Tiny garden

左手と右手(8)

「お願いがあります、主任」
 深く息を吸い込んで、切り出した。
 窓の外は次第に暗くなっていく。射し込む夕日は先程よりも傾き、沈んでいる。主任の顔までは照らしていない。
 でも、どんな表情をしているかはわかった。目つきの鋭さと、真剣な面持ちに、私は真っ直ぐ向き合った。主任も僅かに身動ぎをして、運転席から私と正対する。手は繋いだままだ。
「何だ?」
 聞き返されたから、気持ちを奮い立たせながら続ける。
「前に、別のことをお願いしていましたよね。九月の、飲み会の後にです。私の、その、す、好きな人のことで」
 途中までは順調に来ていたのに、肝心なところで噛んだ。そのせいか、あるいは別の理由からか、主任はやや複雑そうにしてみせる。
「ああ」
 頷いた後に、言い添えてくれた。
「はっきり覚えてる」
「ありがとうございます。……あの時のお願いは、なかったことにしてください」
 緊張で息継ぎすら満足に出来なかった。でもなるべく間を置かないように話した。
「ルーキーイヤーが終わったらお話しするということと、主任には……でも、無理に待っていただかなくてもいいですって、そうお願いしていましたよね。あれを全部、帳消しにしたいんです」
 繋いだ手を、知らず知らずのうちに握り締めていた。無闇に力を込めていたに違いないのに、主任はちっとも迷惑そうにせず、握り返してくれさえした。
「代わりに、別のお願い事を、聞いていただきたいんです」
 私がそこまで語ると、そっと相槌をくれた。
「わかった。言ってみろ」
 優しい言葉が私の背中を押す。
 だから、ためらわずに言った。
「あの……私、石田主任が、好きです」
 続けた。
「お願いです。年度末まで、私を待っていてくださいませんか」

 ぴんと張り詰めたような沈黙。
 波の音は聞こえない。それよりも強く、忙しなく、自分の心臓の音が聞こえる。きっと心拍数がすごいことになっている。メトロノームの最速にだって今なら勝てる。
 主任は、表情を変えていない。真剣な面持ちでいる。私のことを注視している。
 視線の鋭さに、やっぱり何だか大それたことを言ってしまったような気がしてきた。好きです、って言い方は子どもっぽかったかな。もっと大人の女の人が言うみたいに告げられたらよかった。そういうのは私には似合わないかもしれないけど、でも。
 どぎまぎしながら俯こうとすると、不意に何かが、私の額に触れた。指だ。主任の指先。
 更にどぎまぎしながら恐る恐る顔を上げたら、ぴんと額を弾かれた。
「いたっ」
 走る痛みに私は呻いた。左手で額を押さえながら、目の前の主任を見上げる。
「何をするんですか」
「お前こそ、どれだけ俺を弄べば気が済むんだ」
 抗議の声は重い低音の声に押し返された。私が思わず口を噤むと、主任も気まずげに溜息をつく。
「三月終わるまで待てって言われてもな。待てないって、前に答えた」
 私も当時のやり取りはしっかり覚えていた。主任のその返答に対し、更にこう答えた。――全然、待っていただくことはないです、と。
 当時は思っていた。年度末までにもし、主任がどなたかを好きになったり、恋人が出来ていたりしても、それはそれで構わない。構わなくはないけど、多分めちゃくちゃへこむと思うけど、ただ私に横槍を入れる権利はない。だから、その時は私が諦めればいいことだと思っていた。私が告白するまで、ずっと待っていてもらうのは悪いから、待っていただかなくてもいい、九月の初めにはそう思っていた。
 だけど気が変わった。変わったと言うより、気がついた。石田主任が私に対して、どんな言葉を欲しているかをようやく理解した。だからそれを告げて、主任にも幸せな気持ちになってもらって、その上で――。
「俺のことが好きだって?」
 確認されたようだったので、そこは力一杯答えた。
「は、はい!」
 頷く。その点は間違いない。
 なのに主任には、恨めしげに睨まれた。
「ならどうして、三月までお預けなんて馬鹿みたいなことを言う?」
 それは決まりきっている。
「だって……私はまだ、公私共に半人前です」
 先日、当の主任に言われたことを答える。目の前の顔がしかめっつらになったから、急いで語を継いだ。
「公私の、私の方はいいんです。その、疎いのは自分でもわかっていますけど、それでも自分なりに、主任を幸せにしようと思います。そのくらい、考えることくらいは今の私でも出来ます」
 自信がある訳ではないけど、頑張る。もし私に初めての恋人が出来たとしたら、努力して、頑張って、絶対にその人を幸せにしたい。そう思う。
「でも、公の方は難しいです」
 目の前にいる、私の手を握ってくれている人。この人は私にとって好きな人でもあるし、尊敬する上司でもある。
 入社以来、私に営業の仕事を教えてくれた。間違いなく出来のいいルーキーではないはずだけど、それでも主任は優しかった。最初の頃はその優しさがわからなくて、親しげに振る舞ってくれた主任にびくついてもいたけど、わかるようになってからはあっという間だった。
 私は、公私どちらの意味でも、石田主任を裏切りたくないと思う。
 幸せにしたいと、思う。
「仕事のことでご迷惑をお掛けするのは嫌なんです。私の未熟さで、主任が余計なご心労を重ねてしまうのかと思うと、やっぱり嫌なんです。せめてご迷惑をお掛けしないようになりたいんです。ルーキーとしてこの一年をちゃんと乗り切るまで、主任の部下として頑張りたいんです」
 ご迷惑ならいつも散々お掛けしている。営業デビュー初日の大失敗は記憶にもしっかり刻み込まれている。あの日、安井課長に言われたことも覚えている。――だからこそ、私は叱られたくない。主任に辛い思いはなるべく、させたくない。
「それはお前が気にすることじゃない」
 心なしか、その台詞は上司らしい口調で告げられた。それから主任は、また溜息をつく。
「上司ってのは部下の責任を取るものなんだよ。だから得意先ならともかく、俺に対する迷惑だの何だのはそれほど真剣に考えなくていい。ほどほどに、頭の隅にでも置いといてくれたらいい」
 くしくも安井課長と同じような形容をしてみせた。
 課長は石田主任のことを、とてもよくご存知だった。私も同じくらいは、知りたい。わかるようになっていたい。
「でも、なるべくご迷惑をお掛けしないようにしたいです」
 私が反論すると、しかめっつらが苦笑いへと取って代わる。
「部下としては、殊勝だよな。お前は」
 それはいい評価だろうか、そうでもないんだろうか。意味を考えている間にも言葉は続いていた。
「そもそも三月まで待って、待たされた俺にはどんなメリットがある?」
「メリット、ですか」
「そうだ。何の得もないなら待ってやる義理だってない」
 言われて私は少し考え、
「私が仕事を頑張れます!」
「それだけか」
「あ、ええと、営業成績も上がるよう頑張ります!」
「仕事の話だけか」
「え……でも、私が仕事を頑張ったら、主任はうれしくありませんか?」
「……答えにくいな、ちくしょう」
 主任が唸る。
 頭を抱えつつも、ぼそりと言ってくれた。
「しかし、小坂も思いのほか弁が立つな。営業の人間らしくなってきたってことか」
 あ、もしかして誉めてくれたんだろうか。
 私がちょっと浮かれそうになると、
「……わかりやすい顔しやがって」
 そこで主任もちょっと笑った。苦笑いの中に、ほんの少しのうれしそうな色が垣間見えたような気がした。暗くなってきたから、もしかすると目の錯覚かもしれないけど。
「そこまで言うなら、考えてやってもいい」
 次に発せられた声も、笑っていたような気がした。
「お前の営業課の一員なら、年度末まで待つメリットを説明して、俺を納得させてみろ。――仕事以外のメリットをな」
「仕事以外、ですか?」
 確認する私に、暗がりの中で頷いてみせる。
「そうだ。公私の私の方だ。何の得もないのに、お前が両立出来ないって理由だけで待たされるのはあまりに酷じゃないか」

 言われてみれば腑に落ちる。気持ちを打ち明けたからと言って、主任をお待たせするのには変わりない。『両立』の出来る主任からすれば、私の振る舞いはただの身勝手としか映らないだろう。両立しますって宣言するやり方も、未熟じゃないルーキーだったら、あったのかもしれないから。
 でも私は未熟で、出来のあまりよくないルーキーだ。仕事だけじゃなく、恋愛にだって相当に疎くて未熟だ。だから両立するには何もかもが足りない。今は仕事を優先すべき時期だと、自分で思っている。
 もちろんそういう時期にあっても、主任のことを全く考えないつもりはないけど――むしろ考えずにはいられない。好きな人のことは、両立なんて意識しなくたって自然と考えてしまうものだから。
 私は私なりのやり方で、ルーキーイヤーの間もずっと、好きな人を想うことにする。

 営業課の一員として、魅力あるセールストークを。
 相手は他でもない石田主任。小手先のいい加減な説明じゃ到底納得してもらえない。嘘のないように、だけど待っていてもらえるように、私は説明しなくてはならない。

 結んでいた唇をややあってから、解いた。
 考え考え、思いを口にした。
「主任はもうご存知ですよね。私、こういうのは初めてなんです」
 返ってきたのは苦笑混じりの頷き。主任みたいな大人からすれば、私の疎さはばればれなんてものじゃないだろう。今日だってどれほど浮かれたり沈んだりのぼせ上がったりしていたか。
 そういえば、まだ手を繋いでいた。お互いの体温が熱伝導の法則を無視して、そのまま足されたように熱い。好きな人と繋がっている感覚は未だに慣れない。でも幸せだった。
「好きな人がいたことはあっても、恋人がいたことはないんです。だから、自分に恋人がいたらどうなるのかなって、考えようとしても上手く想像出来ません。それは今でも、そうです」
 その時、主任は片眉を上げた。何か言いたげな顔をしていたけど、何も言わずにいてくれた。私の話に耳を傾けていてくれた。
「もし、主任とお付き合いすることになったら……」
 可能性を言葉にすると、照れたくなる。主任の気持ちを知った今でも、告白を済ませてしまった今となっても、その可能性には現実味が感じられない。私にとっては。
「私はやっぱり未熟で、戸惑ってばかりで、結局ご迷惑をお掛けすることになるかもしれません。そうならないように努力はしますけど、でも今の私には、仕事との両立は難しいと思います」
 夕日はとうに見えなくなっていた。代わりに水銀灯の光が点る。この車の中も、冴え冴えと照らされている。
「ですから私は、これから年度末までずっと、今までより現実的なことを考えることにします。主任とどういう風にお付き合いしようかとか、どうしたら主任に喜んでいただいたり、幸せになっていただけるのかを考えながら過ごそうと思います」
 今まではそれすら出来なかった。現実的じゃなかった。七歳も年上の石田主任は、あくまでも手の届かない人で――恋人になってもらうなんて、絶対に考えるべきじゃないと思っていた。
 だけど、これからは違う。ちゃんと考える。照れるけど、畏れ多い気もするけど、現実としてしっかり考えて、私なりに主任を想うようにする。
「そして主任を幸せにします。私が恋人でよかったって、そう思ってもらえるようになります。……簡単なことじゃないってわかっていますけど、頑張ります。その時が来たら、それまでに考えてきたことを全部活用して、待っていただいた分のお返しをします」
 一呼吸置いて。
 真正面から言う。
「主任。来年度から、私の、初めての恋人になってください」
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