Tiny garden

教える人と教わる人(1)

 朝からがちがちに緊張していた。
 武者震いを通り越して、もう既に膝が笑っている。頭は妙に冴えていて、これから起こり得るさまざまな事態について、ともすればネガティブな方向への想像を巡らせてしまう。動悸が激しく、呼吸さえ苦しかった。
 九月も半ばで、ようやく暑さも和らいできた頃。なのにやけに汗をかいている。それも手のひらにだけ。

 出勤してすぐ、営業課で顔を合わせた石田主任に聞かれた。
「小坂、お前大丈夫か」
「だっ、大丈夫です!」
 すぐに威勢よく答えたものの、その声さえ不格好に上擦っている。きっと内心が顔に出ているんだろう。平然としていられない自分が情けない。
 主任は私の反応を見るなり、きゅっと眉を顰めた。
「緊張してますって顔に書いてある感じだ」
「もしかしたらそうかもしれません」
「しかもあんまり寝てないんじゃないか?」
「あんまりと言いますか、あの、実はほとんど……」
 昨日の夜はまるで眠れなかった。明け方にどうにかうとうと出来たくらい。それまでは緊張のあまり目が冴えてしまって、ちょっとした運動並みに寝返りを繰り返したりもした。一晩でかなりカロリーを消費したような気がする。疲れた。
「ああ、失敗したな」
 主任が溜息をつく。少し悔やんでいるような顔で続けた。
「昨日言うか今日言うか、実はちょっと迷ったんだよな。今朝抜き打ちでってのも考えたんだが、小坂にも心の準備が必要かとも思ってな」
 気を配ってくださったことはとてもうれしい。私は感謝を込めて、声を張り上げる。
「お蔭様で、心の準備だけは現在も継続中です!」
「まだ準備中かよ」
 すかさず突っ込まれたけど、実際その通り。この心の準備は永遠に終わらないような気がする――現実にタイムリミットが来ない限り。
 そしてタイムリミットが来ないはずもない。もうじき始業時間だ。朝礼が終わればいよいよ、私にとっての初陣がやってくる。
「かえって緊張させただけだったか? もしかして」
 苦笑いの主任が首を捻って、
「やっぱ抜き打ちで言ってやった方がよかったかな」
 何だか済まなそうにしている。
 私としては、不意打ちみたいに言われるよりは前もって言ってくださった方がありがたいだろうなと思う。今朝いきなり宣告されていたら、緊張度合いもこんなものでは済まなかったはず。だから昨日のうちに言っていただけてよかった、と思いたい。
「でもお蔭で、心の準備以外にもいろいろ準備が出来ました」
 背筋を伸ばし、私は石田主任に告げる。
「寝つけなかった時間を利用して、ビジネスのマナーについての本を再読したんです。ですから今日は、粗相のないように頑張ります!」
 それで主任が何とも言えない表情になった。不安の中でも笑いを堪えようとしているみたいな、微妙に引き攣った顔。
「何だか俺の方が緊張してきた」
「え、そんな、主任にまで緊張していただくようなことは!」
「するだろ普通に。目の前でそこまでがちがちになられたらな」
 そう言って肩を竦める主任は、やっぱりとても優しい方だ。
 だから今回も、前もって私に教えてくださったんだろう。

 昨日の夜、終業後に石田主任に呼び止められ、その場で私は告げられた。
 翌日――つまり今日から、一人で営業先回りをするように、と。
 九月の半ば。入社してから半年になろうかという頃で、時期的にもそろそろ、一人前にならなくてはいけない頃合だ。しばらくは得意先を回って顔を覚えてもらうことから始め、そこから徐々に新規の注文を貰ってきたり、新規の営業先を開拓出来るようになるのが今後の目標。面通しだけなら以前、主任と一緒にあちらこちらを回ってきたので、今日は改めてのご挨拶とご機嫌伺いがメインの巡回になる。
 それでも当然、緊張はする。一人で他社の方と接するのだから、もし失礼なふるまいがあれば、それはそのまま我が社の印象へと直結してしまう。私一人のミスが顧客を失ったり、我が社の信用を傷つけたりするようではいけない。責任は重大だった。
 だから昨夜、帰宅後にみっちりとビジネスマナーを頭に叩き込んだ。敬語の使い方から他社を訪ねていく場合の礼儀作法などなど、これ以上は入らないくらいに繰り返し繰り返して読んだ。寝不足の頭は既にぱんぱんで、まともに回転するかどうかさえ怪しい。それでなくとも日頃からトルク低めの頭なのに。
 でも、失敗は出来ない。初日からミスって主任や皆にご迷惑をお掛けするのは絶対に嫌だった。今日まで散々お世話になった恩返しとしても、ルーキーとしての一年間をきちんと終える為にも。今日の初陣はしっかりやり遂げてみせる!

 タイムリミットがやがて訪れた。
 いつもより短く感じた朝礼の後、いざ出発という時に、霧島さんにも声を掛けていただいた。
「頑張ってくださいね、小坂さん」
「は、はいっ! 頑張ります!」
 ドアの前、直立不動で答えると、気遣わしげな笑い方をされる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。新人さんの挨拶回りに手厳しく当たる人なんてそうそういませんから」
 それはこの営業課でも、社内でも同じことだった。皆、新人にはすごく優しい。もちろん甘いばかりではなくて、たるんでいればすかさず注意もされるけど、ルーキーの特権は確かにあるんだなと日々思っている。
 私だっていつまでもルーキーでいられる訳じゃない。皆の優しさに甘えてばかりもいられない。そう考えると、やっぱりどうしても緊張してしまう訳だけど。プレッシャーだってあった。来年の三月までに、私はどうしても立派な一人前の社会人になっていたかった。
「いざとなったら『女は愛嬌』だ」
 とは、石田主任のお言葉。
「にっちもさっちもいかなくなったら、とりあえず笑って乗り切れ。お前なら何とかなる」
 そうなんだろうか。膠着した状況でへらへらしていたら、かえって信用を損なうんじゃなったりしないかな。笑い方にもよるのかな。主任のお言葉だし、もしかすると本当に何とかなるのかもしれない――笑顔大作戦は、営業でも果たして通用するだろうか。今日はそれの見極め時でもある。
 私はあれこれ考えた後で、深く頷いた。
「お言葉、心に留めておきます!」
 にっちもさっちもいかなくなったら、笑おう。なるべく真面目に。
「……と言いつつ、もう既に顔が笑ってないんだよな」
 苦笑する主任が私に近づいてきて、目の前に立つ。
「ほら、笑えって」
 いきなり頬っぺたをつつかれた。
「わあっ」
 とっさに声が出た。
 無理無理絶対無理。そんなことされると余計に笑えません。今、心拍数の桁が飛んだ。面積にしてほんの一平方センチメートル前後の接触にも思い切り動揺した。それでも、主任の人差し指温かいな……なんて一瞬の感覚を反芻する余裕はあったりする。勤務中だって言うのに!
 大体、主任だって私の気持ちをもうご存知なのに、ものすごく気安く接してくるからうろたえたくもなる。そもそも石田主任が私に対してフランクにふるまってくださるのは以前からのこと。つまるところ、主任の態度は何一つ変化がなかった。私の気持ちを知っていようと、私が将来的に告白します、と予告をしていようと。
 これも大人の余裕って奴なのかもしれない。私も、大人になりたい。
 意識まで吹っ飛びかけた私を、霧島さんの言葉がぐいと引き戻した。
「何だか先輩の方が緊張してません?」
「してるよ。当然だ」
 主任が即答すれば、霧島さんは眼鏡の端から主任を見る。少し笑った。
「俺の時もそうでしたよね。初めての営業に出た日は、先輩の方がそわそわしてましたっけ」
「しょうがないだろ。お前にも小坂にも、営業についてのあれこれを教えてやったのは俺だし。何かあったら俺の責任だ。そりゃ気にもなる」
 本当に気が気じゃない様子で答える主任。そのお言葉を聞いたら余計に失敗なんて出来ない。姿勢を正す私に、主任が視線を向けてくる。
「そういう訳だから小坂、途中で一回は連絡寄越せよ。昼飯食う時でいいから」
「了解です!」
 もう一度頷き、それから私は営業課の皆に向けて、まず挨拶をした。
「それでは、行って来ます!」
 緊張を逃がす為だけに深い息をつき、ドアを開けて廊下へ出る。
 向かう先は駐車場だ。営業先へは社用車で行く。以前、主任に誉めていただいた運転の腕を、今日は慎重に発揮していこうと思う。そしてもちろん、営業先では笑顔と愛嬌を忘れずに。あとビジネスのマナーも忘れずに。当然だけど営業先への最短ルートも記憶の中から掘り出さなくてはならない。それと、途中で一度は主任に連絡を入れること。
 覚えておくべき内容の多さに、歩きながらちょっと眩暈がした。
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