Tiny garden

現実家と夢想家(2)

 数分後、石田主任は本当に現れた。
 丼を乗せたトレーを手に、食堂の奥まで真っ直ぐにやってきた。このテーブルの傍まで近づいた時、安井課長の隣に私がいるのを認めたらしい。にわかに眉を顰められた。

「遅かったな、石田」
 課長が楽しげに声を掛ける。
 それで主任は溜息をつき、
「ちょうど霧島が営業から戻ってきてな、ちょっと話してた」
 答えた後で、私の真向かいの席に着いた。目が合ってどきっとしたのも束の間、訝しそうな顔をされる。
「で、小坂も戻ってきてたのか? 午後もまだ回るんだろ?」
「そうなんです。でもお昼ご飯は社食にしようかなって思いまして」
 南蛮揚げがどうしても食べたかった、という点については伏せておいた。
「外で食べるよりはいいよな、値段が手頃で」
 そう言った主任の、今日のお昼ご飯はきつねうどんだった。お魚じゃないのは珍しいなとふと思う。
「でも一旦戻ってきて、また出てくのは面倒じゃないか?」
「いえ、平気です。午後も頑張ります!」
「そういう妙なバイタリティはあるよな、お前。この間みたいに腹鳴らさないようしっかり食べろよ」
 主任がにやっとする。数日前の恥ずかしい記憶がよみがえり、私は少し俯いた。
 すかさず隣で課長が口を開く。
「石田も素直じゃないな。一緒の休憩時間でうれしいよ、くらい言えばいいのに」
「小坂はともかく、安井がいるからうれしくないんだよ」
 たちまち主任が応戦して、テーブルを挟んで斜めの睨み合いが始まる。睨み合いと言ってももちろん、ちっとも険悪ではない様子だけど。
 私は当然黙っていた。主任が私と一緒でうれしいなんて思ってくれてたらいいなあ、とこっそり思いつつ。部下としてでもいいから、一緒にいて楽しいって思われたい。笑われたっていいから。
「邪魔したなら悪かった。でも俺が小坂さんを誘っておいたんだから、お膳立てには感謝してもらいたいな」
 そんな言葉の後で安井課長が笑い、
「そもそも何でお前が小坂を隣に座らせてんだよ。お膳立てなんて言うなら隣を空けとけ」
 間髪入れずに石田主任が噛みつく。
「向かいの方がいいじゃないか、見つめ合えるから」
 更に応じた課長が、早くも置いてけぼりを食らい始めていた私を見る。隣に座って目が合うと、距離の近さを感じて緊張してくる。思わず姿勢を正す私に課長は言った。
「小坂さん、君の上司はどうしようもないな。俺の小さな親切に礼さえ言わないんだから」
「え、ええと……」
 私は言葉に詰まり、今度は真向かいの主任に言われた。
「小坂、安井の話なんて聞く耳持たなくていいぞ。どうせこいつはデタラメしか言わない」
「そんなことは……」
 否定も肯定もしづらいこの状況が厳しい。どちらの顔も立てられず、かと言って愛想笑いで誤魔化すことも出来ず、私はとりあえず俯いた。逃げを打ったような気分になって、かえって罪悪感が増す。
「ほら見ろ、石田が乱暴な口を利くから小坂さんが怖がっちゃったじゃないか」
「困らせてるのはそっちだろ。いい加減なことばかり言いやがって」
 お二人のやり取りはまだ続いている。怖がってはいないけど、困ると言うならこの状況にこそ困っている。やっぱり仲良くしていてくれる方がいいなと思う。こういう応酬、新人にはどうしても口を挟みにくい。
「ま、俺はもうすぐ済むから、直に退散してやるよ」
 肩を竦めた安井課長は、既にAランチの三分の二を片付けていた。その後も箸を動かしながら、主任へと水を向ける。
「ところで、霧島は何て言ってた?」
 問われた時、主任はほんの少し真面目な顔をしてみせた。
「ああ、例の件は明日でいいってよ。今なら部屋もきれいなんだと」
「そうか。じゃあ明日の夜決行だな」
「あいつの家に行くのも久し振りだ。今回はつまみの心配がなくていいな」
 主任が言葉とは裏腹に、鼻の頭へ皺を寄せている。
 会話から察するに、明日の夜、何かするんだろうか。明日は土曜日だからかな。主任と課長と、それから霧島さんと三人で、かな。
 怪訝に思っていれば、課長が私へ説明を添えてくれた。
「明日は俺と石田とで、霧島の部屋に押しかける予定だったんだ。品よく言えば食事会ってところかな」
「そうなんですか、いいですね!」
 お食事会かあ、いいな、すごく楽しそう。主任と課長と霧島さん、三人でご飯作ったり、食べたり、騒いだりとかするんだろうか。三人一緒にいるところはまだ見たことがなかったけど、何となく想像出来てしまう。
 だから、ここぞとばかりに言っておいた。
「皆さんってすごく仲がよろしいんですね」
「付き合いだけは長いからな」
 と、確かに素直じゃないのかもしれない主任の言葉。それに合わせて課長が語を継ぐ。
「昔はよく行ってたんだけどな、最近はほら、霧島に彼女が出来たから。裏切り者と仲良くする訳にはいかないだろ? だから控えてたんだよ」
「う、裏切り?」
 また物騒な言葉が出てきた。声に詰まる私へ、主任と課長は口々に、
「そりゃもう重大な裏切りだ。何たってあいつは長谷さんに手を出したんだからな」
「長谷さんは当時、営業課のアイドルだったんだよ。それをまあよくもぬけぬけと」
「そのくせ結婚に漕ぎ着けるまで時間掛かり過ぎってところがな。あの甲斐性なしめ」
「全く、長谷さんも見る目がない。霧島のどこがよかったんだろうな」
 お二人の見事な息の合い方に、私は心の中でだけ呟いた。
 ――霧島さん、大変そうだなあ。
 皆のアイドルとお付き合いするのって、さぞかし気苦労も多いんだろうな。私からすると、霧島さんと長谷さんはいかにもお似合いって感じがするのに。
「小坂さんも、付き合う相手はよく吟味した方がいいよ」
 安井課長が笑いながら告げてくる。いきなり話を振られて、戸惑った。
「え、わ、私ですか?」
「そう。甘い言葉に惑わされず、現実的な目で相手を見ておくようにな。口の上手い狼さんが君を狙っているかもしれない」
「あ、でも、私はまだそういうのは!」
 慌てて否定した。付き合う相手を吟味するとか、そもそもそういう段階にもない。仕事にもあまり慣れていないし、今はまだ、好きな人もいるし。誰かとお付き合いするなんて事態、考えてもいなかった。
「まだ考えてない? それなら都合がいいな」
 そこで課長はにっこりと笑み、横目で主任の方を見た。
「どうも見た感じ、小坂さんは恋に恋する女の子って風だからな。少しは石田の現実を見て、幻滅するなり覚悟するなりしておいた方がいい」
「えっ!?」
 二重の意味で声が出た。幻滅するとか覚悟するとかって、どういう意味でしょうか。いやむしろ、そこで主任の名前が出るって言うのは……もうこの上なくばればれってことなんでしょうか!
「余計なこと言うなよ馬鹿」
 主任は否定もせず、低く呻いた。それで課長は主任へと向き直り、続ける。
「だってかわいそうじゃないか。小坂さんが石田みたいなのに誑かされてしまうのかと思うと」
「誑かしてない。どさくさに紛れて人を貶すな」
「そう言うけど一歩間違えば犯罪だ。今時こんなに初心な子、滅多にいない」
 課長がふっと笑うから、私は何だか居た堪れない気持ちにすらなる。
 初心、かなあ。一応これでも二十三だし、そんなに子どもなつもりではないんだけどな。それはもちろん、石田主任からすればずっと子どもに見えてしまうのかもしれないけど、でも成人してるし、そこまで幼いつもりもない。多分。人から見たら違うのかもなって気もしなくはないけど……。
 そんなことをぐるぐる考えていたら、
「小坂さんは一昔前の女学生って印象だな。好きな人の写真を定期入れにでもしまっておきそうなタイプ」
「――ええっ!?」
 聞こえてきた安井課長のお言葉に、またしても声が出た。
 よりにもよってなぜそんなピンポイントの指摘を。しかも携帯電話の待ち受けとは言わない辺りが何と言うか的確過ぎた。あまりのご明察に、髪が逆立つくらいの衝撃を受けた。
 氷のように固まる私に、課長は一度怪訝な顔をした。少ししてから目を眇め、探る口調で尋ねてきた。
「もしかして、図星?」
「……あの、その」
 言えません。ご本人が、テーブルを挟んだ真向かいにいるから。いやもうばればれだろうけど、それでも言えない。顔から火が出そうだ。
 俯いて黙り込んでいると、やがて隣の席から肩を叩かれた。
「ごちそうさま」
 愉快そうな一言を残し、安井課長が立ち上がる。持ち上げられたトレーの上、お皿はいつの間にか空になっていた。

 そして六人掛けのテーブルには、私と主任と、気まずい空気だけが留まった。
 恐らく、課長の姿が見えなくなったと思しきタイミングで、真向かいから主任の声がした。
「まさかと思うが」
 呆れたような、それでいて笑いを堪えているようでもある声だった。
「本当にやってんのか、定期入れ」
「いえ、その……はい」
 私は観念して頷く。未だ顔は上げられない。
 すると主任がこう継いだ。
「見せてみろ」
 ご本人に言われてしまってはしょうがなかった。私はスーツの内ポケットから愛用のパスケースを抜き取り、俯いたまま腕を伸ばして主任へと差し出した。ケースは直に私の手から消え、僅かな間の後で唸るような言葉が聞こえてきた。
「写真ってしかもこれかよ」
「すみません、でも、それしかなくて」
 パスケースの中にしまい込んでいたのは、先週いただいたばかりの名刺。ありがたいことに写真つきだったので、私は後生大事にするつもりで持ち歩いていた。好きな人の写真を肌身離さず持ち歩けるなんて幸せなことだから。
「ベタにも程がある」
 石田主任は私のふるまいを笑い声で評してから、少し呆れた様子で言い添えた。
「そんなことしてる暇があったら、たまにはお前からメールを寄越せ」
「う……おっしゃる通りです」
 返す言葉もない。私は戻ってきたパスケースを内ポケットにしまった後、Aランチに再び集中し始めた。気まずさは最早誤魔化しようもなく、南蛮揚げはご飯が進んだ。顔を上げられない分、ひたすら黙々と食べ続けた。
 主任にはどう思われただろう。少しの間、笑われていたのは確かだ。

 一人での営業回りを始めてから、そして石田主任に名刺をいただいてから十日が過ぎた。
 仕事の方は割と順調で、でも両立には全然、程遠い状況だった。
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