Tiny garden

苦手な人と好きな人(4)

 八月の終わりはまだ日が長い。
 そろそろ終業時刻を迎えようとする時分、窓から僅かにだけ見える空が、ようやく赤みを帯び始めていた。

「今日はいい加減早く帰る」
 石田主任が今頃になってお弁当を食べながら呟く。私が買ってきた焼き魚弁当に、この時間までありつく暇がなかったらしい。冷蔵庫に保管していたものを温め直していたようだけど、美味しく食べられてるんだろうか。そのことがこっそり気がかりだった。
 今も主任は、食事の合間にパソコンの画面を覗いている。――もしかするとパソコンの合間にご飯を食べているのかもしれない。その状態でぶつぶつ言っていた。
「もう疲れた。腰は痛いし目は霞むし肩は凝るしで最悪だ。これで車を運転したら確実に事故る。このままデスクワークだけやって帰るぞ俺は」
 しかめっつらになった主任が、手の甲で目をごしごし擦る。今日はずっとパソコンと向き合っていたみたいだから、さすがにお疲れだろうなと思う。事故防止の為にも、是非車の運転はご遠慮いただきたいところだ。
 私は他の人より仕事が少ないから、疲れたなんて言っていられない。出来る限りの雑用を、笑顔大作戦と共に片付けている。でもそろそろ頬っぺたが突っ張ってきた。
 それでも辛うじて微笑みながら、今はコピー機のトナーを交換中。これが終わったら、次は何をしよう。他に出来ることあるかな。あるといいんだけどな。
「そろそろ家で夕飯が食べたいですよね」
 霧島さんがぼやいている。
「昨日帰ったら、台所のシンクがからっからになってました。何日台所を使ってないのかわかりません」
 それに主任が応じて、
「カビが生えなくていいな」
「いいですけどね。いっそ会社に住んだ方が楽じゃないかとさえ思えます」
「そうだな、うちの会社はいいぞ。弁当屋は近いし駅は近いしで物件としては最高だ。寝袋でも持ち込めば完璧だろうな」
「本気にしないでくださいよ、先輩」
 私はコピー機の陰から、疲れ切ったご様子の会話を聞いていた。一人暮らしに繁忙期は大変そうだ。実家暮らしの身分としては肩身が狭くもあるし、親のありがたみを改めて噛み締めてもいる。私一人だけでは残業続きのここ数日を乗り切れなかったかもしれない。将来的には、一人でも乗り切れるようにならなくちゃいけないんだけど。
 カートリッジをはめ込んで、トナーの交換は終了。溜息をついて立ち上がると、すかさず声が掛けられた。
「小坂はそれ終わったら、上がっていいぞ」
「えっ?」
 主任の言葉に、私は思わずその顔と、壁掛け時計とを見比べた。終業時刻を三分過ぎたばかりだった。
「い、いいんですか? 定時ですよ?」
 私が尋ねると、営業課に居合わせた皆が一斉に吹き出した。主任もにやにやしながら応じてくる。
「普通は定時に上がるもんなんだよ。堂々と帰れ」
「でも、皆さんはまだお仕事があるのでは……」
 笑われた気恥ずかしさと、誰よりも先に帰される引け目とで、恐る恐る聞き返す。もしも私に出来る仕事があるなら、残業したって構わないのに。――ないから、帰っていいと言われたのかな。
「時間があれば教えてやりたい仕事もあるんだけどな。教えられるだけの暇もない」
 眼精疲労のせいか、こちらを見る主任がどことなく眩しそうに見えた。
「それに小坂は実家暮らしだろ? 入社して一年も経たないうちから残業続きの会社じゃ、親御さんが心配しないか?」
 両親のことに言及されると慌てたくなる。何でどぎまぎするんだろうと思いつつ、答えた。
「いえ、その点については問題ありません! うちの両親はそういうところには理解もありますし、いくらでも残業して来いと言われてますから!」
「そりゃ素晴らしいな。だったら今日は早く帰って、そんなご両親を喜ばせてやるといい」
 主任にはあっさりと言われてしまった。こうなると反論の余地もなく、わかりましたと頭を下げる。心配りはありがたいけど、一人だけ先に帰るのはやっぱり、気が引けた。
 でも確かに、両親も安心させてあげなくちゃいけないなとは思う。残業に理解のある両親でも、心配をしない訳ではないらしい。仕事はどうなの上司はどうなのと事あるごとに聞かれているから、きっと私が働けているかどうか不安なんだろう。たまに早く帰って、職場の話でもしながら安心させてあげるのもいいかな。
 そういえば最近はシャワーで済ませてばかりで、のんびりお風呂にも入ってなかった。せっかく定時で上げてもらえるんだし、今日はゆっくり休んで明日に備えよう。明日だって今日みたいにあれこれと忙しないかもしれないし――かもじゃなくて、間違いなく忙しいだろうから。
「じゃあ、お先に失礼します」
 戸口に立ち、お辞儀をする。もちろん笑顔大作戦も忘れずに。今日一日でくたびれ切った頬っぺたがだるく感じた。それでも笑えたのは気の持ちようだった。
「お疲れ様です、小坂さん」
 霧島さんが笑い返してくれた。営業課の皆がちょっとだけ仕事の手を止めて、それぞれに会釈や挨拶を暮れる。その『ちょっとだけ』の心配りがうれしくて、笑顔っていいなあと改めて思う。
 それから、主任がこちらに手を挙げかけた。
「お疲れ。気を付けて――」
 その時不意に、机上の電話が鳴った。主任の視線が動き、コール音が止む。私は返そうとした笑顔をどこへ向けていいのかわからなくなる。
 電話に出た主任の、仕事用の声が聞こえてきた。
「――あ、お世話になっております。ああいえ、まだ大丈夫ですよ。どうしました? ……はい。ああ、仕様書ですか? はい、もう出来てます」
 表情も声も切り替わった瞬間、笑おうとしていた気持ちはふと萎んで、残念だなと思ってしまう。主任と挨拶の出来ないことが、寂しいなと思ってしまう。そんな気持ちは本当なら場違いで、顔に出すのもいけないことだ。帰ることの出来る人間と、出来ない人たちとの差は歴然としてある。今はどうしようもない、動かしがたい差だった。だから私は笑って、堂々と帰るべきなのだと思う。
 途切れてしまった挨拶をやり直す為だけに、ここへ留まる訳にもいかない。明日もまたここに来るんだから、そう思い直した。明日はもうちょっと頑張ろう。忙しい時期に、残業すらさせてもらえない、なんてことがなくなるように。
 私は再びお辞儀をして、主任の電話応対を背にオフィスを退出した。ドアを閉めてからまた溜息をつく。
 笑顔大作戦、尻すぼみに終わっちゃったなあ。
 これも明日は、もうちょっと頑張れるかな。

 廊下にあるタイムレコーダーにICカードをスキャンすれば、今日の勤務はおしまいになる。入社して間もない頃はよくスキャンを忘れて、主任の手を煩わせていたっけ。さすがに最近、そういうミスはしなくなった。
 タイムレコーダーの『退勤』ボタンを押し、いざカードを通そうとした、その時。
 営業課のドアが恐ろしい勢いで開いた。
「あっ、小坂!」
 飛び出してきた石田主任が、私の顔を見て声を張り上げる。とっさのことに応答すら出来ずにいると、主任は気まずそうな顔をして、ふうと息をついた。ためらう表情が浮かんでいる。
「ええと。まだ、タイムカード通してないよな?」
 遠慮がちに尋ねられ、私はぎくしゃく頷いた。すると主任はほんの少し安堵の色を過ぎらせ、更に続ける。
「そうか、よかった……いや、よくないよな。とにかくその、頼みがある」
「頼み、ですか」
 珍しく歯切れの悪い様子。何事だろうと怪訝に思った。
「定時で上げると言っておいて誠に申し訳ないんだけど、一時間くらい――いや、なるべく三十分で済ませる。ちょっと運転を頼まれてくれないか」
 仕事だ。そう思った直後に答えていた。
「はい! 大丈夫です!」
 相も変わらずものすごく勢い込んだ答え方になって、ついでに自然と笑えた。主任が驚いた顔をする。
「え? い、いいのか、まだ内容も話してないのに」
「構いません。残業ですよね?」
「そうだ。でも、せっかく定時で上がれたところなのに、悪いなと思って……」
「ちっともです。どうぞお申し付けください!」
 私にも出来る仕事があるなら、やる。やりたい。皆が忙しい時に、出来る仕事がないという理由だけで帰るのは、やっぱり寂しいから。定時上がりを逃がすのはほんのちょっと惜しいけど、両親を安心させるのはまた今度にしよう。
「悪い。助かるよ、小坂」
 主任は申し訳なさそうにしながら、一旦営業課へ戻っていった。スーツの上着と角二封筒を抱えて現れた時、もう一度詫びてきた。
「本当にごめんな。取引先が今頃電話掛けてきて、どうしても今日中に仕様書が欲しいんだそうだ。急ぎだと言うから、お前に運転してもらいたくて」
 話しながら主任は歩き出す。駆け足気味に階段を下りていくので、私も急いで後に続く。
「終業時間後でもそういうことあるんですね」
「あって欲しくないよな。でも相手は大事なお客様、どうしてもと言われちゃしょうがない」
 疲労の色濃い主任の声。
 しょうがないこともどうしようもないことも、随分いっぱいあるんだなと、改めて思う。
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