Tiny garden

左手と右手(3)

 車を降りると、午後の陽射しが眩しかった。
 今日はすっきりとした秋晴れだ。空がより高く見える。風はほんの少し涼しくて、九月との違いを漠然と感じている。
 もう、十月なんだなあ。入社してから半年経っちゃったんだ。

「いい天気だ」
 車のキーをロックして、主任もそう呟いた。空を見上げる顔がどことなくうれしそうに見える。
「本当ですね。雨が降らなくてよかったです」
 私も心から相槌を打つ。秋は晴れてる方が好き。それでいて遠くの空に、ちょっとまとまった雲が出ていると尚いい。
「過ごしやすい季節になったよな。今年の夏は暑過ぎた」
 ぼやくように主任が続けたから、私は数ヶ月前のやり取りを思い出す。夏がお嫌いですかと尋ねたら、聞くタイミングが間違っていると言われた。確かにそうだなと今は思う。
 社会人一年目の夏は地獄だった。それでもどうにか乗り切ることが出来て、迎えた秋は幾分か穏やかに過ごせている。これから来る冬はどんな感じになるんだろう。この分だとあっという間に来てしまいそうな気がする。
「さて」
 私が空を眺めている間に、主任がすぐ隣に来ていた。いきなり声が近くでしたから驚いた。コインパーキングの路面、二人分の影が並んでいる。
 私を見下ろす石田主任は、何だか得意そうな顔でいる。まるで本当に脅かすつもりでいたみたいだ。呆然とする私に手を伸ばしてきた。私は身構えることすら出来ずに。
 ぎゅっと、握られた。
 心臓を。――いや違う、手だ。右手を握られたんだけど、それどころか心臓ごと握り締められたような気がした。
 私の右手は主任の左手にすっぽり収まってしまって、軽い力を込めて握られている。主任の手は大きくて、ごつごつしている。手のひらや指先は滑らかだ。あと、少し冷たい。知っている感触を知らない場所で受け止めている。
 私の手は火照っているかもしれない。この突然の事態のせいで体温が一気に上昇してしまったのかも。秋でよかった、夏なら手汗が酷かった。
 秋でも、動揺したのには変わりないものの。
「しゅ、主任っ」
 呼ぶ声は早速引っ繰り返ってしまった。右隣に立つ主任がそこで、ふっと苦笑を浮かべる。
「どうした。嫌だったか?」
 握る力を少し緩めて、笑いを含んだ問いを向けてくる。
 嫌なはずがない。好きな人と手を繋ぐのに、そんなことなんてあるはずがない。
 ただ、困る。ものすごく困る。握り潰された心臓がばくばく言っている。むしろ全身がばくばくしている。
「お前が嫌なら外す。嫌じゃないなら繋がせてくれ」
 そんな言い方をされると余計に困ってしまう。ちっとも嫌じゃない。ただ、上手く反応も出来ないだけで。
「わわ、私は……うれしいです、光栄です」
 私は俯き、二人分の影を見つめながら答える。影も手を繋いでいる。
「主任は、よろしいんですか、私と手を繋いだりして」
「妙なこと聞くな。お前と繋ぎたいからこうしたんだよ」
 きっぱり、とんでもないことをおっしゃる。
「俺はお前と手を繋ぎたい、お前もうれしいって言ってるんだから、離す理由もないよな?」
 そういうことを歯切れよく、しかも笑顔で言える人が羨ましい。私はとてもじゃないけど言えそうになかった。
「は、はい」
 頷くだけが精一杯。あとは歩き出した主任に手を引かれて、よろよろついていくのがやっとだ。十月の風すら暑くなる。

 悪い魔法使いは自分の心臓を、どこかよそへ隠してしまうと言う。
 私の心臓は今、右手にある。隠せていないどころかばればれだ。銀の矢を撃たれたらひとたまりもない。
 繋いだ手が熱い。私の体温が主任の左手にも移ってしまったみたいで、今は二人揃って熱っぽい手をしていた。どきどきしているのもきっと、ばれていると思う。だって心臓がそこにあるんだから、私がいつ、どんな時にうろたえるのかも、手を繋いでいたら筒抜けになってしまう。
 人出の多い駅前通りをひたすら歩く。すれ違う人とぶつからないようにしていても、主任には時々右肩が当たってしまった。腕はもうぶつかるという程度ではなく、始終くっついていた。
「あっ、すみません!」
 肩が当たる度に謝ると、見下ろす顔はおかしそうにする。
「いちいち謝らなくてもいいのに」
 きゅっと、一度握られた。心臓が跳ねる。呆けそうになり、慌てて問う。
「でも、痛くありませんか?」
「全然。何だったらもっとくっついてもいいぞ」
「……無理ですっ」
 小声で呻く。そんなことをしたら本当に、どうにかなってしまいそうだ。繋いでいる手だって、私の方から握ることすら出来ていないのに。
 好きな人と手を繋いで歩く。こっそり、憧れたことはある。一生に一度でいいからそういうデートが出来たらいいなって。そういう相手が出来たらいいのになって、思ったことは何度でもある。
 だけど現実にそういうデートをすると、頭が真っ白になって訳がわからなくなる。一生に一度かもしれないこの機会を、じっくり噛み締めるどころじゃない。自分が自分じゃないみたいで、手のひらにある心臓の鼓動に文句を言いたくなってしまう。もう少しおとなしくしていて欲しい。じゃないと、本当の気持ちさえ見失いそうになるから。
 うれしいとか、幸せだとか、ちゃんと思っていたいから。
「しかし、ちゃんとめかし込んできてくれたな」
 街角を歩きながら、主任がふとそう言った。
「小坂のことだ、休みの日もスーツの上下で来るんじゃないかと思ってた」
 私を見る視線が心なしか優しい。それで私も呼吸を整え、どうにか返事をしてみる。
「少しは考えました。あの、失礼のないような格好にしないとって……」
「いかにもお前の考えそうなことだ」
「はい。おめかしと礼儀の兼ね合いを考えて、この服にしたんです」
「なるほど」
 深く納得した様子で、主任は笑った。そして繋いだ手を軽く引いた。私は半歩右へ寄せられ、またしても肩が主任の二の腕にぶつかる。
 距離が僅かにだけ詰まった。その時、頭上から歯切れよく続けられた。
「可愛いよ、小坂」
 銀の矢で射抜かれた気分。
 ひとたまりもなかった。
 可愛い、なんて以前からよく言ってもらっていたくせに。前に言われた時はその意味を勘繰ってさえいたくせに。今はどうしてそのままの意味で受け取ろうとするんだろう。
 手を繋いでいるから、だろうか。
 私の気持ちがきっと筒抜けでいるように、主任の気持ちも、手のひらを重ねていたらわかるような気がするから、なんだろうか。
 今はそっと握られている。どちらの手も熱っぽい。
 音のするくらいの勢いで私は視線を逸らし、左手方向を見る。駅前通りに居並ぶ背高のファッションビルが見える。そちらへ向かって、震える声の返事をした。
「あ、あのっ……主任も、す、素敵です、とっても」
 必死の思いで口にしたのに。
 すかさず言われた。
「何だって? 聞こえなかったからもっと大きな声で言え」
「むむむ、無理ですっ!」
「こういう時だけでかい声なんだからな、しょうがないな小坂は」
「意地悪しないでください、主任!」
 私が右手の方へ噛みつくと、すぐさまにやっとされてしまった。絶対わざとだ。わざと言ってる。それなのにすごくうれしそうな顔をしている。
 繋いだ手はその時、一段と強く握られた。

 目的の老舗百貨店は、駅のすぐ隣にある。
 中に入ると空気がひんやりしていた。陽射しの下を歩いてきたせいで、きらびやかな照明には目が眩む。慣れない目でガラス張りのエントランスを見回した。何度か来たことはあるけど、お祝いの品を買うのは初めてだ。どこへ行けばいいんだろう。
 主任は案内表示にすら目もくれなかった。きょろきょろし出した私の手を引き、一気にエスカレーターへと向かう。
「五階まで上る」
 そう声を掛けられ、五階には何があったっけと記憶を手繰ってみる。確か、インテリアと生活雑貨のフロアだった。
「どんなものを買うかは決めていらっしゃるんですか」
 エスカレーターに乗りながら尋ねると、主任は小さく頷いた。
「一応な。当人たちの希望では、鍋とか食器とか、台所で使うものがいいそうだ」
「台所用品ですか。結婚生活に必要なものですよね」
「そうだな。特に食器なんて喧嘩の度に割れるから、何枚あっても足りないはずだ」
「そんな、霧島さんたちが食器を割るような喧嘩をするはずないです」
 主任だって以前、喧嘩しているのを見たことがないって言っていたのに。私が思わず指摘をすると、またにやっとされた。
「冗談だ、むきになるなよ」
 あ、からかわれてた……。
 こういう時の主任はものすごくうれしそうにするから困る。何だか抗議もしづらい。
「ともかく、俺はそういう品々は全くの専門外だ。見栄えの良し悪しくらいならともかく、使い勝手なんてのはまるでわからない」
 うれしそうな主任が話題を戻す。
「だから是非、小坂に見立てて欲しい」
「はい」
 背筋を伸ばして答えたものの、キッチン雑貨は私にとっても難しい分野だ。身近なものではあるけれど、実家暮らしの身で道具にまでこだわったことはなかった。つまり、あんまり詳しくないということ。
 そんな私にちゃんとお手伝いが出来るといいんだけど。いや、出来なければ駄目だ。これはただの買い物じゃない、ご結婚祝いの品なんだから、出来る限り頑張らなければいけない。
「張り切ってるな」
 気合を入れた瞬間まで、繋いだ手でわかってしまったのか。直後、主任に笑われた。
「別に気負わなくてもいい。気楽に選んでくれ」
 勤務中と同じことを言われている。お休みの日くらいいいところを見せたいのに、相変わらず公私共に半人前、ルーキーの扱いだ。さすがに恥ずかしくなったけど、だからこそいつものように答えた。
「あっ。いえ、その、頑張ります!」
「いいって。絶対に今日買わなきゃいけないって訳でもないから、下見のつもりでいればいい」
 宥める言葉の後で私たちは、エスカレーターを五階分、上がり切った。
 先に立って五階フロアへと入っていく主任を、私は相変わらずよたよたと追う。手は繋いだまま、熱を持ったままだった。
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