Tiny garden

変化球と直球(3)

 ファーストフード店に立ち寄り、二人前のセットを購入。
 その後で車は海岸通り沿いを走り、やがて海水浴場の駐車場へと辿り着く。

 シーズンオフの海辺には、確かに人気がまるでなかった。駐車場にも車が二、三台停まっているだけ。街灯の明かりだけでは中に人がいるかどうかもわからない。
 主任は辺りを一度見回してから、車のエンジンを切った。途端に車内は静かになる。潮の引くように音が止む。
 代わりに波の音が聞こえてくる。ごく微かに。染み込むみたいに。
「海なんて久し振りです」
 私は何となく溜息をつく。
 海に向かって真っ直ぐに停まった車内、フロントガラスからは夜の海が見えていた。今夜は凪らしく、月の光が海面に映りこんでゆらゆらしている。
 今年の夏は泳ぎに来てなかった。そんな暇もなかった。学生時代の友達も忙しそうにしていたし、泳ぎに行く元気があれば炎天下の営業を乗り切る為に使いたかった。結果、今夏の一番の思い出は、会社の屋上から見た花火だ。――ちっとも花火見てないって言われていたけど。
「小坂は泳ぐの上手そうだよな」
 妙に実感のこもった様子で主任が言う。そんな風に見えるんだろうかとちょっと照れる。
「上手いってほどではないです。そこそこですよ、私」
「犬掻きは上手いだろ?」
「……クロールくらい出来ます」
 からかわれていた。ちょっと本気でうれしかったのに。
 拗ねたくなった私を宥める為か、主任はシートベルトを外してハンバーガーの袋を開く。
「とりあえず、食べるか。空腹じゃまともに話も出来ないだろうしな」
 そんなこともないんだけど、でもお腹が空いていたのは本当。だから私も嬉々としていただくことにした。
 照り焼きバーガーとポテトのセット。サイドメニューのオニオンフライとアップルパイも注文していた。半分こして一緒に食べようと主任に言われて、妙に心が弾んでしまった。半分こ、っていい響き。
 主任がオーダーしたのは海老カツバーガー。フィッシュバーガーにするだろうと勝手に踏んでいたので少しびっくりした。まあ、当たらずとも遠からずってところなのかな。
 零さないように細心の注意を払いながら、いただいた。街灯の明かりがちょうど車内に届いていて、室内灯を点ける必要もなかった。波の音をBGM代わりにしたお夕飯。しかも主任と一緒。文句なし。
「たまに食べると美味いな」
 海老カツバーガーに齧りつく主任が、率直な感想を口にする。
 その言葉で、そういえば私もハンバーガーなんて久し振りだったな、と思う。学生時代はそれこそよく食べていたのに。最近はファーストフードごと、何となくご無沙汰だ。
「こういうのはあまりお召し上がりにならないんですか」
「召し上がらない。食べたのも久し振りだ」
 主任は面白がる口調で私の問いに応じた。それから笑って言い添える。
「一人で食べたって美味しくないだろ、こういうのは」
「それもそうですね。賑やかに食べた方が美味しいです」
 私も納得してしまう。――そうか。一人だと美味しくないから食べなくなっていたのかもしれない。外回りの最中とか、ファーストフード店の前を通りかかることはいくらでもあるのに、足が向かなかったのはそういうことだったのかも。
 海もハンバーガーも、一人ぼっちじゃちょっと寂しい。
 それが主任と一緒だと、とびきり素晴らしいことに思えてくるからすごい。海はきれいだし波の音はするし、ハンバーガーはとても美味しい。うっかり当初の用件を忘れそうになる。

 そうだった。
 ええと、話をするんじゃなかったっけ。

「ところで、本日のお話と言うのは……」
 照り焼きバーガーを食べ終えた私は、包み紙を畳みながら尋ねた。
 主任はドリンクの紙コップを手にしていた。ストローをくわえた顔がこっちを見て、今思い出したという表情になる。
「そうだったな、忘れてた」
「主任も忘れてたんですか!」
「ついハンバーガーに気を取られてた。悪い悪い」
 当初の用件を主任の記憶から吹っ飛ばしてしまうなんて、ハンバーガーの美味しさ恐るべし。
 ともあれ、居住まいを正して主任が語を継ぐ。
「実はな、霧島に結婚祝いをやろうと思ってる」
 予想通りの話題だった。私が笑いそうになってしまったせいか、主任はすっと眉を顰めた。
「だから笑うなって」
「す、すみません。でもあの、やっぱり素敵です、そういうのって」
 そう告げても主任は特に反応しなかった。話を進めてきた。
「営業課一同で渡すやつはまた別に、式の前にでも用意するつもりだ。ただ個人的に贈る分がな」
 ちらと私の方を見た後で、更に続けた。
「せっかくだから長谷さんが喜ぶようなものがいい。霧島はともかく、奥さんに喜んで貰える品にしたい」
 奥さん。主任が実にさらりとそう言ったので、私は他人事ながらものすごくどきどきしてしまった。
 そうだ、奥さんなんだ。霧島さんの奥さん。近いうちに私も、長谷さんのことを指してそう言うようになるんだ。照れずに言えるかな。と言うか、霧島さんが照れそうな気もするなあ。
「でも俺の趣味じゃ、そもそも何を贈っていいかわからん。一応当人たちにも意見は聞くつもりなんだが、選ぶに当たって他の人間のセンスも欲しくてな」
 オニオンフライを一つ摘んで、主任はまた私を見る。
「それで、よかったら小坂に見立ててもらいたい」
 私もオニオンフライに手を伸ばしたところで、うっかり、取り落とすところだった。
「――わ、私にですか?」
 びっくりした。
 ここで自分の名前が出てくるとは思わなかった。慌ててオニオンフライをしっかり掴みつつ、主任の表情をうかがってみる。
 真顔ではなく、けれど冗談のようでもない顔つきがじっと私を見つめていた。
「頼めるか?」
 尋ねられ、私は答えをためらう。
 そんな重要な事柄に私が関わってしまってもいいんだろうか。私のセンスなんてたかが知れているのに……でも、主任のお役には立ちたい。主任が私に、と言ってくださったのだから、そのお気持ちには応えたい。相反する気持ちが頭の中に湧き起こる。
 主任の表情を見上げて、少し考えてみる。石田主任は私にとって好きな人というだけではなくて、日頃から大変にお世話になっている人だ。これはご恩返しの絶好の機会に違いない。今日だってご飯をご馳走になっているし、ご馳走になったのは今日が初めてではないし、それに一緒にいられる時間はなるべく長い方がいいし――そこまで考えが行き着くと、最早答えは一つだった。
「私でよければ、お手伝いします!」
 自信のなさはなるべく追いやって、大きく頷く。
 すると、主任が短く笑った。
「気負うことはないからな、小坂」
「はい!」
「ともあれ、助かるよ。男のセンスじゃこういうのはからきしだ」
 本当に、心から助かったという口調。主任のセンスが私より劣るとはどうしても思えないんだけどな。でも、せっかくだからお役に立ちたい。
「じゃあ、これからお買い物に行くんですか?」
 オニオンフライを食べ終えてから、私は質問をしてみた。既に時刻は午後九時少し前、今から開いているお店を探すのは大変そうだけど。
「今日は無理だ。デパートが開いてない」
「やっぱりそうですよね。なら、いつにしましょうか」
 デパートの閉店時間に間に合うように仕事を終えるのは難しい。今日ぐらい頑張ればいいんだろうけど、毎日同じように首尾よく事が運ぶ訳じゃない。突発的な要因で残業時間が延びるなんて、一年目の私でさえもうありふれたことになっていた。
 そう思っていたら、主任が言った。
「休みの日に付き合ってくれないか。例えば、今度の土曜日にでも」
「え?」
「お前の都合に合わせる。空いてる日を教えてくれ」
 お休みの日に石田主任とお買い物。
 何だかものすごいことのように聞こえるんだけど、どうしよう。もちろん私は勤務日以外で主任と顔を合わせたことなんてない。つまり今回の件が叶うなら、初めての出来事となる。
 そうなったらうれしいなと、やましさ混じりの気持ちで思う。
「私はその、次の土曜は空いてますし、構いませんけど……主任はいいんですか、貴重なお休みなのに」
「いいに決まってるだろ。頼んでるのはこっちだ」
 至極もっともな物言いで答えた主任。直後、にやっとされた。
「絶好の口実にもなるしな。お前を休みの日に誘き出す為の」
「口実……って、何ですか?」
 私は面食らった。口実と言うと、何だか怪しい感じがする。
「今日だってそうだ。最初っからデートだって言ったら、お前は別の意味で気負ってただろ? 他の用件を餌にしないと連れ出すのも難しい」
 主任から告げられた言葉に、私ははっとした。即座に聞き返した。
「あ、あの今日って、今って……デートなんですか!?」
 派手に上擦った声でも、主任はちゃんと拾ってくれたらしい。笑われた。
「小坂はいいよな。他に口実を作ればろくに警戒もせずついてくる」
「え……で、でも、お話があるってうかがってましたし、てっきり」
 話をする為だけのお誘いなのかと思っていた。
 デートだという認識はまるでなかった。と言うかそういう認識をしたら、とてもじゃないけど普通にしていられない。はしゃいで、浮ついて、手の付けようがないくらいの醜態を晒していたはずだ。
「話はある。むしろ、これからが本題だ」
 主任が視線を、フロントガラスの向こうへ転じる。
 夜の海と月明かりが見えている。波打ち際や砂浜はここからじゃ見えないけど、多分その手前にあるんだろう。
「小坂は、海に来たのも久し振りだったよな」
 そう言われて、頷くのがやっとだった。
「じゃあ、食べ終わったら外出るか。時間は平気か?」
「あの、大丈夫です!」
 勢い込んで答えてしまって、自分で恥ずかしくなる。主任にも案の定笑われた。でもどうしようもない。今がデートだと思うとどうしていいのかわからなくて、気持ちが浮ついてしまう。
「ところで本題のお話って、どんなことですか」
 これは聞いておかないとと尋ねた。
 返ってきたのは、眇めるような視線とこの答え。
「――三倍返しだ」

 そして私は今頃になって思い出す。金曜のメールと、それに対する主任からの返答。
 こんなタイミングで思い出してしまうと、余計に普通じゃいられなかった。
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