Tiny garden

三年と二十三年(7)

「――あの」
 いきなり言葉がもつれた。
 酔いのせいじゃない。今更怯んでなんかいない。言わなくちゃいけない。
 言える。
「主任は、その」
 呼吸を置いた後はためらわずに、
「私の好きな人がどなたかを、もうご存知なんですよね?」
 質問じゃなくて、確認をした。

 ばればれとか言う段階じゃなかった。
 主任に対して『どなたか』と言った時点で、自白しているようなものだった。
 でも言い直したってそれこそ今更でどうなる訳でもなく、訂正したところでばればれなんだから意味もない。それに、確証が既にあった。
 さっき、主任が私に尋ねた。
 ――俺は構わないけど、お前、それ聞いて平気なのか。
 何よりの証拠だった。私が平気ではいられないとわかっているんだ。主任はもう、そのことを知っている。だから確認しておきたかった。
 私が、主任を好きでいていいのか、どうか。

 瞬き一つ分の間があった。
 たったそれだけがいやに長く感じられて、私は喉を鳴らす。その隙に石田主任はちらと笑った。
「知ってる」
 澱みない声で、聞き違いようもないくらいはっきりと答えた。
「それも、見てりゃわかる」
 私は一旦俯いた。心の中では思う。――やっぱり、そうなんだ。
 ばればれだと前に言われていた。うろたえるような事実じゃない。むしろ気づかれてしまった自分自身を省みるべきだ。七つも年上の、仕事でお世話になっている人に対して、あからさまな態度を晒し続けてきた私が悪い。本当なら、密やかに想っていなければならなかった。
 ここまで来たらもう後戻りは出来ない。
 ばれているなら、せめて。
「私、ご迷惑は掛けないようにします」
 面を上げて、告げる。
 視線がぶつかった瞬間、主任は苦笑いしていた。私の言葉も困ったような顔で受け取った。
「迷惑だなんて言ってない。仕事に支障がなければそれでいい」
「それはもちろんです」
 大きく頷く。当然だった。社会人の本分は仕事、業務第一だ。私のやけっぱちみたいな恋心がそれを阻害するようなことは決してあってはならないし、主任のお仕事を邪魔するようでもいけない。
 するなら、そういう恋にしなくちゃいけない。
「私、思ってたんです」
 もう言葉はもつれなかった。
「主任には仕事でも大変お世話になっていますから、それ以外のことでご負担をお掛けするのはもってのほかです」
 それどころか、堰を切ったように溢れた。
「ご恩を返さなくちゃいけないと思います。その為にはルーキーとしての一年を立派に、しっかりと勤め上げて、早く一人前の社会人になって、主任や営業課の皆さんのお手を煩わせるようなことのないようにならなくちゃと思います。片想いをするよりも、仕事の方を優先すべきだと、そう思っています」
 膝の上で両手を握り合わせる。そうしていないと、自然と声が大きくなる。穏やかなカフェバーで、私も出来るだけ空気を波立たせないように、今の気持ちを、決意を伝えたかった。
「だから、この一年は仕事に専念するつもりです」
 もしかするとそれは、すごく生意気な発言なのかもしれない。
 まだろくに仕事の出来ない奴が口にするのは、すごく失礼なのかもしれない。
 でも、あえてそう言いたかった。声に出し、言葉にすることで、自分の目標をはっきりと定めたかった。
 今は九月。ルーキーイヤーの半分も来ていない。
「その代わり、この一年が終わったら。ルーキーイヤーを無事に終わらせることが出来て、私がせめて、一人でもきちんと仕事が出来るようになったら――」
 いつの間にか、主任が笑うのを止めていた。
 気遣わしげな顔をしていた。真剣に、案じてくれているのがわかる表情。私に以前、焦るなと言ってくださった時と同じだった。
 だから、焦らないでいこうと、思った。
「――その時は、私の気持ちを聞いていただけますか」
 胸が苦しくなって、二呼吸置いた。続ける。
「耳を傾けてくださるだけでいいです。本当に、聞いていただけたらそれだけでいいんです。主任にはご迷惑もご負担もお掛けしないようにします」
 もう一つ、続ける。
「もし、もしもです。その時、主任に好きな人とか、あるいはあの、お付き合いしている人が……いらっしゃったら。私は、その時はすっぱり諦めます」
 言うほど容易いことではないだろうけど、それでも。
「そうじゃなかったら、でいいです。主任に、私の些細な打ち明け話を聞くだけの余裕がおありだったらでいいんです。その時はどうかお願いします」
 もし叶うなら伝えたい。
「それまでは言いません。言わないようにします。主任も、お気になさらないでください」
 今はまだ口にはしない。
 ばればれでも、見透かされていても、絶対に。

 主任は、じっと私を見つめていた。
 一目でどう、と判断することの出来ない顔つきだった。気遣わしげでもあったし、呆れているようでもあったし、今すぐ笑い出したいようでもあった。唇を真一文字にきつく結んで、しばらく黙り込んでいた。
 眼差しだけは鋭く、私を捉え続けていた。つり目がちで、時々必要以上に鋭利な印象を受けるけど、すごくきれいな形をしていると思う。真っ直ぐに人を見ることの出来る目。様々な局面を潜り抜けてきた大人の目だ。
 結んだ唇が開かれたのは、握り合わせた私の両手から、血の気が引き始めた頃だった。
「それで、小坂」
 主任はまず、尋ねてきた。
「お前のルーキーイヤーはいつ終わるんだ。年度末か?」
「はい」
 年が明けて、三月。それまでは何があろうとルーキーのままだ。頷いた。
「まだ半年以上あるぞ。そんなに待てると思ってんのか」
 途端に噛みつくような言葉が飛んでくる。それで私もあたふたしながら言い添えた。
「いえあの、全然、待っていただくことなんてないです! 主任は気にせずにいらしてください。たとえその間に、主任に好きな人が出来ても、私は――な、何とかしますからっ。大丈夫です!」
 何とかって何だと自分でも思った。でもそのくらいしかフォローの言葉が浮かばなかった。とにかく、主任には気にして欲しくなかった。たかが新人の片想いくらいで、心煩わされたりはしないで欲しい。勝手な言い分だろうけど、そう思う。
「大丈夫な訳あるか」
 しかめっつらになった主任が、グラスごと吹き飛びそうな溜息をついた。低い声で続ける。
「なるほどな。小坂に二十三年間彼氏がいなかった理由、おぼろげにわかってきた」
 理由?
 びくりとする私に、その口から理由らしき内容が告げられる。
 曰く、
「その融通の利かない視野狭窄ぶりで、今までに何人の男を袖にしてきたんだ、お前は」
「袖に? いえ、そんな、私はそういうことは決して」
「そりゃ当の本人は気づいてないだろうけどな、お前なら確実にやってる。絶対に数多の男心を踏みにじってきてる。断言してもいい」
 主任の口ぶりだとまるで私が悪い女のようだけど、本当にそんなことはなかった。男心を踏みにじる機会もなかったくらいだ。だから誤解だと思う。と言うか、急にそんなことを言われても困る。
 私はさっきまでとても真面目な話をしていたのだし。
「言っとくけどな、俺は今までの男どもとは違うぞ」
 声を低めたままで主任は言った。
 その唇に、カフェバーの雰囲気にはそぐわない挑戦的な笑みが浮かぶ。心臓がどきどき言い出す。更に言葉は続いた。早口気味にまくし立てられた。
「のほほんと三月を迎えられると思ったら大間違いだ。お前に『待て』なんて誰がさせるか。仕事でもそれ以外でも徹底的に教え込んで、その視野の狭さを矯正してやる」
 別に、のほほんと年度末まで過ごすつもりはないのに。仕事を頑張りますってちゃんと言ったんだけどなあ。言い方が悪かったんだろうか。私は瞬きを繰り返す。
 そして主任が、ようやく答えを口にする。
「それでもいいなら、お前の気持ちだろうと何だろうとしっかり聞いてやるよ。但し、俺が黙って待ってるとは思うな。こっちは悠長なことはしないからな」
 何だか、意識のずれを感じた。私はこの上なく真剣な告白、の予告をしたつもりでいたのに、主任の言い方はまるで私が果たし状でも叩きつけたみたいだ。ありふれたラブロマンスがいきなり荒唐無稽、ルール無用のハードボイルドアクションに転じたような違和感。
 答えに対する返事は、もちろん決まっているけど。
「構いません。よろしくお願いします!」
 背筋を伸ばして答えた。――いろいろと腑に落ちない点のある答えだけど、とにかく、待っていただく必要はない。それだけ伝わればよかった。そして、私の気持ちを聞いてくれるとも言ってくださったのだし。
 多分、結果オーライだと思う。
「よし」
 主任はにやりとして、それからグラスの中に僅かに残っていたコーンフレークを猛然と口に運んだ。あっという間に完璧に空になり、細長いスプーンは紙ナプキンの上に置かれ、主任の大きな手が卓上の伝票を拾う。
「今日は帰るぞ、小坂」
「あ、はい!」
 私も慌ててグラスの中身を片した。それから立ち上がり、会計レジの方向へ歩き出した『好きな人』の背中を追い駆ける。
 これから三月まで、ずっと追い駆けようと思う。
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