Tiny garden

変化球と直球(5)

 海辺にいるのに、波の音が遠くなった。

 でもざわついている。心臓の音がする。主任の手が私の頬に触れている。包むようにして少し、持ち上げられている。どうしても俯けなくなった。だから目の前にある顔もよく見えた。
 身長差は少なく見積もって十五センチ、だったはずだ。なのに今は鼻先十センチほどの距離に主任の顔がある。意味ありげな深い笑みが、じっと私を注視している。油断すると心の声まで全部聞き取られてしまいそうなくらいに近い。瞬き一つ許されない雰囲気だった。
 私はどぎまぎしながらぼんやりしていた。間近で見ても主任の顔立ちは素敵だった。男の人らしい顔をしていると思う。大人の面差しだと思う。つり目がちの視線はこの距離からでも当然鋭い。心臓を射抜かれたようでどきどきする。それでいて、漠然とした恐怖も感じ取っている。
 石田主任は三十歳。ものすごく、大人だ。
 たかだか二十三の小娘なんて、きっと一捻りだろう。
 捻られる機会があるかは知らない。主任がそういう人だとも思っていない。でも今の表情を見ていると、なぜかうっすらとした恐怖を感じた。未知のものに対するおぼろげな怖さを。
 触れた直後、主任の手のひらは冷たかった。今は少しずつ温くなっている。私の頬の熱さが伝わり、接触面でゆっくり混ざり合う。大きな手は思いのほか滑らかだった。丸い指先が頬や耳たぶをそっと撫でてくる。くすぐったくて身を竦めたくなる。
 いや、竦めている場合じゃない。この明らかにとんでもない状況を、冷静になって考えなくちゃいけない。
 何がどうなって、こうなったんだっけ。

 私がぐちゃぐちゃの思考を仕切り直そうとしていると、
「小坂」
 十センチ前後の距離から呼びかける声がした。
 まだ笑んだままの主任が、静かなトーンで切り出してくる。
「その頭で、少しは考えろ」
 心の中で私は頷く。そう、考えなくちゃいけない。
「俺がただの部下に、わざわざ貴重な休日使ってまで会おうなんて言い出すと思うか? それも義務感からじゃなく、俺自身がそうしたいと考えた上でだ」
 ――する、かもしれない。
 石田主任はそういう人だと私は思う。思っていた。私の知っている情報なんて微々たるものだけど、主任ならいざとなればそこまではしそうな気がする。
 少なくとも霧島さんの為ならする。絶対する。主任はそういう人だ。
 でも、主任にとっての霧島さんは『ただの部下』だろうか。今日だって主任は、霧島さん本人に負けないくらいうれしそうにしていた。ただの部下とか後輩じゃなくて、特別な存在なんだろうな、という気がする。
 じゃあ、私は? 入社してまだ一年も経っていないぴっかぴかのルーキーは、主任にとっての特別になり得るんだろうか。
「休みの日に、仕事を離れてまで会いたい人間なんてそう多くない」
 私の答えを待たずに、主任が言葉を継ぐ。
「それならどうして、俺はお前を誘ったのか。それも一度や二度じゃなく、会う時間ごと増やそうと提案したのか。考えてみろ、なぜだと思う?」
 低い声に尋ねられ、唇には微かに吐息が触れた。熱い。くすぐったい。
 そして私は切羽詰った頭で考える。――主任が私と会う機会を、一緒にいる時間を増やそうとした理由。私のことを知りたいと言った理由。真っ先に浮かんだのは一番あり得そうな答え。
「あの……」
 やたら弱々しい声になる。虫の息みたいだった。
「私と一緒にいるのを、面白いと思ってくださっているから、ですか?」
 正直畏れ多いくらいだけど、主任は私と一緒にいる時、よく笑ってくれる。と言うより、私が笑われている。それでも面白がっているのには違いない。
 それに一緒にいて面白い相手じゃなければ、私用の電話番号やメールアドレスを教えてもらったりすることもないはずだ。それだって私と電話やメールをしたいという気持ちが、少しくらいは会ったからこそ教えてもらえたのだろうし。だから、思い上がりかもしれないけど、私はそう思った。だったらいいなという願望も込みで。
 すると、主任は猫のように目を細めた。
「惜しいな。それだけなら外れだ」
 外していた。
 でも惜しかったのだから、同じ線上で考えればいい。唇を結ぶと、眼前では主任が首を傾げてみせる。
「もっとわかりやすく言ってやろうか。金曜夜のメール、まだ覚えてるな」
「あっ、は、はい」
 ぎくりとしたせいで声が出た。元はといえばあの、真夜中のラブレターが発端だったように思う。それで三倍返しをするということになって、今日はこういう形で誘われていて――。
 もしかして。
 今の私は、三倍分のお返しをされているところ、なんだろうか。
「お前は定期入れのあの名刺を、ジンクスにしてると言ってたな」
「……はい」
 主任にそれを言われると、どうしても気まずい。気恥ずかしい。だけど今はもうそれどころじゃない状況だ。鼻先十センチの距離は心臓に悪い。
「俺は同じようにお前を見てる」
 しかもそう言われた。
「写真じゃない、本物のお前をだ」
 言い聞かせるように強く、打ち明けられた。

 三倍なんて軽く超えていた。
 これじゃまるで百倍返しだ。
 主任のジンクスの対象が私だった。それ自体にも非常に驚かされたけど、更に驚くべきことがあった。
 私と主任の行動は、これまでおおよそ重なっている。ジンクスの件もそう、メールや電話をしたいと思っていたこともそう。仕事を離れて休日を一緒に過ごしたいと思った、そのことも同じだ。相手をデートに誘いたいと思ったのもそうだ。私は主任を誘いたいと密かに思っていたし、主任は私をこうして誘ってくださった。
 だとしたら、内心は、気持ちはどうなんだろう。私の気持ちと主任の気持ちとが重なっていることはあるんだろうか。ぴったりと狂いなくということはなくても、多少被るところはあったりするんだろうか。
 主任は、私をどう思っているんだろう。
 考えてみれば、一番知らないことはそれだった。私は主任の気持ちを知らない。他にもたくさん知らない事柄があるから、わからないなと思っても深く考えることをしてこなかった。だけど、それこそ一番に考えるべきだった。

 さっきの比じゃない、ものすごく畏れ多い考えが、その時浮かんだ。
 目を伏せて、思う。私と主任の気持ちが同じなら、置いてけぼりにしてきた疑問の大体に説明がつく。腑に落ちる。ジンクスに選んだ理由も、メールや電話をしたいと思った理由も、デートをしたいと思った理由も、私と主任とで全て同じだったら、わかる。納得出来る。
 でも畏れ多い。さすがにあり得ないと思う。あり得ないと思っているくせに、一度考え出すと頭から離れなくなってしまう。自惚れじゃないだろうか。それこそ願望込みで考えているんじゃないだろうか。あまり否定は出来ないまま、私は視線を上げた。目の前にいる人を見た。

 目が合う。
 主任が瞬きをする。
「――わかっただろ?」
 確かめるような問いに、私は答えられなかった。口を開いた。
「あの、主任。私、お尋ねしたいことがあるんです」
「いいぞ、何でも聞け」
「あ、ありがとうございます。それでその……もし、私の言うことが全くもって的外れだった時は」
 一呼吸置いた。ろくに口も利いていないくせに息が切れていた。
「なるべく、こう、すかっと笑い飛ばしていただけますか」
 私はお願いをしてみた。
 間髪要れずに主任は頷く。
「任せろ」
 何て頼もしい答えだろう。内容はともかく少し安心した。
 だから思い切って、ものすごく畏れ多いことを尋ねてみた。
「主任は、……私のこと、好きになってくださったんですか?」
 あり得ないと思った。
 絶対、絶対あり得ないと思った。
 それでも尋ねる気になったのは、心臓が限界に達しようとしていたからだ。この状況を抜け出す為には、このくらいのぶっ飛んだ発言が必要だ。そして主任が笑い飛ばしてくれたら、いつも通りの空気には戻れると思った。
 だけどほんの少しは――願望だけならいくらでも、違う風に思った。
 だって、好きだもの。私は石田主任が好き。だから、好きな人にも同じように思っていて欲しい。そのくらいのことは願いたくなる。

 石田主任は笑わなかった。
 穏やかな面持ちではいた。どこかくたびれたようにも見える表情で、答える。
「やっと理解したか」
「――え! それじゃあ……」
 息を呑む。
 理解はした。理性の部分では納得していた。主任と私はおおよそ同じ気持ちでいて、だからこそ同じような行動に出ていた。そのことはわかった。
 でも、感情的な部分が納得したがらない。あり得ない。そう思う。
「どうしてですか! 主任みたいな方がそんなご趣味だなんて、もったいないです」
 感情的に叫んだ。途端、主任には睨まれた。
「お前、二十代のくせに俺の趣味を馬鹿にするのか」
 三十代の方にだったら否定されてもよかったんだろうか。私がぽかんとした隙に、更に言われた。
「大体な、どうしてって言うなら小坂の方だろ」
「え?」
「お前はどうしてなんだよ。そういえば理由を聞いてなかったよな」
 うれしそうに、にやっとする主任。私の頬から手を離し、すぐにがっしり肩を掴まれた。顔は動くようになったけど、今度は身動ぎが出来なくなった。
「え? え? どうしてって……そんな」
 私は例によってうろたえる。言えるはずがない。そんなことがすらすら言えるなら端から苦労はしていない。
「お前が教えてくれたら、こっちもちゃんと言ってやる」
 企み顔の主任の言葉に、とりあえず俯いた。
「む、無理です。言えません!」
「なら、俺も言ってやらない」
 ふっと、微かな笑い声が頭上で聞こえた。
 次の瞬間、私の肩を掴んでいた手にぐっと力が込められた。あれ、と思う間もなく私の鼻先が何かにぶつかる。布。と言うか服。スーツの襟と前開きの部分と、ネクタイのつるつるした感触は即座に察した。
 肩にあった手が背中へ移る。ぎゅうと、軽く押しつぶされた。温かい。でも呼吸が苦しい。心臓も苦し過ぎて痛いくらいだ。
「随分あっさり収まったな。三月まで、抵抗しなくていいのか?」
 少し驚いたように主任が問う。その声は耳元で聞こえた。

 抵抗どころの騒ぎじゃない。
 私は遂にショートした。頭から煙が出ているに違いなかった。
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