Tiny garden

プライドと自覚(5)

 午後七時を回ると、営業課に残っているのは私と石田主任だけになった。
 その主任も既にタイムカードを押していて、帰り支度まで済んでいる。残業をしているのは実質、私だけだ。――それと霧島さんも。

 霧島さんからはさっき連絡があり、もう十分ほどで帰社するとのことだそう。主任は霧島さんにここの鍵を渡すという名目で営業課に残っている。でもそれは建前で、本当は霧島さんのことが心配なんだろうなと私は踏んでいる。言うと怒られそうなので黙っているけど。
 さっき長谷さんから預かったお弁当は、言われたとおり机の上に置いてある。どうにか無事にお渡し出来そうでほっとしている。私の仕事も予定通り、八時までには終わりそうだったから、それまで霧島さんが戻ってこなかったらどうしようかと思っていた。
「その時は置いて帰ればいいだろ」
 主任はあっさりと言うけど、預かりますと答えた手前、ちゃんと見届けなくてはと思うのが人情。私だって、人のことを心配していい立場ではないけど、やっぱり霧島さんが気になる。きっとお疲れの顔で戻ってくるんだろうな。それこそ、他人事でもない。
「長谷さんはえらいよなあ」
 帰り支度の済んだ主任が、自分の席で頬杖をついている。スーツの上にコートを着込み、今すぐにでも帰れる態勢だ。
「こうして霧島の忙しい時には弁当作ってくるんだもんな。あいつには過ぎた奥さんだよ」
 またまたそんなこと言って、主任も本当は霧島さんと長谷さんがお似合いだって思っているくせに――と突っ込みたいのはやまやまだったけど、私は口を噤んで表計算ソフトと格闘していた。でも笑いまでは堪え切れていなかったらしく、逆に主任から突っ込まれた。
「何でにやにやしてんだ、小坂」
「す、すみません。何かいいなあと思ったんです、そういうの」
「そういうのって?」
「主任が霧島さんだけじゃなくて、長谷さんとも仲の良いことです」
 家族ぐるみのお付き合いって感じがする。ちょっと違うかな。
 でも、例えば仲の良いお友達だけじゃなくて、そのお友達の恋人とか、家族とも仲良く付き合えたらすごく楽しいんじゃないかなと思う。主任もそうだけど、霧島さんも長谷さんも人当たりのいい性格だから、そういうお付き合いでも上手くいくんだろうな。
「主任と、霧島さんと長谷さんと、それから安井課長と。皆さんが仲良しなのが、いいなあと思いました」
 テンキーをかちかち言わせながら私が答えると、主任はなぜか黙り込む。しばらくしてから視線を上げたら、随分とくすぐったそうな顔でこっちを見ていた。その瞬間に言われた。
「お前も、直に交ぜてやるから」
 外堀がどのくらい埋まっているかは、大体知った。それでも私はあたふたしてしまう。
「……え、あの、よろしいんですか?」
「俺はそうしたい。お前が嫌じゃなければな」
「嫌なんてことは……」
 ちっともない。全くない。でも、私なんかがそこに交ざっちゃっていいのかなという気もちょっとする。霧島さんや安井課長のことはいい人だと思うし、長谷さんとはまたお話ししてみたいなと思うけど、そこに自分が入り込んでいる光景はどうしても想像しづらかった。
 でも、安井課長にも言われていたんだっけ。今度三人で飲みに行こう、とか――あれは冗談だったのかもしれないけど、話題によってはうろたえるばかりの時間にもなりそうだけど、でもそういう風に声を掛けていただけたのはうれしい。主任に少しでも近づけた気がするから。
「長谷さんは、もうじき霧島夫人になる人だからな」
 ぽつりと、主任がそう言った。
「だからまあ……これから営業課に顔を出す機会も増えるだろうし、お前も受付以外で顔を合わせることがあるだろうから、親しくなっといて損もないだろ」
「はい」
 頷いた私は、その後でふと思い出した。
「そういえば私、長谷さんにお祝いを申し上げるのを忘れていました」
「お祝い? ああ、結婚のか?」
「はい。うっかりしていました」
 悔しい。霧島さんにはその日のうちに言えたのに。あれから日が経ってすっかり忘れてしまっていた。
「次の機会はいくらでもあるし、気にするな」
 主任がそう言って慰めてくれたので、少しだけ気を取り直した。次の機会があるといいなあ。もしかしたらそれは、勤務時間外のことになるんだろうか。
「ところで、長谷さんのことだがな」
 不意に主任は苦笑して、こう続けた。
「非の打ちどころがないお嬢さんに見えるが、あれで人の顔を覚えるのが苦手だそうだ」
「へえ、そうなんですか」
 びっくりした。長谷さんにも苦手なこととかあるんだ。
「俺と安井なんて半年近くごっちゃに覚えられてたらしいからな。酷いだろ? 霧島の名前はすぐに覚えたって話なのに」
 言った後、主任は拗ねた様子で鼻を鳴らす。
 失礼だけどちょっと笑ってしまった。なるほどなあ、と思う。笑ったのがばれないよう、ラップトップに視線を戻す。
「それでも、俺は覚えてもらえたからまだいい。他の連中に至ってはなかなか顔と名前が一致しなくて、おいそれと用を頼めないって言ってたんだ。だから長谷さんにとっても、お前に頼み事が出来るのはいいことだと思う」
「……はい」
 私もそう思う。
 もしかして主任は、だから私と長谷さんを引き合わせようとしたのかな。もうすぐ霧島さんの奥さんとなる人に、営業課への敷居をより低くしようとしているのかもしれない。
 でも、なかなか顔を覚えられない長谷さんが、私の顔はしっかり覚えていてくれたのだからうれしい。それでなくても男所帯の営業課で、ルーキーでなおかつ女の子というのは覚えやすいのかもしれない。けど。
 別の可能性もあるのかな、と漠然と思ったりもする。
「主任。一つ、質問があるんですけど」
「場合によっては答えてやらない」
 即座に予告され、答えてもらえない可能性が高そうだと私は思う。
「その、主任は、私の話をよく他の方にもなさるんですか」
 そう尋ねると、主任は案の定という顔で口元をほころばせた。逆に尋ね返された。
「駄目か?」
「駄目と言う訳ではありませんけど、ちょっと恥ずかしいかなって……」
「気にするな。どうせ大した話はしてない」
 主任は取り成すように言ったけど、長谷さんはともかくとして、安井課長の言っていたことは相当大した話だと思う。与り知らないところでどういう風に話されているのかわかったものじゃない。素面じゃ言えない話とか具体的に想像しようとすると恥ずかしくて溶けちゃいそうだ。
 私がぼんやりしている間に、
「それにしても腹減ったな」
 呻くような言葉で主任が、大きく話題を変えてしまった。話を逸らされたのかもしれない。
「長谷さんお手製の弁当、当然美味いんだろうな」
 霧島さんの机の上に置かれた紙袋を、明らかに物欲しげな目で見つめる主任。あれきり何も食べていないんだから、きっとお腹が空いているはずだ。私は面を上げて言った。
「きっと今日の晩ご飯は美味しいですよ、主任」
「出来合いのおかずでもか」
「美味しいと思います。我慢の甲斐があったって思うはずですよ!」
 そう告げたら、主任にはいたく感嘆した表情をされてしまった。
「さすがは小坂。食い物について語る時は含蓄があるな」
「……食いしん坊ですから」
 自分でももう認めてしまうことにする。恥ずかしかったけど、それで主任が楽しそうに、げらげら笑ってくれたから、よしとした。主任になら笑われたってちっとも構わない。

 営業課のドアが開いたのは少ししてからで、霧島さんは室内にいた私と主任の顔を見るなり、ふうと深い溜息をついた。
「ただいま戻りました」
 声からして疲労困憊といった様子だ。
「お帰り」
「お帰りなさい、霧島さん」
 それでも私たちが挨拶をすると、苦笑いを浮かべてみせた。
「お二人で残っていたんですか」
「まあな」
「俺、お邪魔でしたか」
「今に始まったことじゃないから気にするな」
 私が反応する暇もないほど、ハイスピードで繰り広げられる応酬。実にいつも通りの霧島さんと石田主任だ。……邪魔だなんて、そんなことないのに。
「とりあえず、鍵」
 立ち上がった主任が椅子を収め、霧島さんに歩み寄る。鍵を手渡してから鞄を肩に掛けた。
「それと、長谷さんから弁当を預かってた。小坂が見張ってたからな、礼ならその二人に言え」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます」
 霧島さんが私の方を向き、丁寧に頭を下げる。私は急いでかぶりを振った。
「いいえ、大したことはしてないです」
「謙遜するなよ。思いっきり恩を売っとけ」
 主任はそう言うけど、出来っこない。だって本当に何もしていないから。でも――次の機会があったら、また小さなことでもお役に立てたらいいな、と思う。
「じゃ、俺は帰るからな」
 用は済んだと言わんばかりに、戸口へと向かう主任。一度ちらと振り返り、私と霧島さんの顔を見比べて、言った。
「お前らも残業はほどほどにしろよ」
「は、はいっ。お疲れ様です!」
 私が姿勢を正して応じると、主任は少し考えるような顔をしてから付け加えてくる。
「小坂。お前は帰宅したらメールな」
「え? えっと、主任にですか?」
「当たり前だろ。俺が心配するから、ちゃんと報告すること」
 ご迷惑やご心配をお掛けするのは忍びない。普段からそう思っていたのに、今の『心配』の一言はやけに耳に残った。あからさまに動揺してしまった。
 そんな私に気づいてか、主任はにやっと笑った。それから、手をひらひらさせて営業課を出て行く。
「じゃあ、お先」

 私がどぎまぎして閉じたドアから視線を逸らしたら、霧島さんと目が合ってしまって、少し笑われて、余計にどぎまぎした。
 なのに霧島さんはこんなことを言う。
「愛されてますね、小坂さん」
「そ、そんな……止めてくださいよ霧島さん!」
 確かに主任のお言葉はうれしかったけど、やっぱりまだ、ちょっと照れた。
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