Tiny garden

変化球と直球(7)

「お前、年度末以降のことなんて何にも考えてないな?」
 強く抱き締められてから、再び、耳元で聞こえた。
 主任の唇が、私の耳に触れたような気がした。
「三月に言いたいことだけ言ったら、それで終わりなんて思ってるのか?」
 吐息は確実に触れている。かすめている。寒くもないのにぞくぞくする。
「え……考えてないです、考えられないです」
 告白してからどうするか。そこまで考える余裕はなかった。真剣に考えればきっと気分が沈む。いい方向には考えられそうにないし、今から落ち込んでいたら告白自体が出来なくなってしまいそうで。
「俺と付き合う気はないのか」
 耳元に唇が触れた。今度は完全に。柔らかくて、温かった。
「わっ」
 二重の意味で声が出た。
 唇はともかく。重大なことだけどともかくとして、付き合うって言うのはまさか――石田主任と?
「そそ、それって、恋人同士になるってことですか!」
 私は震えながら叫んだ。もちろん、主任の胸に顔を埋めている格好。いい加減壊れる。頭が壊れる。
「他に意味があるなら説明してみろ」
「い、いえ、存じません! 私もそういう意味合いで解釈しました!」
「それで、返事は」
「え! あのっ、ちっとも考えていませんでした。それはさすがに分不相応かなって!」
 だって恋人なんていたことない。一生に一度くらいはそういう機会もあるかもな、あったらいいなと思っていたけど、それが主任だとは思いもしない。主任とお付き合いするのって、どんな感じになるのかちっとも想像つかない。
 ほんのちょっと考えてみたけど――思い浮かぶイメージはこの状況と大して変わらない。主任の隣で一人空回りしてべらべら喋りまくる私と、それで怒ったりむくれたりはしない、むしろそんな私を見てげらげら笑ったり、呆れつつもちゃんとたしなめたりする主任。どう見ても付き合っている感じではなくて、いつもと同じ光景でしかない。
 付き合う、ようなことになったら、そういうのも変わってしまうんだろうか。
「ちょっとは考えろよ」
 現在聞こえている声も、愉快そうに笑っている。
「付き合う気もないのに好きな人だの告白だの言って、こっちが誘えばのこのこついて来るんだからな。無用心なのか何なのか」
 主任が溜息をつくと、その熱が全て耳元に伝わってきて、背筋が勝手に震え上がった。
 震えたのも主任の腕に伝わってしまったのか、大きな手のひらが背中を撫でる。宥めるように優しく。でも、余計に震えたくなる。
 なぜだろう。その時、少し怖かった。
 だけど目の前の人にしがみつくことは出来ない。ただ抱き締められて、棒立ちになっているだけだった。他にするべきことがありそうなのに、そこまで考えが至らない。ろくにものを知らないからだ。
 二十三歳の私が知らないことはまだ山ほどある。私は、片想いしか知らない。気持ちが通じ合ってからの、取るべき行動を知らない。主任の気持ちを知って、私とほとんど同じだとわかって、でもそれからどうすべきか。私たちはこれで通じ合ったと言えるんだろうか。まだ片想いのような気がするのは、私だけだろうか。
 私は、やっぱり知らない。主任の気持ちを。今、私を抱き締めている主任が、一体どんなことを考えているのか。
「……一から十までわからせてやらないと駄目か。世話の焼ける奴だ」
 ややあってから、ぼやかれた言葉は存外に楽しげだ。
 そしてまた溜息が聞こえる。だけどもう、私の耳をかすめることはなかった。
「じゃあ、お前のしたいようにしろ」
 ふと腕の力が緩んだ。
 するりと身体が離れて、腕が離れて、体温が離れる。
 私と主任の間には僅かなすきまが出来る。潮風がぎりぎり通り抜けられるだけのすきまが。
 よろけ気味に半歩下がって、砂の上、どうにか真っ直ぐに立つ。それから私は改めて見上げた。距離を置いても目の前にあることには変わりない顔を。余裕ありげなその笑みを。
「お前が三月まで口を噤んでるって言い張るなら、好きにすればいい」
 笑んでいる主任は、突き放すように言う。
 今度は心細くなる。恐る恐る言葉を継ぐ。
「その時には、聞いていただけますか?」
「本当に、三月まで口を割れなかったらな」
 口を、割る? 物騒な言い方だなと思っているうちに、続けられた。
「俺だってしたいようにするつもりだ。前にも言った通り、のんびり三月まで待つ気はない。だから、言わせてやるよ」
 夜空に懸かる月の位置が、いつの間にか動いていた。私の眼前の全てを白く照らしている。砂浜と、海面と、はっとするくらいに冴え冴えとした面差しと。
「三月になるより早く、お前の本音を何もかも引き出してやる。これ以上ないってほどにはっきり言わせてやるからな」
 挑戦的に告げられた。
 私の気持ちは既に知っているはずなのに、それでも尚、言葉を引き出そうとしている主任。物言いに自信が覗いている。私は、驚くべきなのかうろたえるべきなのか反応に迷う。
 結局、両方いっぺんにやった。うろたえつつ驚きながら聞き返した。
「言わせるって、どうやってですか!」
「それは企業秘密だ。教えたら、無知な小坂でも対策を取ろうとするだろ? だから教えない。黙って引っ掛かってろ」
「そんな……」
 うっかり言わされてしまったらどうしよう。どうなったらそういう状況になるのか全くもって考えが及ばないけど、うっかり具合なら私にも自信がある。どう考えても不要な自信がそれはもうたっぷりと。心の奥底にしまい込んだ想いでも、いつか、つい、言葉にしてしまうかもしれない。
 そうやって、私は主任のお誕生日を祝うことになったのだから――思い起こせばそもそもの発端も、うっかりと飛び出してしまった本音によるものだったんだから。
「今日のところは、そろそろ帰るか」
 主任が時計を見て、私を見た。途端に波の音が戻ってくる。風の音も、今は聞こえた。
 恐々とする私は、とりあえず頷く。
「はい」
 その後で、心細さからもう一つ尋ねてみた。
「あの、私、これからどうしたらいいんでしょうか」
「だから、好きなようにしてろって」
 答えは笑って言われたけど、考えてみたら『好きなようにする』のがどんなことかさえ、自分でもわかっていなかった。
 好きな人に気持ちを伝えたら、その次は一体何をするんだろう。どうしたいって思うようになるんだろう。やっぱり、お付き合いしたいって思うのが普通なのかな。そうしたら……今の気持ちは今のまま、変わらずにあるんだろうか。
 そういう疑問に対する答えも、主任ならちゃんと知っているのかもしれない。

 車に乗り込む前に、靴を片方ずつ脱いで砂を落とした。
 そうしたら主任には面白がられた。なぜかげらげら笑っている。
「それ、いかにも小坂らしい気の遣い方だな。気にせずさっさと乗ればいいのに」
「私らしいって、どういう意味ですか」
 困惑しつつ、助手席に座り直してシートベルトを締める。それから運転席の方を向けば、エンジンを掛けようとする主任の手が止まっていた。
 ちらと目の端で見られた。
「俺のイメージする小坂像にぴったりって感じ」
 主任の中の私像とやらがとても気になった。でも聞いたら聞いたで、結構へこむかもしれないなとも思う。公私共に半人前だと言われたばかりだし。
 車のエンジンが掛かる。波の音はもう聞こえなくなる。海だけは窓から見えていて、月明かりもちらちらしていた。
「でも、あくまで俺の想像だからな。どこまで本物に近いかはわからん」
 そんな主任の声が、唸るようなエンジン音に被さる。
「だから俺も、お前のことをもっと知っておきたい」
 同じだ。その思いは私も、同じように持っている。主任のことを知りたい。何にも知らないままではいたくない。無知なままでいるのは、少し怖いことだと思う。
「私も、主任のことを知りたいです」
 車が動き出す直前に告げる。ハンドルを握る横顔が笑んだ。
「本当か? 知って後悔しないか?」
「な、何をおっしゃるんですか、後悔なんてしません!」
 そう切り返されるとは思わなくて、内心どぎまぎしたのは秘密。知った人に後悔されそうな謎をお持ちなんだろうか、石田主任。それってどんな謎だろう。
「どうだかな。お前の恋愛観を察するに、俺みたいな男の入る余地はないと見た」
 海水浴場の駐車場を抜け出し、車は海岸通りへと乗る。平日の夜更けとあって、海沿いの道はがらがらだった。
「だとしても、無理矢理割り込んでやるから」
 流し目と共に向けられた言葉に、どぎまぎする。
 恋愛観と言うなら、まさに私と主任の捉え方には大きな隔たりがあるようだ。私の無知で薄っぺらな恋愛観は、主任に割り込まれたらひとたまりもないだろう。ひしゃげてすぐに使い物にならなくなる。何が正しいのかわからなくなる。
 三月まで、ルーキーイヤーを終えるまで口を噤んでいることは、本当に正しいんだろうか。
 結果として石田主任をお待たせする羽目になっている、それだけのことじゃないんだろうか。
「当面は場数を踏んでもらう」
 私の思索をよそに、運転席から声がする。
「さっき言ったように休みの日にも顔を合わせて、今日みたいに仕事の後にも会ったりして、一緒にいることに慣れてもらう。俺にいろいろされてるうちに、お前の口もだんだんと緩んでくるに違いない」
「そんなものでしょうか」
 口が緩む自分が想像出来るような、出来ないような。うっかり滑らせてしまうパターンの方がありえそうだ。
「――と言うか主任、いろいろって何ですか」
「ん?」
「いえ、あの、いろいろされているうちにってたった今、おっしゃいましたけど……」
「聞くなよ。わかってるくせに」
 にやっとされて、私は何だか無性に気恥ずかしくなる。つまり、やっぱり、今日みたいなこととか。
「わ、わかってないです! 全然わかってないです!」
「またまた。いいんだぞ小坂、そこまで純情なふりをしなくても」
「違いますっ、ふりとかじゃなくてですね!」
 今日みたいに近づかれたり、触れられたり、抱き締められたりしたらどうしよう。どうしていいのかわからなくなる。それだけじゃなくて、また少し怖くなってしまうかもしれない。
「そういうことは、恋人同士でするべきだと思ってました」
 正直に呟く私を、主任はあっさり一笑に付した。
「ほぼそうなりかけてるのに、踏み止まってるのは誰だよ」
 そうなりかけてる、のかな。
 両想いのはずなのに、実感が湧かないのも無知なせい?
「主任は、もし両想いになったら、その人と付き合いたいって思いますか?」
 私は尋ねた。
 返ってきたのは、実に愉快そうな答え。
「付き合うまでが恋愛じゃないだろ? むしろそこからがお楽しみだ」

 楽しい……のかなあ。
 そういえば私、恋愛を楽しいって思ったこと、なかった。
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