Tiny garden

左手と右手(9)

 視線の先、水銀灯の明かりを斜めに受けた、主任の表情が動いた。
 目を細めた。
 笑ったのだと思う。でもいつもの笑い方とは違い、面白がっているようでもなく、苦笑いでもなく、意味深長ににやっとした訳でもないようだった。優しく笑いかけられた。途轍もなく大人っぽく映って、言った傍から夢見心地になった。
 本当にいいのかな。こんなに素敵な人に、こんなお願いをしてしまっても。

 主任はその笑いの後、首を竦めてこう言った。
「お前についてる尻尾は、犬の尻尾じゃなかったな」
「え? 私、尻尾なんてそもそも……」
「真面目に答えなくていい。つくづく融通の利かない女だ、小坂は」
 溜息がまた一つ聞こえた。それから、
「でも、俺の負けだ」
 ぽつんと呟くような言葉も拾った。
 私が瞬きをすると、石田主任は呆れたような顔になる。
「今年度は待っててやるよ。お前がさっき言った通りに、本当にしてくれるならな」
「よろしいんですか?」
 とっさに聞き返してしまって、慌てて付け足した。
「あの、ありがとうございます!」
 いいと言ってもらえるとは思っていなかった。何せ相手は営業課の主任、上司と言うだけではなく、この道一筋の先輩でもある。ストレート過ぎて手厳しい駄目出しを食らうのではと心配していた。
 待っていてくれるなら、すごくうれしい。頑張れそうだ。
「礼を言うのはまだ早いんじゃないか」
 つり目がちの眼差しがちらと私に向く。釘を刺すような口ぶりで言われた。
「俺だって、いつ気が変わるかわかったもんじゃない。油断はするな」
 ぎくりとした。
 油断するつもりはないけど、これからは年末に向けて、仕事が一層忙しくなると聞いている。私も気を抜かずに頑張らなくてはいけない。仕事も、恋愛だってそうだ。仕事に追われるあまり、主任を不安がらせるようなことがあってはならない。来年度まで、今の気持ちを維持してもらえるように。
「そうならないよう、最大限の努力をします」
 姿勢を正して答える私。
 途端、主任には思いっきり吹き出された。
「わかってないな。気が変わるってのはお前が思ってるような意味じゃない」
「え……では一体、どういう意味なんですか」
「頑張ってる小坂は可愛過ぎて困る、ってことだよ」
 さらりと言われる方が困る。
 内心うろたえつつも、私は相変わらずわかっていないらしい。どういう意味なのか説明されたようなのに掴めなかった。石田主任にとっての『可愛い』って言葉の軽重を知りたい。こっちは言われる度に心臓が外へ飛び出しそうだから、捕まえとくのに必死だ。
 主任はそんな私に追い討ちを掛ける。繋いでいた手をぎゅっと握って、語を継いだ。
「さしあたっては、年度末まで持つように、俺の不安を晴らしてもらおうか」
 またしてもぎくりとした。不安なんて、主任の辞書にはなさそうな単語なのに。
「不安に思っていただくことなんて何も……」
「こっちからすれば、お前の気が変わらないって保証もないからな。今のうちに確かめときたい」
 私の気持ちは絶対に変わらない。でもそれを形にして証明しろと言われたら、術がないから悩ましい。出会ってからまだ半年の私たち。毎日のように顔を合わせてはいるものの、相手について知らないことも多い。主任が不安だと言うのも無理はないのかもしれない。
 でも、ばればれだとはよく言われるんだけどなあ。そんな私を見ていても不安になるのかな。男心も難しいな。
「どんな風にしたら、主任の不安が晴れますか」
 おずおずと尋ねた私に、顔つきからは不安の色もうかがえない主任が、とびきり笑んで言い切った。
「キスで手を打ってやる」
 心臓が跳ねる。
「主任!? じょ、冗談ですよね?」
「何だよ、元はと言えばその為に海まで来たんだろ」
 私が叫んでも、実におかしそうに言ってくる。冗談なのか本気なのか読み切れない反応。
「違いますよ!」
 反論はしたものの、本当に違ったかどうか、私もいまいち自信がなかった。キスの件は端的な例として挙げられたものとばかり思っていたけど、そうじゃなかったんだろうか。もしかして主任は半ば本気でいたんだろうか。
「だ、大体ですね、そういうのは恋人同士でするものだって、ついさっきも……!」
 大慌てで言葉を重ねた。主任はそれでも笑っていたけど。
「ちょっと早めにするくらい、どうってことない。いつかはするんだから慣れとけ」
 七歳の差の大きさをここに垣間見た。今は主任が、遠い星の人みたいに感じられる。どうってことないって。なくないのに。
 どうしよう。声が出てこない。息も出来ない。
 間隙を突いて、運転席から身を乗り出された。それだけで私はすっかり竦んでしまった。助手席という枠の中に更に小さな枠を作って、そこから一ミリたりともずれずに固まっていた。主任は思っていた以上に肩幅が広く、私の視界を遮ってしまうのも恐ろしく容易い。外から車内へ射し込む光も全て遮られてしまって、目の前、十センチの距離に顔がある。薄闇の中、主任の顔は笑んでいる。うれしそうにしている。
 目を閉じる勇気は全くもってなかった。
 びくびくしながら、主任の顔をただただ見ていた。
「……怯え過ぎだ」
 その主任が、ふと呟いた。
「そんな反応されると、かえって不安になる」
 私は事実、怯えていた。怖かった訳ではないけど、とにかくびくついていた。そして震えながらも思った。こんな情けない心境でファーストキスはしたくない。
 言葉には出来そうになく、視線で訴えてみた。それをどう受け取ったか、主任は繋いだままだった私の右手を、軽く持ち上げた。しげしげと眺めている。
 そんなに面白いものでもない私の手。主任はそれをためつすがめつして、独り言みたいに言う。
「弄ばれてるよな、俺」
 苦笑が浮かんだ数秒後、私の右手の指先に、柔らかくて温い何かが触れた。

 唇にされていない以上、ファーストキスには当たらないのだと思う。
 でも、たくさんされた。十回は超えていた。右手一本でこんなにキスが出来るのかというくらいにいっぱい、されてしまった。指先から関節、指の付け根、手のひらに手首、手の甲まで、柔らかい唇で触れられた。男の人の唇ってあんなに柔らかいものなんだ。知らなかった。
 キスの間、私の反応をうかがうように、つり目がちの視線が時折こちらに向けられた。
 その時の私は、意識はあった。と思う。
 でもヒューズは飛んだ。


 海水浴場を出てからはご飯を食べに行った。だけど、せっかくご馳走してくださるということだったのに、食欲がまるでなかった。アイスクリームだけ食べたら、主任には目を丸くされた。食欲のない私が想像出来なかったらしい。
 帰り道でもずっとぼうっとしていたら、さすがに呆れられた。
「大丈夫か、小坂」
「はい、えっと、何とか」
 本当はもう全然駄目だった。まだ右手のあちこちに感触が残っている。しばらくは何かの度に記憶がよみがえって、頭から煙が出そうだ。
 ものすごく大人っぽいことをされたような気がする。
 あと、弄ばれているのは絶対に、絶対に私の方だと思う。
「もうじき家に着く。普通にしてないと、親御さんに不思議がられるぞ」
 ハンドルを握る主任が、他人事みたいな言い方をした。元はと言えば主任があんなことをしたから――いや、駄目。思い出しちゃうから駄目。
 暗い夜道でもわかるくらい、窓の外は見慣れた風景へと変わっていた。本当にもうじき家に着く。初めての休日デートが終わる。目まぐるしく、いろんなことが起きた一日だった。
 そこで初めて、今日のお礼を言っていないことに気づいた。
「あの、主任」
 私は助手席から声を掛ける。
「今日はありがとうございました。誘ってくださったこともそうですけど……」
「待ってるって言ったことにもか?」
 目の端で、主任がこちらを見る。一瞬だけ。
 視線が合うとどきっとしたけど、同時に少し安心もした。
「はい。私、うれしかったです」
「そうか。……気が変わるかもしれないって言ってるのにな」
 どことなく拗ねたように零した後、主任は急に破顔する。
「ま、手にしたくらいでこの反応だもんな。年度末までは慣らしとく必要もあるし、準備期間があるのも悪くない」
「い、いいですそんなの、慣れなくてもいいですから」
 やっぱり、キスしたいとはあまり思わない。相手が好きな人でも。唇以外の場所でも。他のことが何も考えられないくらいになってしまうから、当分はいい。――あ、また思い出しそうになる。慌てて脳裏から追いやった。
「ところで、また誘ってもいいのか」
 今度は、主任が声を掛けてきた。
「結婚祝いの買い物もある。また付き合ってくれるとうれしいんだが、お前の考えはどうだ」
 そうだった。元はと言えばそういう予定だった。本当にいろんなことがあり過ぎて、同じ日の出来事とは思えないから困ったものだ。
「あ、あの、構いませんけど」
 けど、と濁すのはあまり礼儀に適った物言いではないと思う。でも今は言いたくなる。キスはしばらくいいです。本当に。じゃないと日常生活に支障がありそうで。
「けど、って何だよ。嫌ならそう言え、また大いに不安がってやる」
 おかしそうにされて、私は一瞬返答に詰まった。主任の辞書の『不安』は、私の知らない意味が書かれているに違いない。きっとそう。
 言葉では本音を告げておく。
「年度末まで、主任が不安だとお思いにならないように、出来る限りのことをしたいんです。だからお休みの日に会うのは構いません」
「俺が不安だと言うだけで、会ってもらう口実になる訳か。……毎週言ってみるかな」
「そういうのは、ずるいです」
 からかわれた気分になった。そう言われて私がどういう行動に出るかは、それこそわかっているくせに。つい眉根を寄せると、主任も諦め顔になって、
「わかってるよ」
 と応じた。
「お前の気持ちを教えてもらえただけでも、ありがたいってのにな。上手くいけば次から次と欲が出るから厄介だ」
 しみじみとした言葉が胸に、強く響いた。
 今更のように思う。――私が主任のことを好きでいるのと同じく、主任も、私のことを想ってくれている。何気ない今の言葉から、その気持ちの一端が覗けたようだった。
 一体いつからなんだろう。そんな疑問もほんのちょっと過ぎった。聞いてみたいことはたくさんある。きっと主任だってそうだろう。気持ちの一端だけじゃなくて、全部を打ち明け合う日がいつか来ればいいと思う。
 でも、
「俺もうれしかった。ありがとう、小坂」
 真っ直ぐ前を見て口にされた感謝を聞いて、何もかもどうでもよくなった。うん、今はこれだけでいい。これだけで十分にうれしい。
 運転中の横顔に、私も言葉を返す。
「こちらこそありがとうございます、主任」
 主任はそれ以上は何も言わなかったけど、うれしそうな様子で表情を緩めていた。笑いを堪えているのと似た顔つき。多分、私も同じような顔をしていると思う。

 そして、私の家の前に車を停めた時、もう一度だけ手を繋がれた。
 左手と右手が触れていたのは一瞬。繋いだというより、握手をしたみたいだった。それでも心臓まで潰されたようになったし、名残惜しい気持ちにもなった。
 恋人がいるってこういう感じなのかなって、今日、少しだけわかったような気がした。
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