Tiny garden

主任とルーキー、大団円(2)

 大体にして石田主任という人はいつも元気だ。
 ここ一年間で体調を崩したことはほとんどなかったと思う。一人暮らしなのに健康管理の出来ている点はまさに社会人の鑑だ。勤務中はきびきびとよく働いているし、それでいて私のような新米に対してもあれこれ気を配ってくれるのがすごい。八月や年末の繁忙期にはくたびれた顔をしていたこともあったけど、目立って元気のないそぶりは見かけていない。もちろん、最近だってそう。
 バレンタインデーから一ヶ月が経って――私は以前とほとんど変わらず、主任を見つめ続けている。時々、目が合ってどぎまぎしてしまうのも相変わらずだし、そうでなくても仕事中には余計な記憶が甦って、一人であたふたしてしまうこともある。それでも主任のことをちゃんと見てきたつもりでいたから、安井課長の言葉には少々驚かされた。
 元気がないようには見えなかった。
 心当たりも全くない。
 かといって、それほどに強くやきもちを焼かれている自覚だってなかった。主任も一応は嫉妬する人のようだけど、そういう気持ちを黙って抱え込んでいる人でもない。私の態度に誤っているところがあればちゃんと指摘してもくれる。だから単純に、やきもちだけで元気を失くしているとも考えにくい。
 安井課長と石田主任は付き合いも長いから、私に見えないところも見えているのかもしれない。もし私だけが気が付けていないのだとすれば問題だ。注意して見てみよう、と心に決めた。

 紙袋を提げて営業課へ戻ると、
「お、小坂。待ってたぞ!」
 すかさず主任が声を掛けてきた。
 目が合ってどぎまぎしているのはきっと私だけで、主任はそうでもないんだろう。営業課にいる時はいつでも普段通り、勤務中らしい顔をしている。今は思い切り笑顔でいるけど。
「ただいま戻りました」
 会釈をし、ひとまず席へ戻った私の傍に、主任は機嫌良く近づいてくる。後ろ手に何かを隠しているようだ。居合わせた課の皆の視線もくすぐったいけど、一体何だろう?
「とりあえず、荷物、机に置け」
 目の前に立った主任がそう言うので、私は従った。紙袋と鞄を自分の机に置く。
 すると、持ち手のついた小さな、白い箱を差し出された。
 どういうことかなと思っていたら、やがて言われた。
「これは営業課一同からお前に、ホワイトデーのプレゼントだ」
「え……私にですか?」
「お前の好きそうなのを選んできた。ほら、遠慮なく受け取れ」
「あ、ありがとうございますっ!」
 びっくりした。でもそれ以上に感激した。
 まさかお返しをいただけるなんて思っていなかった。先月のあれは日頃お世話になっている皆への感謝の気持ちのつもりだったし、それすらゆきのさんが声を掛けてくれなければ忘れかけていたところだったんだから。お返しなんて貰ってしまうと、うれしくてうれしくて、どうしていいのかわからなくなる。ゆきのさんもお返しを貰ったのかな、なんてうれしさの中で考える。
 白い箱を受け取る手が震えてしまった。取り落とさないよう両手でしっかりいただくと、箱の上部に貼られた製造シールが見えた。洋生菓子、要冷蔵、お早めにお召し上がりくださいと添えられている。食いしん坊なもので、もう中身に察しがついてしまった。
「開けてみてもいいぞ」
 にやにや笑いを噛み殺すような顔をしている主任。私も幸せを噛み締めながら、慎重に箱の蓋を開いてみる。
 途端、ふわっといい香りがした。洋酒とカスタードと苺の香り。
「わあ……!」
 現われたのはタルトフレーズだ。一人分にはちょうどいい四号サイズ。ずらりと並んだ赤い苺にはうっすら粉糖が振りかけられていて、見るからに大変美味しそうだった。
「お前は疲れてる時でもケーキは入るって話だったからな」
 主任はにやにやしている。噛み殺すのは止めたみたいだ。そういえばそんな話もしていたっけと、去年のことを思い出してみる。
「日持ちはしないから、他の菓子を差し置いて真っ先に食えよ。そして体力つけて、今年度を乗り切れ」
「はいっ」
 力一杯頷いておく。残り僅かな今年度、このタルトと皆の気持ちを無駄にしない為にも、しっかり働いて乗り切らなくちゃいけない。頑張ろう。そして家に帰ったら、しっかり食べよう。
「早速、晩ご飯の後に食べようと思います!」
 私が言うと、主任はなぜか眉間に皺を寄せた。
「あ? 何だって?」
「ですから、今夜のデザートにしようと……」
「夕飯食べてから更に食うのか。お前、よくそんなに入るな」
 感心しているらしい主任の言葉に、営業課のあちらこちらから笑い声が沸き起こる。私としては、皆はどうして食べられないのかなって不思議にも思うんだけどなあ。社会人は身体が資本、よく食べることだって肝要だ。そしてケーキはいつだって別腹なのです。
「まあ、気に入ってもらえたならいい」
 主任がそこで私の肩を叩いた。得意そうな笑みを浮かべて言い添えてくる。
「このケーキは俺が買ってきたんだ。なかなかの見立てだろ」
「そうなんですか? 大好きなんです、苺のケーキ」
「だろうと思ったよ。苺は前にも、美味そうに食べてたもんな」
 つくづく石田主任は記憶力がいい。そんなことを覚えていてくれるなんて、うれしくもあるし、ちょっと照れたくもなる。もっともこの点に関しては私も一緒なのかもしれないけど、お互いに相手のことをよく見ていて、覚えていたというのが何だかすごく、いい。
 タルトフレーズの箱を手に、私はそっとはにかんだ。主任もどことなくうれしそうにしている。
 そんな時だった。
「先輩一人の手柄にされてるみたいで、何となく気に食わないです」
 ぼそりと呟いたのは、机に向かっていた霧島さんだ。
 すかさずそちらへ振り向いた主任が、眉を顰めて噛み付く。
「俺の手柄だろ? このケーキを選んできたのは俺だ」
 噛み付かれたところで黙り込むような霧島さんでもないのは、いつもの通り。
「出資したのは皆ですよ。俺だって名を連ねてるんです」
「このケーキを選んだからこそ、小坂にも喜んでもらえたんだからな。俺の功績は称えられるべきだ」
「だからって今、先輩が小坂さんの笑顔を独り占めしているのは納得いきません」
 主任と霧島さんがいつものように言い合いを始めると、営業課にはさっき以上の笑い声が広がっていく。私も若干の戸惑いは覚えつつ、お二人の仲の良さは微笑ましいなと思ってしまう。言ったところで二人とも、揃って認めはしないんだろうけど。
「いいだろ別に。お前はお前で、皆で金を出し合ったケーキを持って帰って、奥さんの笑顔を独り占めするんだから」
 指摘する主任。
 たちまち霧島さんは慌てふためいて、
「それは……だって、渡してくれって頼まれてるからですよ! 俺は手柄を独り占めしようなんて思ってないですし!」
「なら俺だってそうだよ。皆が俺を適任だと推してくれたから、こうして小坂にケーキを手渡す役目も仰せつかったのであってな」
「先輩が皆に譲らせたんじゃないですか? 他の人が渡すとなると妬くから」
「馬鹿言うな、妬くくらいならそもそもバレンタインデーなんてスルーさせてるっての」
 だんだんと聞いているだけで恥ずかしい会話内容になってきたので、その隙に私は、他の皆へお礼を言って回ることにした。皆からは冷やかすような視線も向けられたけど、お礼もちゃんと受け取ってもらえた。ケーキは冷蔵庫にしまっておいて、それから自分の机へと戻る。
 その頃にはもう主任と霧島さんの言い合いも一段落ついていて、霧島さんは真っ赤な顔で書類を熟読し始め、主任はどことなく勝ち誇った顔で席に着いている。笑い声はまだそこかしこに残っていたけど、そのうちに収束するだろう。いつも通りの営業課の風景。
 それにしても――やっぱり、元気のないようには見えないな。
 安井課長の言葉を疑うつもりはないものの、私には主任の元気のなさ、浮かないそぶりが見て取れなかった。よく喋るし、よく笑っていたし、実にいつも通りの姿に見えた。むしろいつもよりも浮かれてさえいたようだったけど、それは今のやり取りの直後だからかもしれない。私の持ち帰ってきたホワイトデーのお返しに、面と向かってやきもちを焼いてくるようなこともなかったし、他の要因から元気を失くすということも考えつかなかった。

 私はその後も、主任の様子をちょこちょこ観察していた。
 年度末だけあって何かと慌しそうではあったけど、主任はしっかり仕事をこなしている。てきぱきといつでも手早いので羨ましくもなる。そういう時の表情は凛々しく引き締まっていて、いつもの笑顔もいいけど、勤務中の顔も素敵だな、と場違いなことを考えてしまう。ともあれ、私はそこにも懸念材料を見つけられなかった。
 忙しいせいだろうか。主任、と誰かから声を掛けられた時は、少し険しい表情も見せていたけど――でもそれも、年度末だからじゃないかなと思う。忙しいから、いつも元気な主任でもどうしようもなくお疲れの時があって、安井課長はたまたまそういうそぶりを見かけて、気になってしまったのかもしれない。
 だったら私も、出来る限り気遣いたいな。頑張っている主任を、明日お会いした時には少しでも労えたらいいなって。そうしたらきっと安井課長だって安心してくれるはずだ。
 課長は私を信頼して、主任のことを話してくれたのだと思う。その信頼に報いるべく、私もしっかり、頑張ろうっと。
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