Tiny garden

変化球と直球(2)

 長谷さんは営業課のアイドルだった人だ。
 だった、と過去形にしていいものかどうかわからないけど――霧島さんの恋人ではあるけども、今でもすごく人気があるみたいだ。営業課の皆の反応でわかる。私だって思う、きれいな人だし、笑顔の素敵な人だって。皆が好きになるのもわかる。
 だからまあ、しょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。
 でもそれにしたって、今日の霧島さんに対する、営業課一同の扱いは凄まじかった。
 結婚の報告を聞いた人たちは皆まず喜んで、それからやれやれという顔をする。どうやら結婚に漕ぎつくまでに時間が掛かり過ぎだと思われているらしい。そしてお祝いの言葉と共に小突いたり、蹴ったり、頬っぺたを突いたり。霧島さんはとにかくいろいろされていた。長谷さんを攫っていくなんて悪い奴だとか、長谷さんを泣かせたら死刑だとか、やっかみ交じりの祝福の言葉を事あるごとに掛けられてもいた。
 営業課にあるホワイトボードのスケジュール表もわざわざ書き換えられていて、霧島さんの名前が、長谷さんとの相合傘に変わっていた。オフィス内では始終誰か彼かが鼻歌の代わりに結婚行進曲を口ずさんでいた。結婚式は来年の一月なのに、今日から既に晴れの日みたいだった。
 そして時の人となった霧島さんは、一日中ずっとにこにこしていた。
「俺は今、幸せだからいいんです!」
 きっぱりそう言い切って、何を言われようと、いくらいろいろされようと、気にするそぶりはまるでなかった。本当に幸せそうだった。

「――あいつ、むかつくくらい幸せそうだったな」
 と、石田主任もぼやいていた。
 でも言葉通りにむかついている訳じゃないだろうなと思う。今日は主任も幸せそうだった。一日中、にやにやしていたのを私はこっそり見ていた。
「当然ですよ、だって、おめでたいことです」
 私がそう答えると、主任はちょっと不満げにこちらを見た。それからタイムレコーダーにICカードをスキャンする。表示された退勤時刻は午後七時半。
「めでたいったって限度がある。小坂も見てただろ、霧島の締まりのあのない顔」
 聞こえよがしに主任が笑う。
 と言うのも、営業課にはまだ霧島さんが残っている。今日は一番最後まで残業することになりそうで、早速の新婚ボケかとやっぱり皆に突っ込まれていた。私は主任との約束通り、今日はなるべく早く上がれるようにと調整していた。それが上手くいってほっとしている。私に対するお話というのも、もう察しがついていたし。
 用件はずばり、霧島さんの結婚式の話かなと思っている。営業課一同で出ると聞いているから、例えばお祝いをどうするかとか、結婚式では余興をしようとか、そういう相談なのかなと。四ヶ月先の話は遠いようで、きっと近い。
「これから四ヶ月もあいつの緩みきった顔を見てなきゃならないんだぞ」
 主任が言うと、私が反応を示す前に営業課のドアが半分だけ開いた。
 隙間から顔を覗かせたのはもちろん、時の人の霧島さん。今日初めての拗ねた表情で反論してきた。
「先輩の時もそう言ってやりますからね」
「一緒にすんな。お前ほど酷い顔はしないよ、俺は」
 余裕の態度で答えた主任。霧島さんはちらっと私を見たけど、私はどう口を挟むべきか悩んだ挙句、黙っていた。幸せそうな顔をしているのはいいと思う。皆が羨む気持ちも、確かにちょっとわかるけど。
「じゃあお先に。長谷さんの為にも頑張れよ」
 霧島さんに向かって、主任は軽く手を挙げた。それから私に声を掛けてきた。
「小坂、行くぞ」
「はいっ。――あの、お先に失礼します、霧島さん!」
 歩き出した主任の後に続きつつ、私は振り向きざまにお辞儀をする。
 半分開いたドアからは、霧島さんの珍しく揶揄するような顔が見えていた。
「小坂さん、お気をつけて」
 言葉自体は普通だ。でも言い方が普通ではなくて、以前にも似たようなことを言われたような気がする。
 もしかすると霧島さんは、私が主任と一緒に帰ることを知っていたんだろうか。
 だとしても心配することなんかないのに。だって、石田主任は絶対に悪い人じゃない。ただ、私の方が面食らいたくなるからからかわないで欲しい。確実に顔が赤くなった。

 主任の車は、会社の地下駐車場に停めてあった。
 いつもお世話になっている営業車たちの前を通り過ぎた先、隅の方に置かれていた。車高の高いSUV車。
「大きな車に乗っていらっしゃるんですね」
 私の声は駐車場内に少し響いた。次いで、主任が助手席のドアを開ける音。
「最近は買い物以外に役立ってないけどな」
「あ、荷物はいっぱい積めそうですね。いいなあ」
 うちのお父さんの車は普通のセダン。家族総出で買い物に行くと、大物を買った時なんかは荷物を積むのに難儀する。トランクがもっと大きければいいのにと、お父さんは時々ぼやいている。だけど他の車種にする気にはなれないらしい。セダンが一番格好いいんだ、とは本人の弁。
 私もいつか自分の車が欲しい。お父さんの車を借りる度に冷や冷やさせるのは悪いし、自分用の車の方が内装もオーディオも好きに出来る。ただ当分は車どころじゃないだろうなとも思う。公私共に自立して、一人前になるのが先だ。
「ほら、乗った乗った」
 追い立てるように助手席を勧められ、私はちょっと戸惑った。一応尋ねてみる。
「助手席に乗っても、よろしいんですか?」
「そこしか空いてないからな」
 冗談みたいな口調で言い切る主任。
 おずおずと勧めに従う。乗り込んで、ドアをなるべく慎重に閉じ、シートベルトを着用し終える頃には、主任が運転席のドアを閉めていた。
 閉鎖空間が出来上がる。急に緊張してくる。
 他人の車の中って、よその家と同じように知らない匂いがする。快不快を通り越して、他人の領域なんだなって感じがして、自然と背筋が伸びてしまう。ましてここは主任の車の中だ。そして主任と二人きりだ。否応なしに気が引き締まる。ちゃんとしないと、と思う。
 主任がシートベルトを締める姿も、助手席からちゃんと眺めていた。何でもない仕種でも格好いい人がすると当たり前のように格好いい。社用車とはまた違う眺めの中、私は膝の上に置いた鞄を抱え直す。
「――で、何が食べたい?」
 目の端で問われた。鋭い視線と質問の、両方に一瞬うろたえる。
「私の希望も申し上げていいんでしょうか」
「むしろお前が決めていい。遠慮せず食べたいものを言え」
 そんな。遠慮をするなというのが最も難しい注文なのに。
 でも有無を言わさぬ調子で告げられた。何でもいいですなんて答えられない。私は首を傾げて、今まさに食べたいものを考えてみた。
 仕事の後でお腹は空いている。時刻はもうすぐ午後八時になる。しっかり食べたい。でもお店を探すのは大変かもしれない。遠慮をするなとは言われたものの、主任にあまり散財させるのも申し訳ない。ただでさえ日頃からたくさんご馳走になっているのに。
 思案の末、安価でなおかつしっかり食べられるものを選んでみた。
「あの、ハンバーガーでもいいですか?」
 反射的な速さで主任がこちらを向く。眉を互い違いにして聞き返してくる。
「ハンバーガー? 夕飯に?」
「お、おかしいですか?」
「おかしくはない……けど、お前、それで腹一杯になるのか。足りなくないか」
 とうとう、そういう心配をされるようになってしまった。私は内心でだけ肩を落とし、声は努めて明るく答える。
「お腹一杯になりますよ、大丈夫です」
 それから別のことも思い出した。今日誘っていただいた、本来の目的。
「ええと、それに、私に話があるとのことでしたよね? 話をしながらご飯を食べるなら、そういう軽いものの方がいいと思うんですけど、どうでしょうか」
 私の答えを聞いた主任は、いたく腑に落ちたらしい顔になった。
「それもそうだな。都合がいい」
 よかった。今日は低予算で済む。私が胸を撫で下ろすと同時に、車にはエンジンが掛かる。
「じゃあ決まりだ。テイクアウトして、どこか静かなところで食べるか」
 主任は言って、その後で少し笑った。
「どうせ人気のない場所に連れてく予定だったからな」
 人気のない場所。そこでは一体、どんな話をされるんだろう。もしかするとすごく大事な話なんじゃないかな。そして絶対、霧島さんに関係する話だ。
 そう予感した私を乗せて、主任の車は地下駐車場を出る。

 今日の主任は機嫌がいいみたいだ。
 ちょうど今、ハンドルを握る横顔もそう。ほんの少し笑んでいて、うれしそうに見える。そして思い返せば今日はずっと、一日中うれしそうにしていた。
 口ではああだこうだと悪いことを言ってみるけど、きっと霧島さんの結婚を心底喜んでいるんだと思う。素直にそう言えばいいのに、本当に主任と霧島さん、そして安井課長の関係はわからない。
 ――その時ふと、ひらめいた。
「あ」
 思わず声を上げると、運転席では素早い反応があった。
「どうした?」
「あの、もしかして」
 私は迷いつつも、結構ずばりと切り出してみた。
「土曜日、霧島さんのおうちで催された食事会って、つまり結婚発表の集まりだったってことですか?」
 すると主任の横顔が思いっきり、この上ない様子で笑んだ。真っ直ぐ前を見ながら言ってくる。
「小坂にしては鋭いな。ご明察だ」
「やっぱりそうなんですね!」
 霧島さんは会社の皆に打ち明ける前に、仲良しの石田主任と安井課長にいち早く事実を話していたんだ。
 私でもそのくらいは察せる。そして思う。やっぱり仲良しなんだなあ、皆さんは。
「そういう関係って素敵ですね」
 羨ましくなって、私は率直に言った。会社の中でそういう風に付き合える相手がいるって、すごくいいことだと思う。私も同期の子とは一緒にご飯を食べたりしたことあるけど、課が違うからだんだんと係わり合いも少なくなってきた。だから余計に羨ましい。それに主任と課長はともかく、霧島さんはお二人よりも後輩なのに仲良しになれるんだから……素敵だなあ。
「別にそんなんじゃない」
 照れ隠しか何かみたいに、主任が笑いながら答える。
「せっかくだから祝ってやるかって気になっただけだ。似合うかどうかはともかく、長谷さんが霧島と結婚したら、霧島の家に行く度に会える訳だしな。俺と安井にも多少のメリットはある」
「……へえ、そうなんですか」
 私は突っ込みたくてうずうずしていたけど、結局黙っていた。主任の、霧島さんに対する素直じゃないそぶりはちょっと可愛い。だから口元が緩んでしまうのはどうしようもなくて、それを信号待ちの間に主任に見つかり、逆に突っ込まれた。
「笑うな、小坂」
 ――無理です、主任。
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