」
 そこまで話して主任は嘆息した。言葉の通り、口の重い様子だった。
「と言うのもだ、営業成績だけじゃなく、残業の時間数も当たり前だが査定に響く。一年目はそこまで重大な結果にはならないだろうが、来年度からは気をつけないと、はっきり数字に出てくるぞ」
「はい」
 私は重々反省しながら頷く。耳の痛いお言葉だった。
 残業が多いということは私の場合、仕事が遅いということ。いい評価の貰えるものではない。もう少し能率を上げたいのはやまやまだけど、もっとも焦ったってしょうがないから、今は目の前の仕事を切り崩していくだけだ。前向きなのかそうじゃないのか、自分でもよくわからない気持ちでいる。
「上の人間はいろんなところを見てくるが、必ずしも全部を見てくれる訳じゃないからな。俺だってお前の頑張りのどこまでを把握してるか、いまいち自信はない」
 苦笑気味に主任が続ける。
 でも石田主任は、私のことをとても好意的に見てくださっていると思う。その評価に是非応えたいと、強く思うくらいに。
「これからどんな人間の下に就いてもいいように、隙は減らしておく方がいい。残業時間もこだわる奴はしつこく追及してくるからな。意識しておけ」
「はい」
 まだ一年目だから、自分や他の人が異動になる状況は正直想像もつかない。今の営業課はいい人たちばかりだし、営業の仕事は大変だけどやりがいもあるし、何にも変わらなければいいのにな、と思ってしまう。我ながら学生っぽさの抜けてない考えだ。
 本当は考えておくべきなんだろうな。一年目が終わってからのこと。この先、ずっと先の未来のことも。ルーキーイヤーが終わったら、今のままではいられない。
「それと、十一月後半から今よりもずっと忙しくなる」
 主任の目が壁のカレンダーに向けられた。
 近い未来の話になれば、一年目の十月ももうじき終わり。次にやってくるのは十一月、そしてその次はいよいよ十二月だ。年末の忙しさはそれこそ想像を絶する。覚悟だけはしているけど、現状でもいっぱいいっぱいな自分に乗り切れるかどうか。乗り切らなくちゃいけない。
「今からその仕事量で八時九時の残業続きだと、来月以降はますます辛くなるぞ。早いうちに態勢立て直した方がいい」
「はい」
 その言葉にも頷く。頑張らなくちゃ、と思う。
 私の営業デビューが九月過ぎだったのも、繁忙期を避けてということだったんだろう。なのにこの時期からこんなに残業をしているのはさすがによくない。営業の仕事にもそろそろ慣れておかないと、主任の言う通り、来月以降の業務に差し支えそうだ。どうしたものか。
「とは言え、こんな話をしといて何だが、あまり気負うなよ」
 私の表情をじっと見据えて、主任が少し笑った。
 心配してくれているのが感じ取れる、つり目がちな優しい眼差し。注意をしながら相手を気遣う、なんて簡単なことでもないはずなのに。私の場合、そんな風に言われるとかえって気負いたくなるから困ってしまう。主任の為にも絶対に、仕事が手早くなりたいなと思う。
 そういう内心もきっとばればれなんだろう、後に続く言葉もまた優しかった。
「残業続きで一番心配なのはお前の体調だ。就職したてで無理し過ぎて、身体壊したなんて奴もいくらでもいる。そういう意味でも無理はするな」
「ご心配ありがとうございます。身体はめっぽう丈夫な方ですから、まだ平気です」
 そこだけはむちゃくちゃ自信があったので、力一杯答える。入社してからこのかた風邪も引いていないし、食欲も失くしていない。もっと無理が利くんじゃないかな、なんて思うふしもちょっとある。
 途端、主任にはにやっとされた。
「そうだよな、小坂はまだ若いもんな。ただ過信はするなよ」
「は、はい。もちろんです」
 若いと言われると何だか恥ずかしくなる。この間、霧島さんとも話したけど、若いと言うのは未熟だということでもあるし、でも今の私にとっては取り柄でもある。過信も慢心もしたくはないけど、もうちょっと頑張れるはずだ。
「それと、必要ならいくらでも手を貸すから、いくらでも頼ってくれ。新人のうちは上の人間の使い方も学んでおかなきゃな。むしろ本題はこっちだ」
 そう言って、主任は私の肩を叩く。向かい合わせの距離で触れられると、仕事の話をしている最中でもやっぱり、どきっとする。
 大きな手。頼りがいのある人の手だ。
 私の手もいつか、主任の手くらいに大きくなれたらいいんだけどな。同じように誰かを励ましてあげられるように。今はまだちっちゃい、頼りない新人の手でしかないけど、いつかは。
「俺に出来ることがあれば遠慮なく言ってくれ。お前の面倒なら喜んで見てやる」
 気安い物言いに恐縮したくなる。そうは言われても遠慮しない訳にはいかないけど、お気持ちがうれしいのも本当。ものすごく、本当。主任の下で働けて本当によかった。
「ありがとうございます、主任!」
 感謝はいくら言っても言い足りない。でも言わないことには気が済まない。私がお礼を口にすれば、主任は照れたように首を竦める。
「礼はまだいい。そのうち、手伝ってやる機会でも出来たらな」
「はいっ」
 残業について注意を受けていたはずなのに、最後の方はすっかり元気付けられてしまった。
 頑張ろう。
 営業デビューからずっと、無理矢理に頭に詰め込んできたことばかりだけど、それらをここで一旦整理整頓して、よろめきがちな態勢を立て直そう。年末に向けてもう少し余裕を持っていられるように。もうじき、いやでも残業をしなければならなくなるんだから。

 もっとも――自分でも考えていた通り、今の私に出来るのは目の前の仕事を切り崩していくことのみで、意識したところでそう容易く目覚しい成果を挙げられるものでない。気負うなと言われていた通りにするのが精一杯だった。
 焦っていたつもりはなかったし、特に大きな失敗もなかった。
 だけど結果的に、その日も残業してしまった。
 つまりそれは主任の言う通り、来月以降に不安を残す仕事ぶりということになる。
PREV← →NEXT 目次
▲top