Tiny garden

三年と二十三年(6)

 入店してから、大分時間が経ったように思う。
 カフェバーの閉店時刻は二十三時。時計を見る余裕はなくて、今が何時くらいなのかはわからない。お客さんの出入りが少ない店だった。皆、それほどたくさんの注文をしていないのに、名残を惜しむみたいに同じテーブルにずっといる。
 カップル率の高い店内。皆がテーブル越しの距離で見つめ合っている。バックミュージックには私の知らない歌が延々と流れ続けている。

 石田主任も私を見ていた。
 もっともこれは恋人同士みたいに見つめているのとは違って、もう少し現実的な視線だった。
「好みを聞かれると答えにくいな」
 考え事をしていた。私の質問を理解して、それに適した答えを出そうとしている目つきだった。
 その目が、やがて困り果てたように伏せられる。
「わからん」
 主任がぼそりと言う。次いで額を手のひらで押さえて、
「好みなんて真剣に考えたことがない。あるにはあるけど、一般的過ぎてつまらない答えになりそうだ」
 ようやく、溜息交じりの答えを絞り出した。
「強いて言うなら、明るくて、ちゃんと挨拶の出来る奴がいいと思う――それは女だけじゃなくて、男でもそうだけどな」
 そこまで話して、主任は顔を顰める。かなり悩ませてしまったみたいで申し訳なくなった。しかもどうやら、ご自身で納得いかない答えのようだった。仕種でわかる。不満げに、しきりと首を傾げている。
 それで私も、もう少し踏み込みたくなった。挨拶の出来る人が好きというお気持ちはすごくわかる。でも、もう少し違う意味合いでの答えが聞きたかった。質問の仕方を変えれば、もっと核心に近い答えが貰えるんじゃないかと思った。
「じゃ、じゃあ、もっとお尋ねしますけど」
 そうして、踏み込んでしまった。
「今は、好きな人、いらっしゃいますか」
 聞いたのはそんな問いだった。

 声に出した直後に気づいた。
 恐ろしいことを聞いてしまった。
 聞く前に気づくべきだった。もしも『いる』と言われたらどうする気だったんだろう。もし、これこれこういう相手が好きなんだと具体的な答えを貰ったら、どうするつもりだったんだろう。粉々にされるどころではない。この場で引導を渡されたかった訳でもないのに。
 欲しかった答えはたった一つだ。『いない』と言って欲しかった。そう言ってもらえたら私は、日々の挨拶を怠らずに仕事に励んで、いつかもう一度全力でぶつかろうと思えただろう。ルーキーじゃなくなった日に、はっきり気持ちを告げて、今までと同じように前向きに諦めることが出来ただろう。
 でも、もし主任に好きな人が、現時点でいたら、私にはなす術もなくなる。挨拶を心がけるくらいじゃどうしようもないのはわかっている。一時耳を傾けてもらうことすら出来なくなってしまう。好きな人がいる相手に、告白なんてするのはルール違反だ。私は、私の好きな人には、そういうふるまいをしたくなかった。好きな人のことは想いでも、考え方でも、何もかも大切にして、尊重したいから。
 それでなくてもテーブル越しの距離をありがたがっている現在、事実を受け止められる度胸までは、まだないのに。それをこのルーキーイヤーで身につけていこうと思ったのに。

 答えを待つ間が怖かった。
 奥歯をぎゅっと噛み締め、何を言われてもいいように身構えていた。事と次第によっては泣かない努力も必要だろう。だから集中していた。主任の反応をじっと見守っていた。
 意外にも、主任はそこでちょっと笑った。照れているような、懐かしむような、曖昧に映る苦笑いだった。
「そういう聞き方、久し振りにされたな」
 答えよりも先にそう呟かれて、私は戸惑う。主任は笑んだままで続けた。
「『好きな人がいる』って、そういえばしばらく言ってない。若いうちだけの特権みたいなもんだな、そういう恋愛してられるのは」
「……そう、なんですか?」
 まだ気は抜けないと思いつつ、問い返す声は湯気みたいに頼りない。
「年取ると、悠長なことは言ってられなくなるんだよ。打算的かつ計画的に事を進めたくなるからな。好きな人、なんて無邪気なことを言ってられるのも今のうちだ」
 主任の物言いはまさに大人そのもので、七歳の差を思い切り見せつけられた気がした。今の私には言われたことを美味く飲み込めない。『好きな人』のいない恋愛は、どんなものなのか想像出来なかった。
「おかしい、でしょうか」
 私は恐る恐る尋ねる。
 すぐに、主任はかぶりを振った。
「いや。ただちょっと、小坂が羨ましくなっただけだ。俺にもお前みたいな頃があったんだよな、ってな」
 そう語るからにはきっと、いろんな恋愛をしてきたんだろう。好きな人のいる恋愛をしてきたことだってあったんだろう。三十年も生きていたら、そんなのは当たり前だ。理解はしていても、――何だか無性に心がざわめいた。
「あの、主任は」
 酔いのせいにするにしたって、今日の私は踏み込み過ぎている。でも、宙ぶらりんの気持ちのまま引き下がるのも難しかった。私は主任と比べれば、ずっと子どもじみた恋愛をしている。
「主任は……恋人いない歴、何年ですか」
 だから、そんなことが気になる。尋ねてしまう。
「三年」
 笑いを含んだ、だけど低い声に即答された。さっきのように、考え込むことはまるでなかった。ざわめく心が加速する。言葉が、到底抑え切れなくなる。
「主任の、その時好きだった人って、どんな方なんですか」
 とてつもなく、失礼な質問だと思う。
 上司に聞いていいことじゃないと思う。
 だけど主任は怒らなかった。私を咎めはしなかった。代わりににやっとして、つり目がちな斜めの視線で私を射抜いた。動揺するより先に言われた。
「俺は構わないけど、お前、それ聞いて平気なのか」
 ずばりと言われた。
「聞いてから後悔しないか? そうなら、止めとけ」
 私は息を呑む。心の奥底まで何もかも見抜かれている。
 ばればれだと笑われるだけはあった。
 後には何も続かない。俯くことさえ出来ない。丸テーブルの向こうから眼差しを据えられて、僅かにも逸らせなかった。
「さっきの質問に答えるなら」
 唐突に、主任が語を継いできた。さっき、がいつか把握出来ていない。どちらにしても言葉の続きは聞こえてくる。
「お前の言うような、『好きな人』はいない」
 欲しかった答えが返ってきた。
 なのに、喜べなかった。
「俺はお前みたいに無邪気なことは言ってられない。今更まどろっこしい恋愛はしたくないし、好きな人なんて曖昧な対象を作ってる暇があったらとっとと行動に出る。余計なことだってあれこれ考える。打算的にも、計画的にもな。はっきり言えば、きれいな恋愛が出来る歳じゃない」
 石田主任の答えに、私は何度も何度も七歳の差を思い知る。三十年生きて、いろんな思いをして、いろんな恋をしてきた人の言葉だと思う。二十三年では全く追いつけない。テーブルを挟んだ距離は、やっぱりとても遠かった。
 ふと、目の前で主任の表情が変わる。
「でも」
 そう口にした時、迷いの色が浮かんでいた。深刻そうではなかった。お酒の後の締めをデザートにするかご飯にするか、そのくらいの迷い方。なぜかよくわからないけど、幸せそうにも見えていた。
 そのまま、幸せそうに言った。
「俺は、お前が可愛いと思ってる。本当にな」

 バックミュージックが遂に意味不明の言語になった。
 遠くで誰かの笑い声がした。近くではざわめく音がした。心の中で、一斉にざわざわと賑々しくなる。
 ほとんど空になっていたパフェのグラスは、波打つ縁に光を跳ね返している。視界の隅でちか、と光った。眩しくもないくせに、目を閉じたくなった。
 主任の言う、可愛いという言葉の意味が知りたかった。本当は何より知りたかった。なのにそれを確かめる勇気はなかった。犬か、頼りないルーキーか、そういう意味での『可愛い』だったら、かえってへこむだろうと考えていた。
 だけど、そんなことすらどうでもよくなった。
 可愛いと言ってもらえただけでよかった。その言葉を信じたくなった。本当の意味とか、主任がどんな女の子を好きなのかとか、今までにどんな恋をしてきたのかとか、私にはちっとも関係なかった。
 好きな人の言葉を信じて、大切にして、尊重するだけだ。
 それだけあれば十分だった。

「あのっ」
 私は勢い込んで口を開く。
「さっきから失礼なことばかり質問していてすみません。これで最後にしますから、もう一つだけ、お答えいただけますか」
 散々質問攻めにしておいて、謝罪も何もあったものじゃない。
 それでも主任は笑ってくれる。楽しそうにしている。
「失礼とは思ってないから気にするな。……で、後は何を聞きたい?」
 許可をいただいて、私は大きく深呼吸をする。
 次にするのは、正しく言えば質問ではなかった。

 確認だった。
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