Tiny garden

左手と右手(7)

 キスをしたい、と思ったことはない。
 もちろん絶対に嫌だと言う訳ではなくて、記念とか思い出的な意味合いで、一生に一度くらいはしてみたいなと思ったことはある。あるいは、誰か好きな人が出来てその人と一緒にいるようになったら、いつかは当たり前のことになるのかもしれないな、とかそんな感じで。もしかしたらの話をぼんやり考えたことはある。
 特定の相手に、キスしたいなんて思ったことは一度もない。好きな人が出来てもそんな風には考えなかった。想像しようと試みるだけで転げ回りたくなるほど恥ずかしかったし、それでいてものすごく失礼なことのような気もした。それはやっぱり恋人同士でするものであって、彼氏いない歴二十三年の私にはまだまだ、想像すら早い。

 にもかかわらず、主任は私を海辺まで連れてきた。
 この間も二人で来た、例の海水浴場だ。そこの駐車場に乗り入れて、車を停める。十月らしく、今日も他の車は数台程度。砂浜にも人気はない。
 そして、ちょうど日が沈みかけているところだった。線香花火の火みたいな、オレンジの太陽は水平線すれすれにある。照り返しを受けた海面がゆらゆら光っていて、夜の海とはまた違う、温かな美しさがあった。空もすっかり夕焼け色だ。うろこ雲が向こうに浮かんでいるのも見つけた。
 エンジンが切られると車内は静かになる。途端に波の音が聞こえてくる。私の動悸よりはよほど穏やかな、ゆったりした速度の繰り返し。ドアを開けて外へ出たら、もっと鮮明に聞こえるはずだ。
 主任が黙ってシートベルトを外したので、私も追随した。
 それから恐る恐る尋ねてみたる。
「車、降りますか?」
 取っ掛かりにしようと思った何でもない質問だった。だけどそれにすら含んだような問い返しをされた。
「外がいいのか、お前は」
「何がですか!」
 からかっているのか大真面目なのか、今の言葉だけではわからない。でも深読みしてしまう物言い。勘違いならいいんだけど。
 狼狽する私を見て、主任は短く笑う。
「わかってるくせに」
 ――事実、わかってはいる。私は恋人いない歴二十三年だし、石田主任と比較すればどうしようもないくらいの子どもだけど、それでもわかる。そのくらいは知っている。
 海辺の夕景。人気はなく、静かな場所。一面のオレンジ。
 こういうのをおあつらえむきと言うんだろう。ドラマみたいな出来過ぎのシチュエーションがここにはある。でも。
「……本気、なんですか」
 私の意識も、波間の照り返しみたいにゆらゆらしている。現実をちゃんと掴めているのか、自分でも自信がなかった。もしかしたら冗談なのかもしれない、からかわれているだけかもしれない、むしろそう思いたいだけなのかも――。
「本気だ」
 顎を引く主任。こういう時に真顔になるのはずるい。オレンジの夕日を受けて、その表情はやけに映えている。つり目がちの眼差しは眩しくて、直視出来なかった。
「でも……」
 言いよどんでみる。
 言いたいことはたくさんある。でも、そのどれもが上手く言葉の形にならない。恥ずかしさとためらいと、意外と大きな引け目とが胸のうちで渦巻いている。どれを優先していいのか、てんでまとまらない。
 そうこうしているうちに、主任が言葉を継いでしまった。
「手を繋いだ時と同じだ。俺はお前とキスしたい。でも、お前が嫌だと言うなら、しない」
 躊躇もなく言えるから、大人なんだなあと実感してしまう。私はその単語さえ口にしづらい。友達が相手ならまだしも、好きな人の前では、ちょっと。
 一つの言葉がそれでまとまった。私は運転席にいる主任に向かって、びくびくしながら尋ねてみた。
「どうして、したいってお思いなんですか」
「どうしてって、野暮なこと聞くなよ」
 主任は一瞬だけ笑って、頬っぺたを突っついてきた。
「相手が小坂だからだ。決まってるだろ」
 そんなものなのかな、と頬の熱さを自覚しつつ思う。相手が私だから、そう言われたけど、あまりにも非現実的な台詞で実感が湧かない。そういう風に思うものなんだろうか。
 じゃあ私も、相手が主任なら、って思うようになるだろうか。――いや、無理。絶対無理。と言うか想像だって出来ない。あまりに大それていて、そんな状況を考えようとする自分の浅ましさが恥ずかしくなる。
「そういうことって、でも、恋人同士ですることですよね」
 私は思う。想像すら出来ないのは、私に恋人がいないからだ。きっとそういう相手がいたら、もっと近しいものとして考えることも出来たはず。生まれてこのかたフリーと言うんじゃ、キスなんて遠い星の習慣みたいなものだ。
 間違ったことは言っていない、私はそう認識していたけど、主任にはなぜか眉を顰められてしまった。
「まあな」
 その上で私の意見を肯定してから、尚も続ける。
「だが、それを言うなら手を繋ぐのだって同じだ」
 右手が、隙を突くように握られた。
 だけど、息が詰まったのは違う理由からだった。
「キスは駄目でも、手を繋ぐのはいいのか。街中で堂々と手を繋いで、もしかしたら知ってる人間に目撃されるかもしれなかったのに、お前は普通にしてたよな。あれは構わないのか」
 畳み掛けるように確認が続いた。
「俺と手を繋ぐの、嫌じゃなかったんだろ?」
 言葉と眼差しが突き刺さる。私は身動きも取れずに、じっと主任の顔を見つめていた。今は、思いのほか険しい面持ちでいる。大人だから、表情を作るくらいは難しくないのかもしれないけど。お説教用の顔だって簡単に出来てしまうのかもしれない、けど。
「うれしかったって、そう言ったよな?」
 口調は落ち着いている。だからか、余計に胸が軋んだ。
「だとしたら、お前は恋人でも何でもない奴と、嬉々として手を繋いだってことになるよな。百歩譲って、強引に来られたからしょうがなく繋がれてやったんだとしても、ずっとそのままにしといたんだから似たようなものだ。それはいいのか、小坂」
 即答は出来なかった。
 主任の言うことは本当にその通りで、私はどうして、普通に手を繋いでいられたんだろうと思う。恋人でもない人なのに。好きになってもなかなか気持ちを伝えられない、目上の人なのに。何だか当たり前みたいに繋いでもらって、一緒に歩いて、それを幸せだと思っていたのはどうしてだろう。少し前までは電話番号すら聞けなかった相手なのに。
 誤解されたい、と思った。手を繋いでいる時、恋人同士に間違われてもいいかなって、ほんの短い間だけど考えてしまった。それは今でも大それた、畏れ多いことだと感じているけど、でも。
 私は、私自身の知らないところで、もっと畏れ多いことを望んでいたのかもしれない。
 
 さまざまな考えを巡らせていたら、やがて主任が吹き出した。
「お前はつくづくわかりやすい奴だよな」
「え……」
 今は何がわかったんだろう。私が思わず身を竦めると、うってかわって軽い口調で続けてきた。
「小坂のことだ。どうせ難しい方向にばかり考えて、かえって話をややこしくしてるんだろ。見てりゃわかるよ」
 さっきまでの険しさが消えた顔は、だけど真剣そのものに見えた。
 主任の目には、今の私の顔はどんな風に見えているんだろう。わかりやすくてしょうがないように映っているんだろうか。ややこしく考え過ぎているのが瞭然としていて、頼りなくて、いかにも半人前らしい顔をしているんだろうか。
 言われたことも図星だった。こんがらがりそうになっていた頭に、主任の声が溶け込んでいく。
「そんなに考え込むほどの話じゃない。簡単に言ってやろうか」
 七つも年上の人は、いろんなことを本当によくご存知だった。
「俺を恋人にすればいい。そうすればお前の引け目なんてどこかへ行ってしまって、全てが丸く収まる。そうだろ?」
 あっさりと言ってのけて、それから笑った。力強く。

 そこまで懇切丁寧に教わって、ようやく私は悟った。気がついた。
 石田主任がキスがどうこうと言い出したのは、多分、本当にしたかったからではないのだと思う。私のうすぼんやりとした曖昧な態度を叱咤して、あの日の返事をさせたかったからだと思う。
 私の気持ちは主任だけじゃなく、誰の目から見てもばればれだった。だけどそれでも、私ははっきりと口にすることが出来ずにいた。
 言いたいことはたくさんあった。この間の返事だってそうだし、少し早いけど今日のお礼だってそう。手を繋いでいて幸せだったことも、楽しそうにする主任を可愛いと思ってしまったことも、言えるものなら打ち明けたかった。
 ずっと言えなかったのは、勇気がないという意味でもそうだし、今の自分の未熟さでは言うべきじゃないと思ったからでもある。仕事と恋愛の両立が出来るようになって、ルーキーの身分を卒業して、公私共に一人前になってどちらでもちゃんと主任のお役に立てるようになれたら――その時言おう。私はそう望んでいた。
 でも、主任には釘を刺されていた。
『俺が黙って待ってるとは思うな』
 きっぱりと宣言されて、事実、こうして私の答えを引き出そうとしている。
 私は、好きな人といて幸せだった。手を繋いで、その人の傍にいられて、その人の気持ちもわかっていて、すごく幸せだった。
 でも、好きな人を幸せにしようとする努力はしていただろうか。役に立ちたい、そう思ってもろくなことが出来なかった。仕事でいいところを見せたくても、まだ大した成果は上げられていない。その人の趣味や嗜好はまだよくわからなくて、どうしたら喜ばせることが出来るのか、知らなかった。無知を口実にして、結局何もしていなかったのと同じだ。
 
 今は思う。
 私、石田主任を幸せにしたい。
 ルーキーだけど、公私共に半人前だけど、今の私に出来ることをしたい。
 どういう段階かはわからない、恋人ではない、でも好きな人とのデートの日。私だけが幸せな気分になっていたんじゃ不公平だ。
 右隣にいる好きな人は、私の言葉をじっと待っている。左手で私の右手を掴んで、目が合った時にそっと握ってきた。
 心臓ごと握られた感覚。動揺の後で、じわじわと違う感情が込み上げてくる。
 ――瞬間、決心がついた。
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