Tiny garden

変化球と直球(4)

 九月も終わりだというのに、海辺にいても寒さを感じなかった。
 潮風がごく弱いせいかもしれない。お酒を飲んだ後みたいに熱い頬には、むしろ物足りないくらいだ。
 夕飯を終えてから、私たちは砂浜へと下りた。先程の予告めいた言葉にすっかり気圧されてしまった私は、あれきり満足に声も発せずにいた。波の音よりもざわざわしている頭の中。緊張する。
 主任はいつも通りに優しかった。
「寒くないか?」
「……はい」
「よし。じゃあ、少し歩くか」
 緩く弧を描く砂浜の先、奥の方を指差して、それから主任は歩き出す。数歩進んだ後、まごついている私を振り返って、笑った。
「小坂、足取られて転ぶなよ」
「き……気をつけます」
 私の答えはざわめきに紛れてしまった。

 辺りは波の音に満ちている。波打ち際、ぎりぎり乾いている砂の上をゆっくりと歩く。足音はしない、ただ靴の裏に砂を踏み締めた感覚だけがある。
 駐車場を少し離れると、たちまち月明かりだけになる。海面を照らす光は眩しい。汀線沿いを辿って歩けば、視界の右隅では白い月光がちらついた。左の方へは向けない。隣を歩く人の顔を、見上げることがどうしても出来なかった。
 石田主任は同じペースで歩いてくれた。少なく見積もっても十五センチは離れている背丈。ましてこちらは通勤用のパンプスを履いていて、ヒールの低い奴でも砂浜の歩行はもたついた。そんな状況で自然と歩幅が合うことはありえない。だから主任は、私に合わせてくれているのだと思う。

 本物のデートみたいだと思う。――本物の、と言うのはつまりテレビドラマや漫画の中にあるような、定番的なデート。好きな人と二人きりで夜の海辺を歩くなんて、場面を想像するだけでロマンチックで、胸がときめく。ドラマならここで出生の秘密が明かされたり、病気であることを打ち明けたり、愛の告白をしたりするはずだ。
 でも、いざこういう場面に居合わせてみると、ロマンチックなんて言葉すら憎たらしくなる。胸がときめくなんてものじゃない、心臓が口から飛び出しそうだった。
 好きな人と二人きりの海辺。
 会話はしばらくない。あるのは波の音と月明かりだけ。
 あと五分間この状況が続いたら、頭がぷすんとショートするかもしれない。
 雰囲気を読んで黙っていた訳では決してなく、ただ単に緊張のあまり口が利けなかった。そんな私を見かねてか、五分が経つ前に主任は笑った。
「呑まれてるな、雰囲気に」
「……す、すみません」
 図星だった。
 項垂れる私の隣、主任はふと足を止める。私も慌ててそれに倣う。首を僅かにだけ動かす。
 左隣の主任の顔は見えない。それでも出来る限り視線を上げた。ビジネスマナーの基本は押さえて、ネクタイの結び目を見ていた。主任がスーツで助かったと思う、本当に。
「今からそんなに緊張するなよ」
 苦笑いの調子で言われた。
「上の空で聞き流されちゃ困る。しっかりしろ、小坂」
「あの、頑張ります……」
 さすがに主任のお言葉を聞き流すことはしたくない。
 でも、頭の処理能力の限界を超えてしまうことはままある。主任の言うことは時々難しかったり、突拍子もなかったり、からかいじみていたりする。だから私もついていくのが大変だった。主任が何を思っているのか、ちゃんとわかりたいと思っているのに。
 今は、何を思っているんだろう。
 どういう話をする為に、私を海まで連れてきてくれたんだろう。
 三倍返しって具体的にはどんなことなんだろう。――考えたらまた頭がショートしかけた。
「もう少し、慣れてくれた方がいいんだよな」
 ふと、微かな溜息が聞こえた。
「うろたえるお前を見てるのも面白いよ。でももうちょい慣れて欲しいってのが本音だ」
 面白いと言われてしょげたくなった。私だって好きで緊張している訳でもないのに。もう少し、せめてもうちょっとだけでも主任と普通に話せたら。恋心は一旦よそへやっておいて、上司と部下の間柄を超えないラインで親しくお話が出来たらいいと思う。叶うならそのくらいでいいのに。
「だから、慣れる為の努力をしないか?」
 告げられた言葉にはっとする。主任が続けた。
「顔を上げろ」
 それで私はぎくしゃくと、ためらいがちに面を上げた。本当は俯いている方が余程気が楽だったけど、主任のお言葉に逆らう気にはなれなかった。ネクタイの結び目から、真上にある顔へと視線を移す。
 目が合う。
 主任は少し笑んでいた。さほどからかいじみてはいない、でもやはり真剣だとも言いがたい笑顔をしていた。ただ、すごく優しい印象は受けた。月光の柔らかさのせいだろうか。
「俺はな、小坂」
 言い聞かせるような口調で更に続いた。
「お前と会う機会を増やしたい。お前と一緒にいる時間を増やして、もっと気楽にいられるようになりたい。そう思ってる」
 途方もないことを、言われた。
「休みの日に理由をつけて会うのもいいし、お前さえよければ何の口実もなしに会ったっていい。今日みたいに仕事の後にこうして、二人で過ごすのもいい。とにかく、一緒にいられる時間を今よりも長くして、お互いに慣れておきたい。そう思う」
 そこまで言った時、主任の笑みに呆れたような色が交ざった。
「もっとも、慣れるべきなのはお前だけか。うろたえてるのも緊張してるのも小坂一人だからな」
 おっしゃるとおりです。私は心の中で平伏した。
「俺の場合は違う。お前を、もっと知っておきたい」
 直後に告げられた言葉には、早速うろたえたくなった。
 私を知っておきたい、って。
 会う機会を、一緒にいる時間を増やしたいって。
 ――それってどういうことなんだろう。混乱した。

 私も思う。主任との接し方に、もっと慣れることが出来たらいいって。それはさっきも思った通りだ。
 私にとっての石田主任は、仕事を教えてくださる上司でもあるし、同じ営業課の仲間でもあるし、そして好きな人でもある。だからこそ接し方が難しい。だからこそ、もっと自然に、相手に気遣われないように接したい。主任にとっての私が、気楽に会話を交わせる、一緒にいて疲れない存在だったらいいなと思う。……それともちろん、安心して仕事を任せられる存在にもなりたいけど。
 でも、主任が私のことを知っておきたいというのは、どういう理由なんだろう。主任も同じように思っているんだろうか。私が緊張しないように接したいと、思ってくれているんだろうか。上司として、部下を職場や、目上の人間に慣れさせたいと思って――?
 何だろう。
 何かが釈然としない。私の理解が追い着いていないせいだろうか。

 そこまで考えた時、
「小坂、顔が下がってるぞ」
 主任の注意が飛んで、私は慌てて顔を上げた。思案に耽るうち、知らず知らず俯いてしまっていたようだ。たちまち視界が切り替わる。主任の苦笑いが映る。
「お前はどう思う?」
 その顔で問われた。
 まず『どう思う?』の『どう』が指す部分を考えることから始めたので、問いに答えるまでにはしばらくの時間が必要だった。思案を遡ってやや悩み、それからようやく答えを口にする。
「私は……その、礼を失しない程度には慣れておくべきかと思います。今のままだと、かえって失礼……ですよね?」
 無言で、主任は力一杯頷いた。またしょげたくなった。
 それでも必死の思いで語を継ぐ。
「ただ、私は、その為だけに主任に時間を割いていただくのも、悪いかなという気がするんです。休みの日にお会いするのは、主任のご負担になりませんか?」
 休日に石田主任と会うというのは、私にとってはものすごいことだ。先のお買い物の約束だってどうしようかと思ったくらいだった。その上、更に別の機会もいただけるなんて出来過ぎている。
 なのに、主任はかぶりを振った。今度は控えめに。
「ならない。俺がそうしたいって言ってるんだからな」
「え、でも」
 でも、何と言おうとしたのか、自分でも良くわからなかった。ただ腑に落ちない。主任がどうして、そうしたいと言ったのか。
「俺が聞いてるのはお前の意見だ。お前はどうなんだ、小坂」
 再度尋ねられ、私は答えに窮する。
 私の意見は――決まっている。それはもちろん、一緒の時間が長くなるならうれしい。好きな人と仕事を離れて、休日や仕事帰りにも会うことが出来るならうれしい。ものすごく、ものすごいことだと思う。緊張はするだろうけど、今日みたいにうろたえたり空回ったりもするだろうけど、やっぱり主任と一緒にいたい。出来るだけ長く。ご迷惑の掛からないように。
 ――そうだ。主任に、ご迷惑の掛からないように。前にも思った。例えばデートに誘うなら、お互いに利のあるデートがいいって。主任が何かを楽しんで、そして私が一緒の時間を楽しめる。そういう過ごし方がいいんじゃないかって。
 引っ掛かっているのはそこだ。
 つまり、会う時間を増やしてもらって、私はすごくうれしいし、ラッキーだと思う。
 でも、そうすることで主任の側には、一体どんな利点があるんだろう。
 腑に落ちなかったのはそこだった。主任が私を知りたいと言った、貴重な休日を私の為に割こうとする、そのメリット。
 もしかして、上司たる者、部下の為にはプライベートを犠牲にしてでも気を配り、粉骨砕身で接しなければ――なんて思っているのだったらどうしよう。そこまでしなくていいですと言ったら失礼に当たるだろうか。

 とりあえず、まとまった考えを口にしてみた。
「私は、その、主任と一緒にいられる時間が増えたら、すごくうれしいです」
 勢いで言ってみたものの、後から無性に照れた。もうばればれなんだからいいか、とは割り切れない。でも言ってしまった。
 主任はちょっと笑んでいる。少なくとも私の答えが不快ではなかったらしい。こっそり胸を撫で下ろしつつ、自分で語を継いでみる。
「だけど主任は、どうしてそこまでしてくださるんですか? 私がまだ営業課の空気に馴染んでいないとお思いだから、ですか?」
 失礼のないように、恐る恐る尋ねてみたつもりだった。
 だけど――その時、主任の表情が変わった。月光の明るさが影を潜めた。
「視野が狭いな、相変わらず」
 そう呟いた時に浮かんでいたのも笑顔だった。ただしちょっとだけの笑いとは違う、深い笑み。どこか陰りのある笑い方で、主任は私を見下ろした。
「しょうがない。ここまで言っても通じないなら、じっくり理解させてやる」
「え……?」
 なぜかびくりとした私の頬に、大きな、冷たい手が触れた。
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