Tiny garden

プライドと自覚(6)

 霧島さんと二人、黙々と残業を行っていた。
 先に仕事を終えたのは私の方だった。仕事の分量を考えたら、当然そうでなければいけないんだけど。
「お先に失礼します」
 帰り際に声を掛けると、霧島さんは一度手を止め、優しく笑い返してくれた。
「お疲れ様です、小坂さん」
 今日はうんと忙しかったみたいだし、疲れているに違いないのに、そうやって笑える霧島さんが素敵だなと思う。私も倣って、笑顔でお辞儀をする。
 タイムカードを通したのは予定通りの午後八時少し前。外はもう真っ暗で、私もそれなりにくたびれていた。水でも入っているみたいにぱんぱんの脚を引きずりながら、とりあえずロッカールームへと向かう。
 貸し切り状態のロッカールームで、何気なく鏡を覗く。化粧を直さずに帰るのはいつものこと。でも、残業上がりの時は結構よれよれな顔をしているのがたまに気になる。この顔でさっき、霧島さんにご挨拶したんだよなあと思うと、ちょっと恥ずかしかった。それでも、直す気力はやっぱりないんだけど。脚はぱんぱんなのにお腹はぺこぺこだから、一刻も早く帰りたかった。
 それに、石田主任にメールをしなければいけない。心配するからってあんなにはっきり言われてしまったんだから。
 そのことを意識すると何だかいてもたってもいられなくなって、帰り道でどんなメールを送ろうか、考えていこうと決めた。そうじゃないと今日中に間に合わないかもしれないし。

 鞄を手にロッカールームを出ると、廊下の向こうでは人影が動いた。
 営業課のドアの前、鍵を掛けているのは霧島さんだ。見つけた途端、あ、と声が出た。
 霧島さんもお帰りになるんだろうか。私が退勤した時にはまだお仕事中だったはず。あれからまだ十分と経っていないのに、コートを着込んで鞄を提げて、いかにも帰りますという格好をしているから驚いた。すごく手早い帰り支度だ。これも見習わなくちゃいけない。
 それはともかく、
「あの、霧島さん!」
 私が思わず声を掛けると、霧島さんがこちらを見た。十メートルの距離を置いてもわかる笑顔。
「ああ、小坂さん。今お帰りですか」
 右手に通勤鞄、左手には長谷さんのお弁当を持った霧島さんが、尋ねながら近づいてくる。私も足を止めて応じる。
「そうです。霧島さんもですか?」
「ええ。俺も帰るところです」
 答えた後で、私が驚いているのに気づいたか、こう言い添えてきた。
「今日は疲れました。こんな時に残業をしても能率が上がりませんから、帰ることにします」
「お、お疲れ様です……」
 今日の霧島さんは営業課随一の多忙さだったから、くたくたになってしまっても仕方ないと思う。大変だなあ。私が気遣い方を考えていると、逆に気を配るような明るさで言われた。
「弁当だって、会社で食べるより家で食べる方がずっと美味しいですから。いっそ帰ってしまおうと思ったんです」
 その口調がからっとしていて、しかもすごく優しくて、私はしみじみと共感した。
「そうですよね」
 お弁当を作った人だって、より美味しく食べてもらえる方がいいに決まっている。家で食べるご飯は美味しい。勤務中の凝り固まった気持ちが全部解けて、くつろいで食べられるからだと思う。
 そこまで考えてからふと、主任のことを思い出す。主任は今頃おうちに着いて、晩ご飯を食べているのかな。お昼を食べられなかった分、とびきり美味しく食べられていたらいいんだけどな。
「小坂さんは電車通勤でしたね」
 エレベーターホールまで一緒に歩きながら、霧島さんが聞いてきた。
「はい、そうです。霧島さんもですよね?」
「ええ。よかったら、駅まで一緒に行きましょうか」
 ありがたいお誘いだった。と言うのも残業に慣れつつあるこの頃、それでも夜道の一人歩きは時々不安になったりするからだ。いつもは早送りのスピードで駅まで歩いていたけど、誰かと一緒なら安心出来る。
「是非ご一緒させてください!」
 私が勢いよく答えると、霧島さんはにっこり笑ってくれた。疲れの色が本当に見えない笑顔だった。

 十月も半ばを過ぎると、風はどんどん冷たくなる。
 特に陽が落ちてからの冷え込みは、日中の暖かさが嘘のように思えるほどだ。コートの襟を立てて、首を竦めながら歩いている。月が替わったら冬物のコートを出そうかなとぼんやり思う。
 会社から駅まではほんの五分の距離。それでも寂しいビル街を、一人で歩かずに済むのはとてもありがたい。二人でぽつぽつと、とりとめのない会話をしていた。
「めっきり冷え込むようになりましたね」
「そうですね。この間まで夏だと思っていたのに、びっくりです」
「これからは、夏場とは違う意味で社用車が辛くなりますよ」
「うわあ……覚悟しておきますっ」
 年上の人ばかりの営業課員の中、霧島さんとは他の人よりも話しやすいと思っている。同じ二十代だからというのもあるけど、おっとりしていて、ルーキーの私の対してさえ物腰柔らかな人だから。
「そういえば、小坂さんと二人で歩くのは初めてですね」
 考えるそぶりの後、霧島さんが問いかけてきた。
「はい」
 風が強くて、髪が口の中に入ってきそうになる。それを指で払いつつ、答えた。
「同じ電車通勤なのに、お会いすることなかったですよね」
「ええ。退勤時間もなかなか一緒になりませんでしたから」
 学生時代との違いはそこだと思う。皆の退勤時間がばらばらで、誰かと一緒に帰る機会はそうない。それこそ、約束でもしない限りは。
 そもそも、友達と同僚とは全く質の異なる存在だ。友達なら気軽に声を掛けられるけど、同じ営業課の皆さんには、たとえ帰り道が一緒になっても『一緒に帰りませんか』なんて誘えない。それはもちろん、私が一番の年少だからというのもあるんだろうけど。
 今日は霧島さんに誘ってもらえて、うれしかった。
「こういうの、すごく新鮮です」
 懐かしい思いで私が言うと、おかしそうにされた。
「なるほど、新鮮ですか」
「はい」
 つられるように私もちょっと笑って、続ける。
「勤めに出たら、誰かと一緒に帰る機会がめっきり少なくなりました。学生時代はいつも友達と一緒だったのに、いつの間にか一人で歩く機会の方が多くなって、何だかすごく不思議な感じがするんです」
「学生時代というのも、とても懐かしい話ですね」
 隣を歩く霧島さんが、眼鏡越しの視線を向けてくる。髪が風に揺さぶられていても、笑い方は実に穏やかだ。
「小坂さんにとってはつい最近の記憶なんですよね、羨ましいです」
「え、そんな、霧島さんだってお若いですよ!」
 とっさに言ってしまったものの、お若いですよ、なんてかえって失礼な言い種だったんじゃないかと後で思った。霧島さんはまだ二十代、確か二十七、八のはず。石田主任の二年後輩と聞いていたから間違いない。
 焦る私をよそに、それでも霧島さんは羨ましげに、
「さすがに、小坂さんの若さには敵いません」
 と言う。
 若さを羨ましがられるというのも、よくあることだけど不思議なものだった。ついこの間までは二十三歳なんて大人って感じだったのに、二十三になっても若い若いと口々に言われているのがくすぐったい。若くても、羨ましがられることなんて特別ないのにな。むしろ早く大人になりたいくらい。
「でもあの、私の場合は、若さイコール未熟さですから。あんまりと言うか、ちっとも自慢にならないんです」
 ますます焦った私は、謙遜のつもりもなく言っておく。
 事実そのとおりだった。若さを自慢に出来る機会なんてない。羨ましがられる度に、大したことじゃないのにとくすぐったくなった。若くてよかった覚えもない。
 そうしたら、霧島さんにはまたおかしそうにされた。
「誰だってそうですよ。若いうちから完璧な人なんてそうそういません」
 後に続く言葉はより優しかった。
「小坂さんを見ていると自分の新人時代を思い出します。俺にもこんな頃があったんだと、思い返してみて、気が引き締まるんです」
 私ははっとする。当たり前のことだけど、誰にでもルーキーの頃がある。霧島さんだって例外じゃないだろうし、実際に霧島さんの新人時代の話を、主任の口から聞いたこともあった。
 お話をうかがっていても尚、霧島さんに未熟な頃があったとは思えなかったりもするんだけど――それは霧島さんだけじゃなくて、皆そう。石田主任や安井課長、長谷さんのルーキー時代なんてまるで想像もつかない。皆、入社した当初からばりばり仕事が出来て、何年も働いている人みたいに堂々としていたんじゃないかって気さえする。主任についてはまさにその通りらしいけど。
 でも、霧島さんは笑って言った。
「俺にだってルーキーの頃があったんですよ」
 心を読まれたような気がして、私は恐る恐る聞き返す。
「あの、私……そういう顔、してましたか」
「してました。俺の新人時代なんて想像もつかない、っていう顔を」
「あ……。す、すみません」
 何でも顔に出しちゃうのはよくない癖だ。恥じ入る私に、霧島さんは更に続ける。
「いいんですよ、お気持ちはわかります。俺だって石田先輩にルーキーの頃があったとは到底思えませんから」
 それはわかるなあ。主任の新人時代の話は主任と安井課長から聞かされていたけど、さもありなんという感じだった。
「きっとあの人は、入社当初からあんな調子だったに違いありません」
 霧島さんは『あんな調子』という部分にたっぷり気持ちを込めていた。当人のいないところでも仲のいい喧嘩は続いているらしい。
 私がどうコメントすれば迷っていると、不意に霧島さんも口を噤んだ。
 なぜか、ためらうような間があった。
 どうしたんだろう。不思議に思っていれば、ちょうど道の向こうに駅の明かりが見えてきた。ビル街のどこよりも煌々としていて、街灯の明かりに慣れた目には眩しい。
 思わず目を細めた時、ぽつりと聞こえた。
「――だから俺には、小坂さんの気持ちもわかります」
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