Tiny garden

左手と右手(2)

 運転席にいる石田主任をこっそりと、うかがう。
 今日は、当たり前だけど私服だ。黒のパーカーに細身のチノパンと、至ってラフな服装だった。勤務中は上げている前髪も今日は下ろしている。もっと大人っぽい格好をしていらっしゃるのかなと思っていたので、少し意外な印象。
 普段のスーツ姿よりもくだけた雰囲気で、より身近に感じられる気がする。このくらいなら私が隣にいても、そんなにおかしくはないかな、なんて……思い上がりかな。親しみやすい服装なのは間違いない。いつもの格好良さに加えて、ちょっと可愛いなとも思ってしまう。可愛いって言ったらさすがに失礼だろうけど、でもとにかくこういう主任も素敵だ。どきどきする。

 こっそりうかがっていたはずが、いつの間にかじっくり見入っていたらしい。運転中の横顔が笑いを堪えようとして叶わず、吹き出したのが見えた。その瞬間にはっとした――見てるの、ばれた。
「何にやにやしてんだ、人の顔見て」
 すかさず突っ込んでくる辺り、主任も容赦がない。こわごわ聞き返す。
「私……にやにやしてました?」
「してた。しかも凝視してたよな」
「すみません、失礼しました!」
 申し訳なさに私は縮こまる。
 恥ずかしい。にこにこならともかく、にやにやしてたなんて女の子にはあるまじき表情。しかも凝視って、失礼な上に何と言うかばればれだ。
「その、み、見慣れない感じがするなあって思いまして……。私服の時にお会いしたの、初めてですし」 
 弁解にしたって言い訳がましいなと自分でも思った。実際、言い訳だった。
 主任は肩を竦めて、
「そういえばそうだったな。お互いに初めてだ」
「はいっ」
「じゃあ俺も、後で小坂をじっくり観察する」
 簡単にそんなことを言うから、私は息が出来なくなる。
「……か、観察って」
 目を逸らす動作が錆びついたようになった。心臓の音がエンジン音より大きく聞こえる。どうしよう。
「本気で、あの、おっしゃってるんですか」
「当たり前だろ。お前がどんな格好してくるのか、ずっと楽しみにしてたんだからな」
 楽しみってそんな……まさか主任が私と同じことを考えていたなんて。気が合うべき箇所が間違っている。
 それはともかく、今日の私のいでたちはご期待に添えるだろうか。主任がカジュアルに決めていらっしゃるとは思っていなかったので、自分の無難さに焦りを感じている。この格好で本当によかったのか。
 デートだから。初めての、石田主任との、お休みの日のデートだから。そう思ってきちんとした服装で来たけど――この格好だと仕事の時とあまり変わらない。やっぱり地味だったような気がする。 
「せっかくの休日デートだ。思いっきり楽しむぞ」
 主任が本当に楽しげに言うから、私はさっきのことを思い出す。
 今日は私にとって、主任にとって、一体どういうデートになるんだろう。
 視線を上げてみる。素敵な横顔が視界の右側に飛び込んでくる。スーツだろうと私服だろうと運転中の主任は格好良い。運転していなくても格好良いけど。ハンドルを握る手や手首の骨ばった様子に、何だか無性にときめいてしまう。
 見惚れないようにと注意しながら、そろそろと切り出した。
「さっきの話、なんですけど」
「さっきってどれだ。お前が俺を、にやにやしながら見てた話か」
「いえ、そのことじゃなくてです! あの、うちの両親に、主任のことを話したという……」
「ああ」
 苦笑に戻った主任が、小さく頷く。
 私もほんの少し笑って、語を継いだ。
「今はまだ、両親に……と言うか他の誰にも、主任のことをどう話していいのかわからないんです」
 ただの上司だと言うのは、多分、間違いなんだろうと思う。ただの上司と部下はお休みの日にデートなんてしない。
 でも、付き合っている訳じゃない。恋人同士なんて畏れ多いものではない。両想いなのは知っているけど、そこからどうしていいのか、まだわからない関係。
「普通に話せばいい。付き合ってる訳じゃないが、デートくらいはする間柄だって」
 主任はさらりと言うものの、それが一番難しいのだと思う。この先どう転ぶかもわからないから、誰かに知って欲しいとは思えない。もし上手くいかなかった時、私の恋を知っている誰かに突っ込まれたりしたら、きっと立ち直れなくなってしまう。
 うちの両親なら、それでも黙っていないだろうと思うし。
「何にせよ、決めるのは小坂だからな」
 答えられずにいた私に、主任の言葉が聞こえてくる。
「お前が言えば、言った通りの間柄になる。お前が俺をただの上司だと言い張れば、俺は上司のままでいるより他ない」
 表情は明るく、口調もどこか軽い。だけど言葉はずしりと重い。
「俺に出来るのは、お前の言葉を引き出そうとすることだけだ」
 月曜日にも言われていた。踏み止まっているのは私の方だって。
 私は――ちゃんと考えて、答えを出さなければいけない。今のままの状態で三月まで待つことが、主任をお待たせしていることが、本当に正しいのかどうか。
「ま、それはそれで楽しいからいいんだが」
 主任はやはり明るく言い切って、その時ちょうど車が、信号で停まった。こちらを向いて笑う。すごく優しい表情で。
「ともかく今日は、いいデートにしような。お前のことも思いっきり楽しませてやる」
 いいデートってどういうのなんだろう。そこからしてわからない私は、でも私服の主任の笑顔一つで元を取ったような気分になる。
 今日は来てよかった。これだけでももう満足しているのに、これ以上の楽しいことなんてちっとも想像出来ない。

 信号が変わり、車が動き出したタイミングで問われた。
「ところで小坂。お前の家の門限は何時だ」
 門限なんて、懐かしい単語だ。私はしみじみしつつ答える。
「今は、そういうのないです。もういい大人ですから、あまりとやかく言われることもないです」
 学生時代は疎ましかった門限が、なくなってしまってから久しい。そりゃあ私も二十三だし、いつまでも子ども扱いされる訳にもいかない。
 本音を言うと実家を出て、一人暮らしを始めたいところなんだけど――今はそこまでの余裕もなし。仕事に慣れる方が先だ。
「そりゃいいことを聞いた」
 主任が、そこでうれしそうな顔をした。続く声も弾んでいる。
「なら、いざって時は一日くらい帰さなくても大丈夫だな」
「……え? いざって、その、どういう時ですか」
「決まってる。俺がお前に、帰りたくないって言わせた時だ」
 どこからどう驚いていいのかわからない発言だった。
 だってそんな、意味深長なことをさらりと言われたら、どう反応していいのかわからなくなってしまう。深読みする方がおかしいんだろうか。帰りたくないっていうのは、必ずしもそういう意味がある訳ではないのかもしれない。私が勝手に変な意味で受け取ってしまっただけなのかもしれない。うん、きっとそうだ。そう思わないと壊れる。思考回路が。
 私が、でも、そんなことを言う時ってあるんだろうか。自分がそういう、いかにもいかにもな台詞を口にする姿がまず浮かんでこない。額面通りの意味だとしても、そんなことは言えない。家に帰らず、主任と長時間一緒にいると言うのがまずいと思う。心臓とか、呼吸器とか、テンションとかが持たない。だから無理。
 うろたえそうになりながら、膝の上のバッグを抱え直す。でも言葉が出てこない。迂闊に声を発したら、心の中のおかしな考えが全部出て行っちゃうんじゃないかって気がした。それもまずい。
「今日も夕飯くらいは付き合えよ」
 どんな言葉もためらわずに口にする主任。どれが本気でどれが冗談なのか、時々わからなくなる。私が即答せずにいれば、促すように続けてきた。
「お、今日は食い物に釣られないのか」
「いえ、そんなことは――あ、そもそも毎回食べ物に釣られてるって訳でもないつもりです!」
 食いしん坊だと思われているのも知っている。でも、そこは一応否定しておく。食べ物だけに釣られている訳じゃない。
 すると主任がおかしそうに、
「じゃあ何に釣られてる? 俺か?」
「……あの、ええと」
 うっかり頷きそうになったので、そういう質問をさらっと言うのは本当に止めて欲しい。
 代わりに俯いたら、それがそのまま答えになってしまったらしい。主任には大いに笑われた。

 実際問題、そういうことだった。
 主任のお誘いだから来たのだし、私だって、主任と一緒にいたい気持ちはある。そんなに長時間はまだ無理だけど、一緒にいて、うれしいなとか幸せだなと思う時間がある。
 今日も、楽しいデートにしたい。思いっきり楽しみたい。その気持ちも同じだ。

 車はいつの間にか、ビル街の合間にあるコインパーキングへと進入していた。主任が窓を開け、駐車券を取る。ゲートがもったいつけるみたいにゆっくり上がっていく。
「ほら、着いたぞ。早速行くか」
 空いているスペースに車を停めた後、主任はそう言って私の方を見た。
 エンジン音の止んだ車内、視線のぶつかる音がした、かもしれない。
 目が合った時、何か言わなければという衝動に駆られた。ご挨拶と言うと改まっているようだけど、私の気持ちも伝えておきたい。上手く告げられそうな分だけでも。
 それで、告げた。
「あの、今日はよろしくお願いします」
 お辞儀もしようとしたけど、シートベルトを外し忘れていたので出来なかった。
 ともあれ言葉には精一杯の気持ちを込めたつもりだ。緊張しているけど、どきどきしているけど、今日がすごく楽しみだったことには変わりない。私だって、いいデートにしたい。いいって言うのがどういうことか、あまりよくわかっていないけど。
 主任はふと目を細めた。こちらへ向かって顎を引く。
「こちらこそ。差し当たっては結婚祝いの件、任せた」
 温かく答えてもらって、ほっとする。すかさず返事をする。
「はい、頑張ります!」
「それとシートベルトは外し忘れるなよ。前もやっただろ、小坂」
「……お、覚えていらしたんですか!」
 しかもばれてた。主任のご慧眼さと言ったらない。
 実は私の気持ちなんて、隅から隅までとっくにご存知なんじゃないだろうか。そんな気さえした。
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