Tiny garden

教える人と教わる人(8)


拝啓 初秋の候、いかがお過ごしでしょうか。
 平素は何かとお世話になり、誠にありがとうございます。
 また先だってはご連絡先を教えていただき、心より御礼申し上げます。
 早速ですが、当方の連絡先をこのメールに付記いたします。もしよろしければアドレス帳の末席にでも加えていただけると幸いです。
 今後ともご指導ご鞭撻くださるようお願いいたします。
 九月とは言え、残暑が続いております。どうぞお気をつけくださいませ。 敬具


 こんなメールを送った十分後、主任からは電話が掛かってきた。
『おい小坂、今のメールは何だ』
 笑いを含んだ主任の声を、私用の携帯電話から聞く。初めての、勤務時間外の通話。しかもお互い社用の携帯電話ではないという状況。けれど幸せを噛み締める余裕もなく、私は自分の部屋にいながら姿勢を正す。
「ええと、あの、どこかおかしかったでしょうか」
『おかしい。おかし過ぎて散々笑った。そして笑った後でむしろ怒りが込み上げてきた』
「わあ、す、すみませんっ!」
 目上の方、しかも上司へのメールなんて慣れないものだ。そこはまさにビジネスマナーの出番だろう。そう思った私はマナー本と首っ引きで主任へのメール文面を捻り出した。考えるだけで一時間、推敲には更に一時間掛かった。なのにその結果、主任の怒りを買ったのではどうしようもない。へこむ。
「失礼があったならお詫びして修正します!」
 すかさず告げると、電話越しに溜息が聞こえた。
『失礼? まあ……ある意味失礼ではあるよな』
「どの辺りがでしょう」
『全部』
 にべもなく主任が答える。そして、こう続けた。
『小坂、今回のは仕事のメールじゃないんだからな。こんなに畏まってどうすんだか。お前は普段からこんなメールばかり送ってんのか?』
「い、いえ、そんなことはありません。例えば学生時代の友人には普通に……」
『じゃあ俺にもそういう風に送れよ。こんな扱いじゃかえって傷つく』
「でも、失礼になりませんか? 主任は私の上司で、日頃から大変お世話になっている方なのに」
 単に立場上やむを得ず謙っているのではなくて、私は主任を尊敬してもいるし、日頃のご指導に感謝もしている。その気持ちを表すのに、友人に宛てるのと同じようなメールでは失礼だと思った。たとえ勤務時間外でもその気持ちは忘れたくなかったし、実際忘れられない。
 だけど、主任の考え方は私とは違うようだ。
『何の為にこのアドレス教えたと思ってる』
 噛みつくように言われた。
『退勤後まで上司と部下でいるつもりでじゃないんだぞ。公私の区別をつける為だ。誰もビジネスマナーに則ったメールを寄越せなんて言ってない』
 ふん、と鼻を鳴らすように聞こえて、それから、
『大体何だよ、いかがお過ごしでしょうかって。毎日会ってるだろ! 今日も顔合わせただろ!』
「お、おっしゃる通りです……」
 私は電話を持ったまま項垂れた。まさか最初の通話で注意を受けるとは思わなかった。
「じゃあ、次回からはビジネスマナー抜きで、略式の文面でお送りしようと思います」
『普通でいいからな、普通で』
「はい」
 石田主任が相手なら、それが一番難しい。
 だけど、畏まることが失礼に当たるなら、やっぱり改めなくてはいけないと思う。次はどんな文面にしようか、今から悩む。礼を失しない程度にくだけた、普通の、でも日頃お世話になっている方へのメール文。難しい。
『いまいち、わかってる感じがしないな』
 呆れているらしい口調の主任。
『今日言っただろ。お前を甘やかして、公私混同と思われるのも困るって』
「はい。うかがいました」
『お前がどういう性格かはおおよそわかってる。でもわかっていようがいまいが、お前を叱らなくちゃならない時は叱るし、誉める時もえこひいきにならないよう、皆の目を気にして適度に誉める。なるべく、そうしたいと思う』
 私は、主任に聞こえないようにこっそりと、息をつく。何だか心臓がどきどきしてきた。
『お前を叱るのも、適度に誉めるのも俺の仕事だ』
 主任の声が次第に柔らかく、耳に溶けるようになっていく。
『でも俺は、ミスをして落ち込んでる時のお前を慰めるのも、仕事が上手くいった時に誰よりも一番誉めてやるのも、俺の仕事にしたい』
 むしろ、聞いている私の方が溶けてしまいそうだった。
 こんな言葉を賜っていて、本当にいいんだろうか。私だって主任に慰めていただいたり、誉めていただいたりしたらうれしい。もちろんただの願望だけど、でもそんな機会があったらすごくうれしい。
『今日のことで余計にそう思った。俺はお前を叱るばかりで、落ち込んでるお前を慰める役割を、他の人間に攫われちゃ堪らない。だから両方俺の仕事ってことにする』
 そこで主任は笑った。どことなく、得意げに。
『だからこその、私用の連絡先だ。メールにしろ通話にしろ、この電話でやり取りする時は勤務時間外、お前を甘やかそうが何をしようが公私混同には当たらないだろ。他の人間に見咎められて、あれこれ言われる心配もまずないだろうしな』
「主任……」
 私は呼びかけたけど、後に言葉が続かなかった。甘やかされたい訳じゃない。でも、仕事を離れたところで話が出来たら、幸せだと思う。職場で一緒に勤務をするだけではわからないこと、見えてこないこともたくさんあるから。今日の、私を叱ってくださった時の主任のお気持ちだって、私一人では絶対に気づけなかった。
 以前、主任に言われた。私は視野狭窄だって。事実その通りで、私は大局的に物事を見るのが苦手な方だと思う。そういうものの見方を、公私の使い分けをすることで可能に出来たらいい。
『本当は、その呼び方も止めさせたいんだがな。勤務時間外くらいは』
 主任に言われて、私は一瞬戸惑った。
「え?」
『だから、俺を主任って呼ぶのを。無理だろうけど』
「――む、無理ですっ」
 それはさすがに。だって主任のことを主任って呼ばないなら、一体何とお呼びすればいいんだろう。お名前では無理。絶対無理。石田さん、でも無理。
 まごつく私をよそに、電話越しには愉快そうな声がする。
『だろうと思ったよ。まあ、それはそのうちにな』
「そのうちにって……」
 無理なのに。何年掛けてもこればかりは慣れる気がしない。
『とにかく、お前も連絡寄越せ。今日みたいに安井の誘いに乗るくらいなら、俺を頼れ』
 力強い言葉が後に続き、私は反論ごと息を呑む。
 頼れ、と言い切ることの出来る人が、とても素敵だと思う。
『上司としては、これからもお前を叱るだろうし、時々厳しいことも言う。この先のお前の働き次第では、始末書の書き方だって仕込まなきゃならないかもしれない。なるべくそうならないようにして欲しい、でも、やむを得ずそういう事態に追い込まれた時も、長々とは引き摺るな』
 主任は今、どんな面持ちでいるんだろう。
 私はまだ、石田主任のことをよく知らない。どんな部屋で暮らしているのか、退勤後はどのように過ごしでいるのか。そういう時間に、一体どんなことを考えているのか。
『お前の辛さは、勤務時間外の俺が引き受ける。その時はいくらでも慰めてやるし、必要なら一緒に愚痴ってもやるよ。上司ががみがみ口うるさいとか、やたらつり目で目つきが悪いとか、一緒になって言ってやるから』
 どんな様子で、どんな心境で私に、これほどまでに優しい言葉をくれるんだろう。
 そういう疑問もいつか、解ける日が来るだろうか。
 一緒の時間を過ごしていたら。勤務中も勤務時間外も、主任と同じ時を共有していられたら。
「ありがとうございます、主任」
 私は電話なのに、ついつい深々とお辞儀をしてしまった。でも、主任からは見えなくても、そのくらいの気持ちは込めたかった。目の前にいるのと同じようにしたかった。
 それから、心底からの思いを言い足した。
「やっぱり主任は、すごく優しい方だと思います」
 安井課長とどちらが、とは言えない。言えないけど、私にとって主任の優しさは特別だ。うれしくて、幸せで、そして絶対にご恩を返そうという気持ちになる。お礼の言葉だけじゃ事足りない。絶対に、立派な営業課の一員になって、ルーキー卒業もしっかりと決めて、そして主任に恩返しがしたい。
『優しい、か。こっちとしては、優しさばかりじゃないつもりなんだがな』
 不意に、主任がそう言った。
 意味を掴みかねた私がきょとんとすれば、間を置かずに言葉が続いた。
『小坂、前に言っただろ。両立の仕方を教えてやるって。覚えてるか?』
「え、ええと、両立って」
 ――仕事と恋愛の両立。
 そのこと、だろうか。確かに主任は、そんな風におっしゃっていたけど。
『だから、これがそのやり方の初手だ』
 主任が言った。
『これも忘れるなよ、小坂。ちゃんと覚えとけ』
「……あの」
 息が詰まった。
 まさか石田主任に、両立の仕方を、直々に教わるとは思いもしなかった。だって私からすれば主任は、『当の』がつく人だ。当の主任が私に教えてくださるというのは。
「その……」
 私はうろたえるばかりで、上手くお礼も告げられなかった。それが十分にばれてしまったのか、ちょっと笑われてしまった。
『昨日は寝てないって話だったよな。なるべく早く寝ろよ、そして明日もまた頑張れ』
「は、はい。頑張りますっ」
 やっとの思いで答えたら、
『おやすみ、小坂』
 耳元でそんな挨拶をされて、危うく意識が遠退きかけた。慌てておやすみなさいと応じたものの、主任にはより一層笑われてしまった。

 その後は当然、ちっとも寝つけない夜を過ごした。
 両立の初手で既につまずいたような気がする。でも、落ち込んでなんかいられない。主任の為にも、自分自身の為にも、明日は笑って挨拶をしよう、絶対に。たとえ睡眠不足でも。
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