Tiny garden

左手と右手(1)

 握り締めていた携帯電話が手の中で震えた。
 誰からの電話かわかると、どきどきした。通話ボタンを押す指まで震えてしまう。
「あの……お、おはようございます」
 声だけはしっかりしよう、そう思って電話越しに挨拶をすると、途端に笑い声が聞こえた。
『昼に掛けてもその挨拶か』
 言われてみれば、おはようの時間は過ぎていた。つい勤務日の習慣で。
「あ、そうでした! すみません、こんにちは、主任」
『こんにちは。……まさか今まで寝てたんじゃないだろうな?』
「いえ、起きてました。ばっちりです!」
『ならいい。今週は忙しかったから、疲れがどっと来て寝坊でもしたのかと思った』
 確かに今週はすごく仕事が多かった。月初めだからやむを得ないのだろうし、営業デビューを果たした私の業務が、以前より格段に増えているのも当然のことだ。ただそれにしても忙しかった。と言うより、一日一日が妙に長く感じる一週間だった。
 それでも週の初め、月曜日のことは克明に覚えている。
「大丈夫です。もうしっかり準備が出来ています」
 今週の業務が忙しかろうと、こんな日に寝坊をするはずがない。ちゃんと起きていた。実は五時起きだった。さすがに張り切りすぎかもしれない。
『そりゃ頼もしい。小坂のことだ、やたら早起きでもしたんだろうな』
「ど……どうしてご存知なんですか?」
『わかるよ、お前のやりそうなことだ。わかりやすいったらない』
 笑い声だけでも素敵な石田主任。たとえ笑われているのが私自身でも、やっぱり素敵だなと思う。その主任と、休日に電話をしているだけでも奇跡的なことだと言うのに――。
『今から迎えに行く』
 その言葉の背後で、ばたんとドアの閉まる音がした。車のドアの重い音。
『二時前にはそっち着くから、目立つところで待ってろ』
「はい。お待ちしています」
 私が思わず大きく頷くと、それを見ているみたいに主任が、もう一度笑った。
『後でな、小坂』
 耳元で電話が切れて、より一層どきどきしてくる。

 今日は土曜日。十月最初の土曜日だった。
 時刻は午後一時を過ぎたところ。もうじき主任が、私の家までやってくる。
 駅前の百貨店までお買い物に行く約束をしている。月曜に約束していた通り、霧島さんと長谷さんのご結婚祝いの品を見に行くことになっていた。主任のお買い物のお手伝いをさせてもらえる、しかも初めての休日デート。お休みの日に会えるというだけでも畏れ多くてすごいのに、その上デートだと言うのだからすごすぎる。緊張で瞼がぴくぴくする。
 出掛けに服装を再確認、鏡に映して検める。シフォンのプリーツスカートに白のブラウスを合わせたら、普段のスーツ姿と代わり映えしないような気がして焦った。デートなんだから最大限可愛くしていきたい。でも相手は目上の方、失礼のないような服装にもしたい。その兼ね合いが難しくて悩む。主任はどんな服装なんだろう。楽しみだと思う反面、めちゃくちゃ緊張した。格好良すぎて直視出来なかったらどうしよう。
 緊張しつつ、めちゃくちゃ悩んでいた。同年代の友達と会う時に着ていくような服は、三十歳の人と会うにはカジュアルすぎて気が引ける。かと言って、大人っぽい服装はまだ恥ずかしくて手が出せずにいた。でも、私ももう二十三歳。そろそろ服を買う基準も考え直さなければ駄目かもしれない。鏡の前で眉間に皺を寄せている私は、今のところあんまり可愛くない。あまりにしかめっつらでいるからか、見咎めた家族には不審そうにされてしまった。
 結局、ブラウスの上に秋物のジャケットを羽織ることで妥協した。かなりおとなしめの服装ではあるものの、清潔感と適度なフォーマルさ加減は維持している。不快感を与える格好ではないと思う。地味だけど。
 今月のお給料が出たらもう少しデートっぽい服を買おう。目上の方と出かけるのにも失礼のない、そして可愛さも損なわないような服を。――次の機会を作る方が先なんだろうけど。頑張らなくちゃ。
 忘れ物のないようにして、午後一時四十五分、家を出る。

 その五分後、主任の車が家の前にやってきた。
「お、お邪魔します!」
 助手席に乗り込みながら挨拶をする。
「いらっしゃい」
 こちらを見た主任は愛想よく笑いかけてくれた。途端に指先がもつれ、シートベルトを締める動作がのろくなる。もたもたする私を、それでもじっと待っていてくれた主任。済んでから声を掛けてきた。
「出発するぞ、忘れ物はないか?」
「大丈夫です」
 シートベルト装着後、私はちらと窓越しに我が家を振り返った。そして玄関のドアから顔を覗かせている両親に気づき、ぎくりとする。必要もないのによそ行きの顔をしているうちのお父さんとお母さん。いつからいたの?
 日頃お世話になっている石田主任と出かけることについて、出掛けに話していた。すると両親は揃って、一言挨拶をしなければと張り切ってしまった。恥ずかしいから止めてとどうにか説き伏せたものの、二人とも未練ありありの様子だったから、今もチャンスを狙っているのかもしれない。こっちを見てにこにこしている。
 あ、お辞儀した。
 運転席に視線を戻せば、主任もどうやら気づいたらしく、我が家の玄関方向へ会釈をする。それから私の方を見て、尋ねてきた。
「挨拶してきた方がいいか?」
「いえっ、いいですお構いなく! うちの両親は話が長いですから!」
 大慌てでかぶりを振る。ただでさえ貴重なお時間をいただいている休日に、そんなことまでしていただくのは申し訳ない。絶対に駄目。
「話が長いのか」
「そうなんですよ、もう捕まったら最後です。お気になさらないでください!」
「最後まで言うか。面白いな小坂家は」
 主任は笑うと、我が家の前から車を発進させた。
 景色が動き始め、窓から見える両親の顔がだんだんと小さくなっていく。曲がり角を曲がって見えなくなった時は、思わず溜息が出た。いきなり疲れた。
 お父さんもお母さんも心配性だから困ってしまう。今日の予定、言うんじゃなかった。

「親御さんに話してたのか、今日のこと」
 ハンドルを握る主任も、どこかおかしそうな横顔をしている。余計に恥ずかしくなる。
「はい……。その、一応ちゃんと釘を刺しておいたんですけど、ご挨拶するんだってしつこくて」
「いいご両親じゃないか」
「でも、私ももう大人です。こういうことに親が出てくるのはちょっと、恥ずかしいです」
 両親の気持ちも少しはわかる。あまり出来の良くない娘がそれでも無事に就職して、晴れて社会人ルーキーとなったのだから、心配だってしてしまうだろう。仕事はちゃんとこなせているか、辛くはないか、職場環境はどうか、上司や先輩とは上手くやっているのかとしょっちゅう尋ねられている。大丈夫だよと何度言っても、しょっちゅう心配されている。早く安心させたいなと思う。
 石田主任のことも、一応は話をしていた。優しくて立派な上司がいると言うと、両親は揃って胸を撫で下ろした。そして今日の予定を聞くや否や、その優しくて立派な主任さんに是非ともご挨拶をと言い出した。説き伏せるのだけでもえらい手間が掛かった。
「お前が俺の話を、ご両親にしてるとは思わなかった」
 主任が呟く。私は怪訝に思い、問い返す。
「どうしてですか?」
「想像出来ないんだよな。お前が親御さんにしろ、他の人間にしろ、デート云々なんて打ち明け話をする様子が。少なくとも自発的に言い出すようには見えない」
 いい読みをされてしまった。
「お前のことだから、今日の説明一つとっても無闇に恥ずかしがって、適当に誤魔化したんじゃないか? 例えば、上司と一緒に、職場の先輩の結婚祝いを買いに行くとでも言ってみたりな」
 鋭い。
 私が恥ずかしがるって、どうしてご存知なんだろう。それも、わかりやすいったらない感じなんだろうか。
「あ、あの、誤魔化したという訳ではないんですけど……確かに、全部は言ってないです」
 恐る恐る切り出すと、主任は訳知り顔になる。
「やっぱりな。今日がデートだって、ちゃんと言ったか?」
「……いいえ」
「何て言って出てきた?」
「主任のおっしゃった通り、『上司と一緒に、職場の先輩の結婚祝いを買いに行く』って話しました」
 嘘はついていないと思う。
 本当のことを、全部言っていないだけで。
「そこはちゃんと言っとけよ」
 赤信号で停止してから、主任が苦笑いを浮かべた。
「上司と出かけるってだけだと、かえって心配されるんじゃないのか? 休みの日まで社用で駆り出されるのかって」
「それは……」
 うちの両親も勤め人だし、その辺りは柔軟に理解してくれると思う。けど主任に言われると、そうかもな、とも考えてしまう。ただでさえ営業デビュー後は残業が増えてしまった私。両親に余計な心配を掛けない為には、下手な誤魔化しはすべきじゃなかったのかもしれない。
 だとしても、デートだとは絶対に言えない。主任がうちの両親に捕まってしまう。
「こっちだって、ちゃんと話しといてくれる方がありがたい」
 鋭い流し目が右側から向けられた。
「ただの上司がお前を遅くまで連れ回してたら大問題だ。今後にだって影響するんだからな」
 その眼差しと、今後という単語にどぎまぎしつつも私は悩む。やっぱりどう話していいのかわからない。一番のネックは、私と主任の関係がどういう段階にあるのか、私自身が両親に説明出来そうにないこと、なんだと思う。
 ただの上司と部下じゃないって、言ってしまっていいのかな。
 そんな風には、私は、まだ思えていないんだけど。

 全部なんて言えっこない。デートだなんて言ったら根掘り葉掘り聞かれそうだし、主任にまでご迷惑が掛かってしまう。うちの両親は話が長いから、娘の恋人もしくは彼氏候補に一言ご挨拶をとか言い出して、小一時間は話し込もうとするだろう。
 大体デートと言ってもそういうのじゃないんだから。主任は恋人じゃないし、候補にするのも畏れ多い方だし、デートと銘打たれてはいるものの段階的にはそういうのじゃなくて、何て言うか――じゃあどういう段階なんだと問われれば、答えようもないんだけど。
 どういうデート、なのかな。
 両想いらしくて、でも付き合っている訳ではなくて、お買い物という大事な目的も他にある外出で、七歳の年の差と職場での上下関係を強烈に意識している間柄で。だけど私は今日の為に、礼儀を弁えた上で精一杯のおめかしをしてきた。今日のこれは、どういうデートに値するんだろう。
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