Tiny garden

変化球と直球(6)

 好きな人に抱き締められるって、一体どんな気分なんだろう。
 そんなことを私は今、石田主任の腕の中で考えている。ふわふわ浮かぶような感覚で、自分の身体が不自然につんのめっているのがわかる。肩を抱き寄せられて倒れかかって、そこをようやく支えてもらっているという状況。傍目には絶対にきれいな抱擁じゃないと思う。現実はドラマのようにはいかない。
 そもそもこれは現実なんだろうか。仕事帰りに主任とご飯を食べて、海辺を散歩して、そこで主任の本心をうかがって、しかも抱き締められているという状況。どこかで夢でも見始めたんじゃないかって疑りたくなる。こんなの、妄想にしたって出来過ぎだ。
 だけど現に、私は抱き締められている。主任の両腕にしっかりと包まれている。スーツの袖越しに感じる腕は硬く、力強い。そして暖かい。顔を押し付ける格好になっているのは胸か、鎖骨の辺り。ネクタイとおぼしき布地の感触で察していた。ほんのりと体温も感じていた。明らかに私のものではない、どきどきするようないい匂いもした。男の人ってこういう匂いがするんだなあと思った後で、変態じみた感想かなとも思った。
 どうしよう。
 どうしたらいいんだろう。
 好きな人に抱き締められるのって、こんな気分なんだろうか。幸せだとか、うれしいとか、そういう明るい感情はひとかけらもなくて、ただどうしていいのかわからなくなる。熱に浮かされたみたいに、考えの一つもまとまらなくなる。それでいて五感は鋭敏に働く。記憶の中に焼きつけておこうと必死になっている。
 初めてだった。好きな人に、こんな風にされたのは。
 二十三年生きてきて、本当に初めてだった。
 なのに幸せだとも、うれしいとも思えないなんて。

 不意に、主任が片腕だけを解いた。
 今までと違う行動を取る、たったそれだけのことに激しく動揺してしまう。ひとりでに肩が強張った。だからだろうか、次に主任が取った行動はとても優しかった。
 あの滑らかで丸い指先が、私の髪に触れた。梳くようにして撫でられた。どうしていいのかわからなすぎて、泣きたくなってきた。
「小坂」
 主任の声がする。
「大丈夫か」
 問いのついでに少し、笑ったようだった。耳に吐息が触れた。熱かった。
 私は顔を伏せたままかぶりを振る。
「大丈夫じゃない、です」
 自分の声はくぐもって聞こえる。主任の胸元に顔を押しつけたままだ、いい加減失礼かもしれない。でも面を上げる勇気はない。次に、何らかの行動に出る勇気そのものがない。どうしたらいいのかわからない。
「こうされてるの、嫌か?」
 その質問にも、時間を置いてから首を横に振った。
「い、嫌じゃないです、全然そういうのじゃないです」
 喘ぐようにして語を継ぐ。
「ただ、どうしていいのか、自分でわからないだけなんです」
 嫌ではない。嫌だったら、この状況を覚え込もうと記憶力を総動員させる必要もない。とにかく今を焼きつけておこうと必死だった。こんな時でも私は、ものすごく現金だった。
 そのくせ幸せだとは思えない。うれしいと思ってもいない。ひたすらに困っている。ろくに考えも働かせていない。
「どうって、お前のしたいようにすればいい」
 何がおかしいのか、主任には笑われた。そして、
「言ってみろ。どうして欲しいのか、その通りにしてやるから」
 促すように続いた。
 どうして欲しいのか。それを告げたら、本当にその通りにしてもらえるんだろうか。私の望んでいること。主任にして欲しいと思っていること――とっさに浮かんだのは一つ。でも、本当に叶うだろうか。
 私は恐る恐る顔を上げた。そうしたら斜め前方、びっくりするほどの近さに主任の顔があって、もう少しで私の額が主任の顎にぶつかるところだった。眩暈がした。
「あの……」
「どうした?」
 顔を覗き込むようにされて目が回る。心臓も回る。海辺の景色がぐるぐるしている。
 そんな状態で望むことは、たった一つだ。
「私、冷静になりたいです」
 それを告げた。
 すぐに、主任が眉根を寄せた。
「それで、俺にどうしろって?」
 聞き返されても仕方ないと自分で思う。大急ぎで詫びた。
「すみません、その、わかりませんっ」
「俺だってわからん。そりゃこっちに頼むことじゃないだろ」
「で、ですよね……」
 何と言えばいいのか。むしろどうして欲しいのか。やっぱり、ちっともわからない。
 わからないからこそ冷静になりたかった。
「こういうの初めてで、何が何だかわからないんです」
「だろうな」
 私の言葉に、主任は腑に落ちた様子の相槌を打つ。
 その主任はもちろん冷静みたいだ。じっとこちらに向く眼差しは、ためらうことも揺らぐこともない。あまりに真っ直ぐで、こちらの方が逸らしたくなる。
「もしかしたら今って、すごくラッキーなんじゃないかなとも思うんですけど、正直その幸せを噛み締める余裕もないと言いますか、状況を頭の中で整理することすら出来てないと言いますか」
 まくし立てればその眼差しが、鋭く、呆れたようになる。
「そんな難しい状況か?」
 口調も同じように、なぜわからないのかと言いたげに続いた。
「お前は俺の気持ちを理解した。お前の気持ちは元から誰の目にもばればれだった。だからこういうことになってる。――ほら見ろ、あっさり説明出来た」
 説明にはなっている。なっているけど……それを受け止められるかどうかはまた別の話と言うやつだ。妄想でもしないような現実の凄まじさを、この期に及んで信じ切れずにいる。
「でも、本当なんですか?」
「何がだよ」
「いえ、ですから……主任が、その」
「はっきり言え。笑わないから」
 言葉を濁せば念を押される。言いにくいことも、言わなければいけなくなる。
「主任が、私のことを好きだとおっしゃるのは……」
 よくよく考えればはっきりと言われた訳ではないのだし、余計に口にしにくかった。
 だけど主任は真剣に応じてくる。
「俺がどうでもいい奴に手を出すような男だと思うか?」
 思わなかったけど、答えには詰まった。だって手を出すとかそんな、聞きようによってはどきっとするようなことをいとも平然と。
 どきっとした自分がやましくて、私は慌てて問いを重ねようとした。
「私、半人前ですよ。主任に好きになっていただけるような立場では――」
「そうだな。公私共に半人前だ」
 澱みなく言い切られた。
 自分で切り出した話題だったのに、ちょっとへこんだ。『公』は当然ながら『私』も半人前だと思われているのか。それも三十歳の主任から見たら当然なのかもしれないけど。
「だから、公私共にあれこれ教えてやれる。俺はお前にとってちょうどいい相手のはずだ」
 それも澱みなく言い切った、石田主任が明るく笑う。
「まさか不満があるとは言わないよな」
 不満どころか。ちょうどいい相手どころか、畏れ多くてもったいないくらいの存在だ。そんな人が私を好きだなんて、あっていいんだろうか。七歳も年下で、半人前で、公私の両立すら出来ていない人間が、主任に好きになってもらう資格なんてあるんだろうか。
 そういえばこちらは、まだ告白だってしていないのに。

 少し風が出てきたみたいだ。見上げた顔との間に、涼しい潮風が吹き抜ける。主任の前髪が揺れ、私の髪も同じように揺れた。心の中ではさまざまな想いが揺れていた。
 さっきよりも冷静になれた気がする。
 その上で、思う。私は主任のことが好きだ。すごく好き。幸せやうれしさを感じる余裕がなくたって、どうしていいのかわからなくたって、それでも傍にいたい、同じ時間を過ごしたい。そのくらい好き。
 それは、ちゃんと言わなくちゃいけないことだと思う。たとえばればれだろうと、言わなくてもわかるくらいだろうと。
 それは、今でもいいんだろうか。今、言うべきなんだろうか。

「でも私、自分の気持ちがまだ言えそうにないんです」
 ほんの少し冷えた頭が、言葉を素直に置き換えてくれた。
「私は、一年目が終わるまでは言うべきじゃないと思っていました。それまでに一人前になろうと思って、それで」
「今更だろ? 本気で思ってるのか?」
 遮るように尋ねられる。一瞬ためらったけど、答えは変わらなかった。
「それは、……はい。そう思います」
 三月までは言わないつもりでいた。言えそうになかった。だってルーキーの身分でそんな大それたこと出来る訳がない。もっと仕事が出来るようになって、一人前になって、それからだ。半人前の私では、自分の気持ちを伝えるのはおこがましい。
「一人前になってからじゃないと、告白するにも引け目を感じます。ちゃんと仕事もやり遂げてからがいいです。仕事が出来るようになって、それから自分の気持ちと向き合いたいなって思うんです」
 私はそう言った。本気で思った。
「それからその、主任のお気持ちにもです。ちゃんとお返事が出来るように」
 ルーキーとしての仕事をやり遂げて、それから告白も遂げたかった。返事、になるんだろうか。はっきり私にもわかるように伝えてくれた主任に、返事とお礼をしたかった。
「あの、光栄です。主任に……こんな風にしていただけて」
 今はようやく、それだけ言った。好きな人に抱き締められたままで、まだ幸せもうれしさも味わえていない。
 でも、お礼は言いたかった。
「三月にもきちんとお礼申し上げたいんですけど、今も、感謝しています。ありがとうございます、主任」
 だけどそれすらもおこがましい申し出だっただろうか。すぐ目の前の主任には、軽く睨まれた。
「感謝って何の感謝だ」
「ええと、主任の……お気持ちへの感謝です」
「年度末にするのは返事と礼だけか」
「え? いえ、仕事もします!」
「そうじゃないだろ。全く、真面目なんだかすっとぼけてるんだか」
 唸るように主任が言う。
 萎縮して思わず首を竦めると、たちまち私を包む腕の力が強まる。しっかりと両腕で抱き直される。肺の空気が押し出されて、深い溜息が出た。
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