Tiny garden

苦手な人と好きな人(2)

 夏の備品倉庫はむっとしていた。
 体育館倉庫の臭いをちょっと和らげたような、そこに本屋さんのまっさらな紙の匂いを混ぜたような、いるだけでそわそわする空気が充満している。
 明かり取りの窓からの日射がきつい。室温の高さに溜息をつきつつ、私はOHPを探す。きょろきょろしながら棚の立ち並ぶ中を歩いていけば、コピー用紙の置かれた棚が目に入る。
 途端に懐かしいような、くすぐったいような気持ちになった。
 ここで主任に、お誕生日祝いの提案をしてから、もう一ヶ月以上が経つ。
 ――あの時はとんでもないことを口走ってしまったものだと思った。主任をびっくりさせてしまったみたいだし、すごく不躾な発言だったと、今になって反省したくなる。だけど、そう悪いことにはならなかった。それどころかいいことだって、たくさんあった。主任が優しい人で本当によかった。
 何かが変わったかと聞かれれば、多分、あまり変わっていないのだと思う。ルーキーとしてのふがいない私も、石田主任との距離も。変わりたいのかと聞かれたなら、首を傾げたくなると思う。今のままでも十分と言えば十分だった。もちろん、両立出来るようにはなりたい。なりたいけど。
 この距離を縮めたいとまでは思っていない。
 それはさすがに大それたことだ。今のふがいない私はもちろんのこと、ルーキーを無事に脱したところで釣り合うとも思わなかった。傍で眺めていられるだけでよかった。一緒に、仕事をさせてもらえるだけで幸せだった。頑張れると思った。
 ただ、ご恩は返したい。主任が私に優しくしてくれること、そのお気持ちに応えて、ルーキーから卒業したい。そう思う。
 だからこそ、まずは『笑顔大作戦』完遂だ。

 コピー用紙の棚から視線を外し、私は更に奥へと進む。
 ふと、別の棚の端に、薄い台帳が置かれているのを見つけた。表紙には『OHP管理台帳』と手書きの文字で記されている。そして台帳の置かれた棚の横、床の上がぽっかりと空いていた。
 ぴんと来た。
 台帳をめくってみる。――案の定、今日の日付で持ち出しの記録が残っていた。ということは、OHPはここにないってことになる。記載によれば、人事課の方が使用しているらしい。いつ頃戻ってくるのかまでは、台帳からはわからない。
 困ったなあ。いきなりのつまずきに、私は眉を顰めたくなった。だけどすぐに気を取り直す。わからなくなったら上司の判断を仰ぐ、それしかない。困っている時間も惜しい。皆が忙しい時は私もてきぱきやらないと。
 一旦、倉庫の鍵を閉め、私は営業課へと舞い戻った。

「――主任、よろしいですか」
 営業課のオフィスに戻ってすぐ、主任に声を掛けた。主任はまだパソコンと向き合ったままで、お弁当はまだ開けられていない。心配になる。
 それでも私の言葉には、ちゃんと顔を上げてくれた。
「どうした?」
「はい。倉庫に行ってみたんですけど、OHPがなかったんです。台帳には今日の日付の持ち出し記録が残っていたので、よその課で使用中みたいです」
 私がそう告げると、主任はひょいと眉を顰める。素早く問い返してきた。
「どこで使ってるって書いてあった?」
 台帳を確認してきてよかった。胸を張って答えた。
「人事課です。台帳には、そのように書いてありました」
「人事……そっか」
 顎に手を当て、少しの間考え込んでいた主任。やがて何か思いついたようで、私に向かって言った。
「よし、じゃあもう一つ頼んだ。これから人事課に行って、OHPが空いてるかどうか聞いてきてくれ。で、空いてるって言われたらそのまま借り受けてきて欲しい」
「わかりました!」
 仕事の難易度が上がった。気持ちが引き締まるのを感じて、私は笑んだ。やる気は十分だ。
「借りてこれたら、台帳の記入も忘れずにな」
「はいっ」
「あ、それと」
 出て行こうとした矢先、主任の言葉が続いた。慌てて振り向けば、なぜか苦笑している顔が見えた。主任と、霧島さんと、二人分の苦笑い。
 そして主任が言う。
「人事の課長はお喋りだからな。何言われても適当に聞き流せよ」
「え? あ、肝に銘じておきます!」
 一瞬戸惑いつつも答えた。急に言われた意外な忠告に、腑に落ちない思いも残る。主任と霧島さんは、どういう訳か顔を見合わせ、何やらおかしそうにしていたけど。

 次の向かう先は人事課。新人研修の頃に足を運んだことがあるので、場所はわかっている。
 でも、人事課長ってお喋りな人だったかなあ。そういう記憶はなかった。
 もちろんゆっくりお話をしたことはなくて、二、三の事務的な用件を同期の子と一緒に済ませた、その時以来接点はないんだけど――特別これといって、悪い印象はなかった。雰囲気としては知的な、生真面目そうな印象の人で、そういえば石田主任と同い年くらいに見えたかな。課長さんってあのくらいの年齢の方でもなれるんだな、とこっそり思ったくらいだ。
 石田主任が『お喋りだ』と言うくらいだから、まず無口な人ではないだろうと思う。主任だって結構、よく喋る方だから。でも、今回の用件だってOHPのことを聞くだけだし、お喋りを聞く機会って訳じゃない。心配することもないだろうと思った。ここは笑顔のまま、愛想よくOHPをお借りしよう。

 人事課のドアの前。ノックをすると、室内からは間を置かずに返答があった。
「どうぞ」
「失礼します」
 声を掛け、中に立ち入る。
 人事課のオフィスは春先に見た通り、営業課よりも小さめだった。同じ総務部の総務課とはパーテーションで仕切られていて、そのせいか見た目よりもざわついているように聞こえた。
 私が立ち入ると、机に向かっていた人事の皆さんが一斉に視線を上げ、それからすぐに下ろした。この時期はどこの課も、やっぱり忙しいみたいだ。
 唯一、奥のデスクにいた人事課長だけが私に目を留めたままだった。落ち着いた口調で尋ねてくる。
「ああ、営業の小坂さん。どうかしました?」
「あ……はいっ」
 名前を覚えてもらっていたことに驚いた。さすがは人事の課長さん。よその課の新人の名前まで覚えてくれているんだ。すごいなあ。
 感激しつつ、用件を告げる。
「営業課の、夕方の会議でOHPを使おうとしていたんですけど、倉庫で台帳を確認したところ、こちらで使用中とのことで……」
「そうだった。すっかり忘れていた」
 目を瞠り、人事課長はしまったという顔をする。すぐに立ち上がると、デスクの後ろに置いてあったOHPを、ワゴンごとこちらまで押してきた。
「持って行ってもよろしいんですか?」
 一応、確かめてみた。すると人事課長は軽く笑んで、頷いてくれた。
「もちろん。――と言うより、ご足労かけてすみません。使ってすぐに戻しておくべきだった」
「いえ、いいんです。じゃああの、このままいただいていきます」
 私は手を伸ばし、OHPをワゴンごと引き取ろうとした。
 だけど、人事課長はそこで小さくかぶりを振る。手はワゴンから離さず、穏やかな表情のままで続けてきた。
「ちょっと待って。俺が持って行くから」
「え?」
 どういうことだろう。怪訝に思っている間にも言葉は続く。
「一度倉庫へ行って、台帳に返却の旨、記入して来なくちゃいけないからな。小坂さんだってそうだろう?」
「はい、そうでした」
 そういえば主任にも言われていたっけ。OHPを借りてこれたら、台帳にうちの課で持ち出したということを記入しなきゃいけないんだ。
「だから、倉庫まで一緒に行きましょう。こいつは俺が運んでいくから」
 人事課長の言葉に、私は頷きかけて、慌てて言い添えた。
「はいっ、でも、持っていくのは私でも出来ますから」
「いいよ、そのくらい」
 生真面目に見える顔をおかしそうに崩して、人事課長が笑った。
「小坂さんをこき使ったりしたら、後で石田からクレームが来そうだ」
 課長の口から主任の名前が、ごく親しげな感じで飛び出した。あれっと思う間もなく、課長は人事課のオフィスを、OHPのワゴンごと出ていこうとして――私も大急ぎで後を追う。危うく、『失礼しました』を言い忘れるところだった。

「石田とは同期なんだよ、俺」
 廊下を歩き出しながら、人事課長は気さくに打ち明けてきた。
「ついでに言うなら、元は営業課にいたんだ。石田と一緒に仕事もしていた。お蔭であいつとは今でも付き合いがある」
 ワゴンを押すと、小さな車輪の転がる音が響く。昼下がりの廊下は立ち歩く人が少なく、その代わりに各部署からはひっきりなしに電話や内線の音が聞こえてくる。自然と歩くスピードが上がる。
「だから、小坂さんのこともいろいろ聞いているよ」
 人事課長が私に、愛想よく笑いかけてきた。
 初めの印象よりも、砕けた感じに映った。この方も笑顔の素敵な人だなあと思いつつ、首から吊り下げた名札から、人事課長のお名前が安井さんであることを知った。
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