Tiny garden

現実家と夢想家(1)

 一人で営業回りを始めてから、十日が経った。

 初日の情けないミスはどうにか繰り返さずに済んでいる。仕事の段取りにも少しずつだけど慣れてきた。まだ軌道に乗ったとは到底言いがたいし、一人での仕事自体に慣れた訳ではないけど、気持ちにも若干余裕が出てきたように思う。
 お蔭で、ちゃんとお昼の休憩時間を取れるようにもなってきた。――営業に出ている間は、当たり前だけどお昼ご飯のタイミングを自分で判断しなくちゃならない。初日は思い出すのも憂鬱になる大騒ぎの末、ご飯を食べる暇はなかった。その後の数日間もどこでご飯を食べようか迷った挙句、やっぱりコンビニで買う羽目になった。しかもお昼時を少し過ぎてしまったせいかお弁当もおにぎりもサンドイッチも全滅で、しょうがなく菓子パンでしのいだ。菓子パンも嫌いではないけど、どうしても物足りない。一度なんて帰社してから書類をまとめようとしたらうっかりお腹が鳴ってしまい、営業課の皆に笑われた。すごく恥ずかしかった。
 同じミスは繰り返さないのが社会人として最低限の務め。
 という訳で今日はばっちり計画を立てていた。まず午後一時までに回れるだけ営業先を回り、一時になったらお昼休憩。そのまま一旦、会社へ戻る。社員食堂の営業時間は午後二時までで、それ以降は食堂自体は空いているものの、賄いの皆さんはいなくなってしまう。だから二時前には社員食堂へ飛び込んでおかなければならない。売り切れの心配もあるので余裕を持って一時半前には着いておきたかった。
 そして今日の日替わり定食は鶏の南蛮揚げだ。うちの会社の社員食堂は日替わり定食が二つあって、お肉がメインのAセットと、野菜のおかずがメインのBセットとに分かれている。どちらも一週間の献立が食堂の壁に貼り出されてあって、金曜日のAセットの献立は南蛮揚げとなっている。社食の南蛮揚げは以前食べた時にすごく美味しかったので、決めた――金曜日は出来る限り、お昼ご飯を社員食堂で食べよう。

 気持ちに余裕が出来たせいか、事は計画通りに運んだ。
 午後一時を少し過ぎた辺りで一段落つき、すぐに社用車で会社へと取って返す。今日の営業ルートも計画のうちで、なるべく会社に近い営業先を午前中に回していた。だから会社へは短時間で着いた。
 社用車を地下駐車場に停めた後、社員食堂へ急行。そして午後一時二十分過ぎ、Aランチを無事確保。残り三食というまことに際どいタイミングだった。
 午後一時過ぎの社員食堂はまだ賑々しく、私は間違い探しみたいに目を凝らして空席を探す。同期の子か、あるいは営業課の人がいたら相席をお願いするんだけど。そんなことを思いつつ、Aランチを手に食堂を進んでいけば、
「小坂さん!」
 賑やかな空気を割る、はっきりとした声が聞こえた。
 私がそちらを見やれば、奥の方のテーブルから大きく手を振っている人がいる。目が合うと、愛想よく笑いかけられた。しかも手招きまでしてくださった。
 安井課長だ。
 一瞬だけ戸惑ったものの、私はすぐに課長のいるテーブルへと歩き出した。お会いするのはちょうど十日ぶりだし、その時のお礼もまだだった。是非、報告も兼ねたお礼をしよう。お話しするのはやっぱり緊張するだろうけど……主任とは、また別の意味で。
 テーブルの脇まで近づくと、課長はまた笑顔を向けてくれた。
「席を探してるのなら空いてるよ。よかったらどうぞ」
 そう言った課長は一人きりで座っていた。六人掛けのテーブルの、手前中央の席。よく見れば、食堂の奥の方にはちらほら空いたテーブルもあり、その分賑々しさも遠く聞こえる。
「あ……ありがとうございます!」
 さりげないご親切に、またしても頭の下がる思いだった。しかも課長は私の為に、わざわざ隣の椅子まで引いてくれた。
「じゃあ座って。俺の隣でいいよな?」
「はい、お邪魔します。ありがとうございます」
 私は二度目のお礼を述べて腰を下ろし、Aランチのトレーを置いてから改めて、三度目の、本題のお礼を口にした。
「あの、それと、先日もありがとうございました。大変お世話になりました」
 箸を持ち直した安井課長がこちらを向く。
「気にしなくてもいいよ。俺はお節介を焼いただけだって、この間も言っただろ?」
「でも、とっても感謝しているんです。お蔭様であれきりミスもしていませんし、明るい気持ちで勤務に当たっています」
 初日の失敗をそれほど引きずらずに済んだのも、ほとんど課長のアドバイスのお蔭だ。あれ以降、気を引き締めて業務に当たることが出来ている。そして不思議なことに、気を引き締めれば引き締めるほど、気持ちの余裕が生まれてくるようにもなった。少しずつではあるけれど、いい変化だと自分で思う。
「そうか」
 課長が呟くように言って、直後目を細めた。
「営業の仕事、大分慣れてきたようだな」
「はい。まだ軌道に乗ったというほどではありませんけど、何とかやっています」
「それはよかった」
「はい、安井課長にも大変お世話に――」
 言いかけた私を遮るように、課長がかぶりを振る。少し笑われた。
「お礼はいいよ。こっちだって、この間は楽しませてもらったしな」
 それから目の前のお皿に箸を伸ばす。偶然にも、安井課長もAランチだった。鶏の南蛮揚げを一切れ摘んで、また笑った。
「あんなに慌てふためく石田なんて、なかなか見られるものじゃない。小坂さんのお蔭で楽しかったよ。次の機会もよろしく」
「え……」
 私は絶句した。次の機会って、何だか物騒な言葉に聞こえた。
 お構いなしに南蛮揚げを食べ始める安井課長。姿勢がよくて上品で、横顔はとても生真面目そうに見える。なのにこの間みたいな、悪戯のようなふるまいだってしてみせる。外見からは内面が掴み切れない人だ、私はそう捉えざるを得ない。

 あの時、石田主任が私の為に飛んできてくれたのはうれしかった。だけど申し訳なさの方がより強かった。
 出来ればもう、ああいうことはしないでくれたらいいなと思ってしまう。元はと言えば霧島さんが安井課長に頼んだことらしいし、更に本をただせば石田主任が、飲み会の席で霧島さんをからかわなければ起こらなかった事態でもあるんだけど。ちょっとややこしい。
 面と向かって私の口から『止めてください』とも言いづらい。誰が正しいとか誰が悪いとかそういうことではなくて、もっと単純に、私には踏み込めない領域だと思うから。石田主任と霧島さん、それに安井課長は仲がいいようだし、部外者が外から見た印象だけで口を挟むのも違うような気がした。復讐だとか仕返しだとか、言葉は物騒に聞こえるけど、三人の間にはそんな物騒ささえ楽しめるような空気があるのかもしれない。
 もちろん、普通に仲良くしている方がごたつかないし簡単なんじゃないかなあとは思うけど。部外者なりに。
 それに――あの時、主任は私のことを心配してくれていた。すごく心配してくれた。もう心配を掛けるのは嫌だから、やっぱり、次の機会はない方がいい。

 だから考えた末、部外者らしい口の挟み方を試みた。
「あの、課長」
 私が声を掛けると、安井課長の視線が流れるように動く。南蛮揚げを食べる手を止め、目の端で私を見る。
「どうかした、小坂さん」
 すごく畏れ多いことを言おうとしているように思えて、一瞬ためらいたくなる。だけど、どうにか続けた。
「私、主任にはもう心配を掛けたくないんです」
「ん?」
「私のことで心配してもらうのは申し訳なくって、なのでその、先日みたいなことはちょっと、主任に悪いかと思いまして……」
 そこまで告げた時、ふと、課長の表情が崩れた。ただ笑ったというだけではなく、愉快だとでも言いたげな顔をした。
「いい子だな、小坂さんは。いっそ珍しいくらいに」
 返された言葉はからかいのトーンを多分に含んでいる。
 ぎくりとした。身を引きたくなった。
「ええと、それほどのものでは……」
「そんないい子の小坂さんに、いい話を教えてあげよう」
 課長は言って、ちらと食堂の入り口を見やる。そこには今のところ、出て行く人たちの姿しかない。反射的にその視線を追った私の耳に、課長の声が聞こえてきた。
「あいつ、もうじきここに来るんだ」
 視線を戻すと、生真面目そうに見える人の、含んだような笑顔が飛び込んでくる。それだけで、誰がここへ来るのかわかってしまった。ますますぎくりとした。
「あれ、もしかして知ってた?」
「ぞ、存じませんでしたけど……」
「うれしいだろ、小坂さん?」
「えっ! いえ、うれしいだなんてそんな!」
 上擦る声。心のうちでは確信していた。
 ばれてる、安井課長にもきっとばれてる。
「多分そろそろ来るよ」
 腕時計を覗く仕種の後で、課長は思わせぶりな物言いをしてみせた。
「俺の隣に小坂さんがいるのを見たら、あいつはどんな反応するだろうな?」
 それは恐らく、あまりいい顔をしないように思う。この間もあれだけ強く言われてしまったし、さすがに怒るまではしないだろうけど、何か注意は受けそうな気がする。安井課長と石田主任は仲良く喧嘩をする間柄みたいだから、ルーキーの身分としてはどちらの顔も立てづらい。
 休憩時間にも主任とお会い出来るのは、事実、うれしいけど。
「まあ、だからって待っていることもないから、食べていたらどうかな。美味しいよ、今日の日替わり」
 課長に促されて初めて、私は計画通りだったAランチを、鶏の南蛮揚げを放ったらかしにしていたことを思い出す。大急ぎで箸を持った。手を合わせる。
「ではその、失礼して、いただきます」
「はい、どうぞ」
 品のいい口調で応じてから、安井課長は低い笑い声を零した。
「不安がらなくても大丈夫だ。この間みたいな真似はしない」
 私はちょうど南蛮揚げに齧りついたところで、相槌一つ打てる状況ではなかった。それでもこっそり隣を盗み見てみる。課長は例によって愉快そうな顔をしている。
「もっと面白くて効果的なやり方がありそうだからな。次の機会はそれを試してみることにしようか」
 それは非常に物騒な言葉に聞こえた。
 何の返答も出来ない私は、あえてAランチに集中した。南蛮揚げはいい具合に甘酸っぱくてひたすらご飯が進んだ。美味しくて、先の物騒な発言への懸念とか不安材料とか、考えないようにするには好都合だった。
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