Tiny garden

苦手な人と好きな人(6)

 主任は、十分ほどで車に戻ってきた。
 そして助手席に座るなり、うってかわって威勢のいい口調で言った。
「よし帰る。とっとと帰るぞ小坂、車出せ」
「わかりましたっ」
 私もあたふたしながらエンジンを掛けた。蒸し始めていた車内にエアコンの風が吹き込んでくる。それだけで気分がすっとした。
「これでようやく、小坂を家に帰してやれるな」
 いつも通りの笑顔を、やっと主任が浮かべてくれた。こう距離が近いと見惚れるのも難しい。ぎくしゃく視線を逸らしつつ、どうにか頷いた。
「そ、そうですね。お気遣いありがとうございます」
「今日は早く帰してやりたかったからな。安全運転を心がけつつぶっ飛ばしてくれ」
「それは難しいです!」
 両立するにしてもものすごく難易度の高い注文。私としてはもちろん、安全の方を優先するつもりでいる。だって主任の命をお預かりしているんだから。

 帰りの道は、行きよりも心なしか混んでいた。いつもより遅めの帰宅ラッシュが始まったようだ。ビル街の歩道にも人の姿が増えている。
「急ごうとすればこれだ。タイミング悪いな」
 主任はぼやいていたけど、私は焦ることもなかった。用事が無事に済んでほっとしているのもある。それとは別に、主任ともう少し一緒にいたかったのもある。勤務中なのに、つくづく不真面目だ。
 でもせっかくの機会なので、信号待ちの間に質問をぶつけてみた。
「主任、うかがってもよろしいですか」
「ん?」
「あの、主任が、花火がお好きじゃないという話を聞いたんです。それは……」
 本当ですか、と尋ねる前に、主任が鋭く問い返してくる。
「誰に聞いた?」
「えっ、あ、人事の安井課長です」
 正直に答えた。途端、助手席からは長い溜息が聞こえた。
「あいつか。余計なことを」
 やっぱり、聞いた通りなんだろうか。
 だとしたら申し訳ないなという気がしてくる。会社からの花火を見られなかった新人の為に、わざわざ嫌いな花火大会に付き合ってくれたのだとしたら。
 だけど安井課長に聞くまで、主任が花火嫌いだとは思いもしなかった。花火を見ている時だってそんなそぶりはまるでなかった。むしろ私よりもずっと、熱心に花火を見ていたような気がした。
「本当、なんですか?」
 答えを待っている間に信号が変わってしまった。流れに従い車を発進させると、主任はもう一つ溜息をつく。
「小坂」
 低い声で呼ばれて、飛び上がりたくなった。
「は、はいっ」
「安井と話してわかったろ? あれは『性格の悪い人間ほど出世が早い』といういい見本だ」
「……そ、そうなんでしょうか」
 肯定も否定もしにくい。性格が悪い、とまでは思わなかったけどなあ。ちょっとだけ、突飛なことを言い出す人だなとは思ったけど。
「嫌いって訳じゃない」
 エンジン音に溶け込むような声で、主任はそう語を継いだ。
 道幅の広い三車線に、今は車がひしめき合っている。また信号で止まった。ギアに掛けた手が滑りそうになる。
 視線を上げれば、ビル街の隙間の空は既にとっぷり暮れていた。
「苦手なだけだ。去年までは、単純に恨めしかった」
 主任が言い、私は視線を隣に移す。視界の隅に主任の、拗ねたような横顔が見えた。
「苦手……ですか」
「しょうがないだろ。毎年毎年忙しい時期に喧しい音立てられるんだから。こっちは仕事しながらでなきゃ見られないっていうのに。見れたからって好きになれるもんでもなし、空しいなと思いながら見てたよ」
 その気持ちはちょっとわかる気がする。私も社会人になってから初めて、夏の辛さ、八月の厳しさを知った。子どもの頃や学生時代みたいに花火が楽しめない人が、花火を苦手に思うのもわかる気がする。
 私はきっと、苦手にはならないだろうけど。社会人一年目に、ささやかだけど、いい思い出が出来たから。
「いつだったか、霧島が長谷さんを連れてきたことがあったんだよな」
 苦笑いの声が続けた。
「三年くらい前か。あいつら、まだ付き合ってなかったし。でも半ば付き合ってるようなもんだったよな、営業課の窓から長谷さんに花火見せたいんだって霧島に言われた時は、正直むかついた。先輩を差し置いて、何を上手いことやってんだと」
 言葉の割に口調が優しいような気がするのは、……私の勘違いなんだろうか。それとも、安井課長の言ったように『買い被ってる』だけ?
 でも、主任が霧島さんと長谷さんのことを話す時、額面だけではない柔らかい感情が垣間見えるように思う。そしてそういう風に話してもらえる霧島さんたちが、ちょっと羨ましいとも思う。
 お酒の席で私のことを話す時、主任はどんな口調になるんだろう。どんな顔をするんだろう。知りたいような、知るのが怖いような。
「長谷さんは昔、我が営業課のアイドルだったんだ」
 主任が不意にそう言って、私はとっさに聞き返す。
「アイドルですか?」
「そう。外回りに行く時、長谷さんに挨拶をして、笑いかけてもらった日は仕事が上手くいくってジンクスもあったくらいだ」
「へえ……素敵ですね!」
 確かに、長谷さんの笑顔ならそのくらいのご利益はありそう。いつも無理なく、優しい感じで笑ってくれる人。営業課のアイドルかあ。わかる気がする。
「でも、今の長谷さんは霧島のものだからな」
 車が動き出す。主任の声が穏やかに、ゆっくりと溶けていく。
「つまりはあのジンクスも霧島だけのものになったってことだ。さすがに他人の彼女で今日の運勢を占おうなんて気にはならないしな」
 それもわかる気がする。
 私はあいにくと恋人いない歴二十三年だけど、友達に彼氏が出来た時はいろいろと遠慮もしたくなった。それもやっぱり、その子が『誰かのものになった』っていう意識があったからなのかもしれない。
 長谷さんは霧島さんのもの。だから長谷さんの持つジンクスも、霧島さんのもの。――そのお蔭で霧島さんは、上手に『両立』出来てるってことなんだろうか。
「あいつら見てたら、俺もジンクスが欲しいと思った」
 主任が言う。ほんの少し、照れたように。
「今度は出来れば、俺限定の奴で。誰かと共有しない、俺だけのジンクスが欲しいと思った」
 次の言葉は、囁きみたいに響いた。
「だから、小坂。お前を花火に誘った」
 信号が変わる。
 車が減速する。
 ギアをローに入れてから、私は主任の顔を見た。照れ笑いの表情は目が合うなり尋ねてくる。
「意味、わかってないだろ?」
 むしろそうあって欲しいとでも言いたげな尋ね方。私も、頷かざるを得なかった。
「あの、途中まではわかったんですけど、花火とジンクスの話がどうしても結びつかなくて」
 長谷さんのジンクスは、今は霧島さんのもの。そこはわかった。
 石田主任は他のジンクスが欲しいと思っている。それもわかった。
 でも、それが苦手な花火を見に行く理由になるんだろうか。
 しばらく不思議な沈黙があった。もどかしいような、温かいような、何とも表現しにくい時間が流れた。主任と、知らず知らずのうちに見つめ合っていた。視線が結ばれて、そう簡単には解けなくなっていた。
 その事実と恥ずかしさに気付いた瞬間、
「お前ならわからないだろうなと思った」
 喉を鳴らして、主任が笑った。たちまち照れ笑いが愉快そうな笑顔に変わる。
「こっちとしては、その方がいいんだけどな。気付かれちゃジンクスにはならない」
「え? ええと……」
 意味がわからない。考え込みたくなる私の頭に、主任の言葉は追い討ちを掛ける。
「考えなくていいぞ。ほら信号変わる、前向け前」
「は、はい」
 急かされて正面へと向き直った。ハンドルを握り締める手が汗ばんでいる。何だかわからないことだらけでもやもやしていた。そのくせ、主任の笑顔は照れ笑いでもそうじゃなくても、素敵だなあなんて場違いに思っていた。

 それから、ふと思いついた。
 私もジンクス、欲しいな。
 私だけのものじゃなくてもいい。私の知らないところで、誰かと共有しているのだとしても構わない。一番素敵だと思う人の笑顔を、何より一番のお守りにしたい。これからの仕事の為に。いつかルーキーじゃなくなる日の為に。
 そのくらいはこっそりやっても、いいよね。

 社の駐車場に戻ってきた後、意を決して口を開いた。
「あ、あの、主任!」
 エンジンは切られたばかりで、私の声は遮られることなく聞こえた。シートベルトを外した主任が、訝しそうにこちらを向く。
「どうした?」
「あ、ええと……その」
 笑顔大作戦。
 忘れかけていた単語がふと頭に浮かんで、途端に出来るだけ笑いたくなった。
「お、お疲れ様ですっ!」
 だけど出てくるのはその程度の言葉だ。もっと気の利いたことが言えたらいいのに、せめて脈絡のあることが言えたらいいのに。
 案の定、主任は頬をくたびれさせている私を見下ろし、何とも言えない表情を浮かべた。
「ああ、お疲れ。……今日はありがとな、残業してくれて」
「いえっ、このくらいどうってことないです!」
 力いっぱい答える私を、間抜けだと自分で思う。いつだってこういうぶつかり方しかなかった。笑わせるんじゃなくて、笑われることしか出来なかった。それでも主任には笑って欲しいと思っていた。皆にばればれって言われるくらい、ずっとそう思っていた。
 石田主任にも、ばれているはずだった。
 見上げた先で、その主任がおかしそうに吹き出した。
「やっぱり犬っぽいよな、小坂は」
 ――笑ってもらえた。
 不本意な形容はともかく、笑ってもらえた。明日も仕事、頑張れそうな気がする! 明日はもっと、私の出来ることが増えるといいな。
「その顔で何でもしますなんて言われたら、深読みしたくなるな」
「深読み? ……って何ですか、主任」
「自分で考えてわからないことは気にするな」
 今度はにやにや笑いながら、主任が車を降りていく。私も慌てて後を追おうとして、シートベルトを外してないことに、ドアを開けた瞬間に気付いた。
「わあ!」
「何やってんだ、小坂!」
 お腹を抱えて笑う主任。これだけ笑われたんだから、ジンクスはばっちりのはずなんだけど、焦りのせいかシートベルトがなかなか外せず、結局大笑いしている主任の手を借りてしまった。
 これでご利益なかったら、私、へこむ。
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