Tiny garden

苦手な人と好きな人(3)

 むっとする空気の備品倉庫に、再びやってきた。
 安井課長がOHPの管理台帳に記入をしている。その傍で私はおとなしく順番を待つ。先程うかがった話に興味はあったけど、それについて突っ込んで尋ねられない立場の人でもある。
 そうか、石田主任と同期で、元は営業課にいた人なんだ。そう言われていくつかのことが腑に落ちた。石田主任が安井課長を『お喋りな人』と、遠慮のない口ぶりで形容したこと。課長の話題をした時の、主任と霧島さんの表情。それから安井課長が、私の名前を覚えていてくれたこと――納得した。そういう繋がりがあったからなんだ。
 だけど、主任が私のことを他の課の課長さんに話していたとわかると、さすがに緊張した。だってそれはつまり、主任が私をどういう風に評価しているか、その事実がこちらの安井課長の耳にも入っているということで――使えない奴だとか、応用の利かない奴だと思われていたらどうしよう。不安になった。こういう時に後ろ向きに考えたくなるのが私の悪い癖だ。わかっているけど、前向きに考える材料が今のところ皆無なんだからしょうがない。

「――よし。記入終わり」
 安井課長は声に出して言い、すぐに私に向かって、管理台帳を差し出してきた。
「はい、小坂さんの番」
「あ、い、いただきますっ」
 台帳を受け取り、ボールペンを出して、人事課と記された欄の下に、営業課と記載する。今日の日付と印鑑も忘れずに。これはちゃんと教わったから完璧。
「それにしても、話に聞いていた通りだ」
 私が台帳への記入を続けていると、安井課長が呟くように言った。
「可愛いな、小坂さんって」
 何気ない調子で言われたので、もう少しで本当に『聞き流す』ところだった。頭がその言葉を拾い上げてしまった後は、もう無反応という訳にはいかない。当然、困った。
「そ、そんなことないです」
 ペンを走らせながら否定した。してはみたものの、こういう時、目上の人の言葉を否定するのは失礼なのかもなとも思う。だからと言ってはいそうなんですと肯定出来る内容でもなかったんだけど。大体、可愛いだなんて、誰が私のことをそんな風に言うんだろう。
 困り果てて視線を上げると、生真面目そうな面差しと視線がぶつかる。安井課長はちらと笑い、更に語を継いできた。
「石田の奴、ここ二ヶ月くらいは飲みに行く度に小坂さんの話をしてくるんだ」
「しゅ……主任がですかっ?」
「そう。こっちも聞いてて、すごく面白い」
 石田主任が私の話を。
 しかも、人事の方に。
 これはどう考えても、何と言うか、非常にまずいような気がする。お酒の席とは言えお仕事の話をするんだから、それはもう真面目な席なんだろう。もしも石田主任が私を、営業への適性がない人間として話していたりしたら。一年足らずで他の課に異動なんてこともあるかもしれない! せっかく得意先へのルートも覚えたのに!
 で、でも、主任は優しい方だから。本当はあんまり向いてないなと思っても、そこはおまけをして、適性のあるようにと話してくれてるかもしれない。そうだといいな、そうだと……なるべく前向きに受け取りたかった。
 いつもみたいに笑い話として話してくれてるならいいな、と思う。そっちの方が数倍いい。主任に笑われるのは恥ずかしいけど、嫌じゃないから。
「あいつと花火、見たんじゃないのか?」
 安井課長が問う。唐突に話題が転換したような気がした。
 花火、確かに見た。一瞬口ごもりたくなったけど、嘘をつくのも抵抗があった。秘密にしておけとは言われなかったし、大丈夫、そう思って正直に答える。
「は、はい。この間、見せてもらいました」
 私の答えを聞いた課長は、生真面目そうな顔を崩してにやにやと笑った。からかいじみた笑い方だった。
「そうだろうと思ったよ。花火大会の日に内線掛けてきて『屋上からなら花火見れるか?』なんて聞いてくるから、小坂さんに花火を見せてやりたいんだなとすぐにわかった」
 そんなことまでしていたんだ。下見をしてくれていたのは聞いていたけど……。やっぱり主任、優しいな。
 人事の方にどんな話をされていてもいいかな、とさえ思えた。適性がないと言われたって、精一杯頑張って、挽回すればいいんだもん。後ろ向きに捉えるのは挽回出来なくなってからでもいい。営業課にいられるうちは、主任の優しさ、心遣いに報いたい。ご恩を返したい。そう思う。
 主任の優しさに胸が詰まった。そして『笑顔大作戦』のことも思い出した。だから私は、笑顔で応じた。
「石田主任はとても優しい方なんです。新人の私にも、いろいろと気を配ってくれますから」
 なのにそう言った途端、安井課長は眉間に皺を寄せた。いかにも疑わしげに問い返された。
「優しい? あいつが?」
「はい」
「それはどうかな……。小坂さん、買い被り過ぎだと思う」
 大仰なくらいの動作で首を竦めた課長が、次いで言った。
「だってあいつ、花火が好きじゃないはずだからな」
「――え?」
 私はぽかんとしてしまった。花火が好きじゃないって、まさか。
「えと……主任が、ですか?」
「ああ。聞いてない?」
「全くの初耳です。嫌いなようにも見えませんでしたし……」
「営業課の窓から花火が見えてた頃は、毎年毎年愚痴ってたんだけどな。うんざりだって言いながら。今年は一体、どういう心境の変化なんだろうな?」
 安井課長の話をどう受け止めていいのかわからなかった。私はこの耳で、主任の口から聞いている。『今年も花火、見たかったのにな』、確かに主任はそうぼやいていた。花火が嫌いな人はそんなことを言ったりしないはずだ。だから、花火のことだって私だけじゃなく、ご自分でも見たいと思っていたから、私を誘ってくれたのかと――私も主任に、花火が好きですと言ったから。
 花火が嫌いだとは言ってなかったと思う。絶対に。
 だけど安井課長は石田主任と同期で、私よりもずっと主任のことを知っているんだと思う。わざわざ嘘をつくことだとも思えないし、嘘をつきそうな人にも見えない。
 じゃあ、どういうことなんだろう。
「おっと、時間だ」
 ますますこんがらがってしまった私を尻目に、安井課長は腕時計を見る。
「小坂さん、俺はそろそろ行くけど、後は大丈夫かな」
「は、はいっ。わざわざありがとうございました!」
「こちらこそ手間を取らせてごめん。倉庫の鍵、よろしく」
 ドアを指差す課長。私は大作戦を思い出し、素早く笑んだ。
「はい!」
「いい返事だな、小坂さん」
 課長も涼しげに笑い返してくれて、そのまま倉庫を出て行こうとして、
「あ、そうだ」
 戸口でふと足を止める。
 くるりと振り向いた顔は、さっきのようににやにやしていた。
「小坂さん、もしもの話だけど」
「なんでしょうか?」
「上司からのセクハラに悩むことがあれば、いつでも人事に来て。相談に乗るからな」
 その言葉にはさすがに、笑顔で応じることは出来なかった。
「え、ええっ!? そんなこと、大丈夫ですよ絶対!」
 私の反論は倉庫内に響き、廊下からは安井課長の忍び笑いがしばらく、聞こえてきた。
 おかしなことを言う人だと思った。セクハラだなんて、ないない、絶対ない。そんなことする人は、少なくとも営業課にはいないもん。だから相談する機会もない。
 ただ、花火の件だけはどうしても引っ掛かった。
 主任は本当に、花火が好きじゃないんだろうか。好きじゃない人が、『今年も見たい』なんて言い方をするだろうか。私を花火に誘ってくれるだろうか。
 考えてみてもちっともわからなくて、結局、考えるのを止めてしまった。

「遅かったな、小坂。重たかったか?」
 OHPのワゴンを押してきた私を、主任は気遣わしげに迎えてくれた。
 倉庫で人事課長といろいろ話してきた後だけに、声を掛けられて動揺したのも事実。だけど自分でもこんがらがっているくらいだから、主任に確かめてみようとは思わなかった。とりあえずうろたえないように心がけつつ、答える。
「先に倉庫へ寄って、台帳に記入をしてきました」
「そうか、そういうことなら。てっきり人事のお喋り課長に捕まってたのかと思った」
 主任が安井課長を指して『お喋り』と言った、その意味が何となくわかってきた。私の知らないこともあれこれ知ってしまった。聞いてよかったのかな。主任が人事の方に、私の話をしていたという事実とか――これからはもうちょっと、真面目にやらなくちゃいけないと思う。
「あいつの言うことはいい加減だからな。今後、何言われても真に受けるなよ」
 そんな風に主任には釘を刺されたので、私もとりあえずは余計なことを考えないようにした。
 夕方からの会議では内容を頭に叩き込むのに精一杯で、余計なことを考える余裕もなかった。それでも笑顔大作戦だけは忘れないように努めた、つもりだった。
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