Tiny garden

苦手な人と好きな人(5)

「悪かったな。結局残業させることになって」
 社用車に乗り込んでからも、主任は済まなそうにしていた。助手席でシートベルトを締めた後、ヘッドレストにどすんと頭を預ける。その仕種を横目で見ながら、私は手早くエンジンを掛ける。
「急がないって言うなら俺が運転してったんだけどな」
 声のトーンは沈んでいた。よほど気に病んでいるんだろうか。しきりに眉間を指先で押さえているのは、疲れ目のせいだと思う。
「疲れてるところに車飛ばして来いって言われても、間に合うかどうかわかんないしな。先方もタクシー代だって出さないくせして急かしやがるから困ったもんだ」
「大丈夫です。主任がお疲れなのはわかっていますし、むしろこのくらいはさせてください」
 フォローのつもりで言っても、なかなか主任の表情は変わらなかった。

 駐車場から車が滑り出す。
 いつもの外回りとは違って、日が暮れた後の道を走らなければならないから、否応なしに気持ちが引き締まる。
 既に道路はヘッドライトと街灯の光に照らされていた。ビル街の隙間に見える空は、燃えさしの色をしていた。
「次の交差点、左に曲がってくれ。そっちの方が道空いてる」
「はい」
 前方の信号がちょうど変わった。減速しながらウインカーを点ける。かちかちと規則正しい音が鳴り出した。
「そのうち、何か奢るから」
 ぽつり、呟くように主任が言った。
 ウインカーの音の合間に聞こえたから、意味に気づくのに少しかかった。
「い、いえいえそんな! お構いなく!」
 かぶりを振る私に、いつもとは違う、気遣わしげな眼差しを向けてくる。
「構うよ。今日こそは小坂を早く帰してやろうと思ってたのに」
 さっきも言った通り、私はちっとも気にしていない。
 定時上がりは魅力的だけど、それも仕事の出来ないルーキーの特権なのかと思うと引け目を感じる。ルーキーの身分なんて早く脱却したいっていうのが本音だ。
「私はいいんです、今のところ元気ですし、仕事と思えば頑張る気持ちにもなれますし」
「悪かったよ、本当に」
「いいんですってば。むしろお役に立ててうれしいです」
 信号が青になる。
 車が動き出す。交差点を左折すると、片側三車線の道路に進入する。道幅の割に空いていて、遠くにテールライトがぽつぽつと見えた。
 周囲はまだビルだらけの街並みが続いていた。午後五時を過ぎているのに、歩道には人影がまばらだ。代わりにビルのほとんどに明かりが灯っている。
「今はどこも、忙しい時期なんですね」
 何気なく呟くと、助手席からは素早い反応があった。
「連休明けなんかはどうしてもな。お盆の後はどこもそうだろ」
 それから問い返された。
「小坂はくたびれてないか?」
 私は苦笑したくなった。見るからに疲れているそぶりの主任の前だ、ちょっとやそっとの疲れでは『くたびれてます、辛いです』なんて恥ずかしくて言えない。どちらにしたって言う気はなかったけど。
「お蔭様でとっても元気です」
「そうか。だよな、夏バテとも無縁そうに見えるし」
「主任は夏バテなんですか?」
 逆に尋ねると、今度は主任が少し笑った。
「いいや。さっきだって弁当食ってたろ。お前に買ってきてもらった奴」
 こんな時間に食べていたら、違う意味で心配になるけどなあ。今日は休憩にも入っていないんじゃないだろうか。
「今日はこれ済んだら帰るよ。帰って寝ればすぐ元気になる」
 だといいな、と思う。主任が元気じゃないと困るから。私だけじゃなくて、営業の皆がそのはずだ。
「まあ、俺はいいんだけどな」
 その主任が、ふと溜息をついた。
「小坂には無理させてんじゃないかと、前々から思ってたんだよな。今だって急遽残業させてるしさ」
「そんなことないですよ。主任、お気になさらないでください」
 とっさに私は応じ、信号停止のタイミングで視線を横へ走らせる。助手席の主任はこちらではなく、窓の外を見ていた。眉間を押さえる仕種が物憂げに映った。
 何か言わなくてはと、反射的に思った。

「あの、私――」
 ハンドルを握り直しながら、視線はフロントガラスへ戻す。
「たとえ残業でも、仕事がある方がうれしいんです」
 バックミラーの端に、主任の髪の端っこが映っている。身動ぎをしたのがそれでわかった。
「まだ新人で、入りたてで、だからしょうがないってわかっているんですけど。やっぱり出来ないことが多かったり、誰かに教えていただかないとどうしようもない時は、ちょっと心苦しいんです」
 焦る必要はないと、主任には言われた。
 一生懸命やれば、必ず結果はついてくると、霧島さんが言っていた。
 焦っていないとは言えない。やっぱり心のどこかには、まだ焦れている、せっかちな気持ちが潜んでいる。早く一人前になりたいって思っている。
 でも、出来るようになったことが増えてきて、少し気持ちに余裕が生まれたみたいだ。出来るようになったことは何でも、一生懸命にやりたかった。笑顔大作戦だってそう、飛び込んできた残業だってそう。私に出来ることがあるのがうれしい。焦りよりも強く、うれしいと思えるようになった。
「だから、こうしてお役に立てるのもうれしいです」
 言ってから、やけに照れた。主任には、いつもみたいに笑われるんじゃないかって気がしたから。先手を打って照れておくことにした。
 なのに今回ばかりは、主任も笑わなかった。それどころかしばらく黙っていた。どうしたんだろうと思いたくなるまで、黙っていた。
 そして、発進のタイミングで言われた。
「本当に殊勝なルーキーだよ、お前は」
 殊勝というのは解釈に迷う表現だ。私は反応にも迷って、アクセルを踏むことに集中する。
「俺が新人の頃は、お前ほど真面目じゃなかったけどな」
 後にそんな言葉が続いた。
 興味のある話題だった。助手席の方を向きたくなったけど、どうにか堪えて耳だけを傾ける。問い返す。
「主任は、どんなルーキーだったんですか」
「俺か? 不真面目だった。同期に安井がいたから、余計に気楽だったな。俺らの先輩はさぞかし手を焼いたんじゃないか」
 石田主任と安井課長の新人時代。――うん、全然イメージ出来ない。お二人ともルーキーの頃から自信たっぷりで、おどおどしたところはなかったんじゃないかな。漠然と思う。
 営業課に同期の子がいてくれたら、私も気楽になれたかな。
「むしろ、霧島が入社してきた頃が一番きつかったな」
 懐かしむ口調で主任が続けた。
「初めて後輩が出来て、あれこれと教えてやらなきゃいけなくなった。そうなるとなぜか欲が出るんだよな。早く一人前にしてやりたいとか、仕事のやり方を早く覚えさせてやりたいとか、毎日考えてた」
 霧島さんが新人だった頃も、あまり想像がつかなかった。主任と霧島さんはとても仲がいいけど、それは出会った当初からだったのかな。
「あいつはあいつで、お前と同じように真面目なタイプだろ? 新人の頃は背負い込み過ぎて、結構行き詰まってたみたいだ」
「霧島さんが……ですか?」
 むしろ、行き詰まっている姿の方がちっとも想像出来なかった。主任も霧島さんも皆、私よりずっと簡単に、するりとルーキー時代を脱却したのだと思っていた。
「辛い思いをさせたなと、多少後悔してるよ」
 主任は穏やかに言って、また嘆息した。普段、霧島さん本人と話す時には聞いたことのない声だった。トーンを変えず、優しく言葉を継いでくる。
「だから小坂も、無理はすることないからな。一人で背負い込もうとするな。今のうちはまだ、出来ることだけやればいい」
 正直なところ私は、いくら主任のお言葉でも、私と霧島さんが似ているとは思えなかった。霧島さんはすごく思慮深くて落ち着いている人だけど、私はすぐに舞い上がったり落ち込んだりする単純な人間だもの。この先、もし行き詰まることがあったとしても、真面目だからなんて理由ではないと思う。
 でも今は、行き詰まるまではひたむきでいたいとも、思う。
「じゃあ、私に出来ることをします」
 私は精一杯、明るい声で答えた。
「今日の残業も、私に出来ることの一つですよね? だからちっとも無理じゃないです。出来ることがあって、本当にうれしいくらいなんです」
 言いながら、どうしてか口元が緩んだ。頬が熱いのに、同時に笑いたくもなった。本当にうれしいからだ。私にも出来ることがあるから。忙しい時、主任のお役に立てたから。
「何でもしますよ、私。出来ることなら何だってです」
 道路の先を見据えながら、私は主任にそう告げた。今度こそ笑われるだろうか。それともたしなめられるだろうか。わかってないと呆れられるだろうか。どの反応が来てもいいように、先に一人で照れておく。
 なのに主任は、どの反応も示さなかった。不思議に思ってしまうくらい、しばらく黙り込んでいた。

 大分長いこと間があって、目的地である取引先の社屋が見えてきた頃、主任はようやく口を開いた。
「『何でもします』ってのは、殺し文句だよな」
 笑いを含んだ声の呟き。おかしそうでもあり、何だかうれしそうにも聞こえた。
 駐車場に車を入れて、エンジンを切ってから聞き返した。
「殺し文句? ……って何ですか?」
 助手席の方を向くと、シートベルトを外しながら言われた。
「深く考えなくていいぞ、小坂」
「え? ど、どういうことなんですか?」
 私の、二度目の問いには答えず、主任はドアを開けてしまう。そして首だけで振り向き、告げてくる。
「すぐ戻るから、ここで待ってろ。さっさと済ませてくる」
「あ、はい」
 車を降りた主任は、取引先へと駆け込んでいく。その背中を見送ってから、私は『殺し文句』の意味を少しの間考えた。だけど考えてもさっぱりわからなかったので、諦めて他のことを考え始めた。

 そういえば今日は、考えてもわからなかったことが他にもあったような。
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