Tiny garden

主任とルーキー、大団円(1)

 月日が経つのは早いものだ。ぼやぼやしているうち、いつの間にやら三月十二日になっていた。
 二月十二日がビジネス的バレンタインデーだとしたら、三月の今日はビジネス的ホワイトデーだった。得意先回りであちらこちらからお返しをいただいた時に気付いた。バレンタインとは違って、直接自分が何かをする日ではないから忘れかけていた。十三日の土曜日は既に予定が入っているのに、私は相変わらずうっかりしている。

 三月にこういう日があるのって不思議な縁を感じる。期せずして私は一年間の仕事に思いを巡らせていた。
 営業デビューの日に忘れ物をしてしまったあの会社とは、今でも取引がある。携帯電話を忘れていったことはすっかり笑い話となっていて、顔を合わせる度に言われている。私は恥ずかしく思いつつも、話の取っ掛かりが出来たのはよかったかな、とも思っている。……もちろん、もう二度と忘れ物はしないつもりでいるけど。今日は忘れていかないでね、とクッキーをいただいたから、それもちゃんと持ち帰った。
 以前、すき焼き店での飲み会に招いてくださった会社へも、しょっちゅう仕事でお邪魔している。会う度に水割りの件について言われている。私はあれからも何度か練習していたけど、やっぱり水割りを美味しいとは思えていない。また飲みに行こうと誘われているから、次は自分のペースでお酒を飲む練習をしようかなと考えているところだ。そこの課長さんからはマシュマロをいただいた。チョコレートをくれたのは例の姪御さんと私だけだったそうで、何がいいのかわからなくて同じお返しを用意したのだとか。こういうのも、うれしい繋がりだ。
 他の会社でもたくさんのお返しをいただいた。ビジネス的チョコレートだからお返しを貰うことは期待していなかったのに、私が立てた予算以上にいただいてしまったような気がする。私も大急ぎで焼き菓子の詰め合わせを購入して、チョコレートをくれた窓口のお姉さんにお返しした。お姉さんも期待していなかったのか、びっくりされつつも喜んでもらえた。うれしかった。
 一年の間にいろんなことがあって、いろんな人と出会って、たくさんのことを学んだ。ルーキーの私もあともう少しでおしまい。入社したばかりの頃から比べても確実に成長している、はず。
 もっとも、今日はまだ十二日。来年度まではまだ日があるし、今日だってまだ仕事がある。振り返るのも気が早いかな。

 そんなこんなで帰社する頃には鞄もぱんぱん、紙袋を二つも後部座席に積んだ状態だった。しばらくはお茶請けに困らないし、家族にもいいお土産が出来たみたい。――でも食べる前に来年の為、どこのどなたから貰ったかをちゃんと控えておかなくちゃ。
 地下駐車場で社用車から降りた時、別の車が場内へと滑り込んできた。端の方で停まったその車から現われたのは、
「あれ、小坂さん?」
「安井課長!」
 人事課の安井課長だ。私が声を上げると、ドアを閉めてからすかさず駆け寄ってきた。手には近くのお菓子屋さんの紙袋を提げている。
「課長もホワイトデーですか」
 私も紙袋を二つ持っていたので、思い当たって尋ねてみた。
 課長は苦笑気味に答える。
「そう。年度末で用意する暇もなくてな。昼休みに急いで買ってきたところ。……小坂さんは外回りからの戻りか?」
「はい」
 頷けば、課長は私の傍らで足を止める。私の手元を見て、また苦笑する。
「君は君で大収穫だな。重くない? 営業課まで持っていこうか?」
「いえ、平気です。お気遣いありがとうございます!」
 重くない訳でもなかったけど、ありがたいいただきものだから大切にしたい。何だかんだでビジネス的ホワイトデーも好きになりかけている自分がいた。芝居がかった言い方をすると、絆って感じがするから。
 それにしても安井課長は優しい。私の周囲は本当に優しい人だらけで、恵まれた一年間だった。うきうきとエレベーターへ歩き出した私に、並んで歩き始めた課長が、不意に言った。
「ところで、小坂さんは俺にチョコをくれなかったな」
「――あっ。そ、そういえば」
 はっとする。
 営業課宛てのチョコレートさえ、ゆきのさんに言われるまで忘れていたくらいだ。私のすっとこどっこいな頭からはあっさり抜け落ちてしまっていた。安井課長にだっていつも気遣ってもらっているし、この一年で何度もお世話になったのに。
「俺はてっきり貰えるものだと思ってたよ。石田の目を盗んで持ってきてくれるのをずっと待っていたのに」
 主任の名前が口にされると心臓が跳ねたけど、今はそんな場合でもない。ちっとも思いつかなかったことが悔しいというか、不甲斐ない。絆を早速疎かにしまくりだ。
 私は正直に詫びた。
「すみません、あの、忘れていました……」
「忘れてたのか? 寂しいな」
 課長は本当に寂しそうな顔つきをしている。エレベーターホールの明かりが差す横顔は、なかなか下りてこないランプをじっと見つめ、拗ねたように続けてきた。
「彼氏のことで頭が一杯で、俺のことは考えもしなかったって?」
「わあ、ごめんなさい! 来年は忘れないようにしますっ!」
 地下駐車場には謝罪の声だってよく響く。直後、課長が笑い出したのも賑やかに聞こえた。
「こっちこそごめん。からかってみただけだ」
「あ……ええと」
 からかわれていた、という事実にもとっさに反応出来ずにいたら、一層笑われてしまった。
「ごめんな、冗談だよ。小坂さんから貰ったりしたらそれこそ石田が黙ってないだろうし、気にしないでくれ」
 課長の言い方が本当にからかうようだったので、私はより反応に困る。石田主任が多少やきもち焼きなのは知っている。安井課長が相手なら怒るまではしないだろうけど、確かに黙ってないだろうな。
「来年も、気にしなくていいよ」
 私の内心を読み当てたみたいに、課長が言った。
「よろしいんですか? あの、お世話になってますから、お礼の意味で……」
「いいよ。来年の君も石田のフォローに忙しいだろうしな。今年だってあいつ、君のことでやきもち焼いてたんだろ?」
「……えっと」
 どうしてご存知なんだろう。気恥ずかしさから答えに窮してしまう。
 ちょうどその時、エレベーターが来た。課長は素早く先に乗り込み、私の為にパネルを操作して、ドアを開けておいてくれた。両手が塞がっていたので大変助かった。
「ありがとうございます、課長」
「うん」
 課長が顎を引くと、エレベーターのドアも閉まる。ゆっくりと上昇が始まる。
 会話も続いた。
「石田がこの間から妙に元気ないようなのも、きっとそのせいだな」
「主任が、ですか?」
 言われて私は怪訝に思う。
 ここ最近の主任の顔だって、恥ずかしさはありつつも、ちゃんと見てきたつもりでいる。だけど元気がないという印象はなかった。勤務中はいつも『優しくて立派な主任さん』だし、勤務時間外は――まあ、うん、ふ、普通じゃないかなあ?
 とにかく、ここ最近で体調を崩したという話も聞かないし、元気がないと言われると、そうだっけと首を捻りたくなる。
 だけど課長は頷く。
「ああ。先月の末くらいからかな、勤務中に見かけると、よく浮かない顔をしてたんだよ。どうしたのかと思ってたけど、君の様子を見たらよくわかった」
 私の荷物に目をやって、意味ありげに微笑んでいる。
「もてる彼女を持つと何かと心配なんだろうな」
「そ、そんな、別にもててるとかじゃないですよ。これは営業先でいただいてきたものですし」
 手を振ろうと思ったけど、あいにく両手が塞がっていた。代わりにかぶりを振っておく。ホワイトデーのお返しだってビジネス的なそれだから、もてている訳ではない。
 だけど課長もまた首を横に振る。
「営業って、人に好かれなきゃどうにもならない仕事だからな。いかにいい商品を携えてっても、相手に嫌われてちゃ話すら聞いてもらえない」
 そしてもう一度、私の荷物に視線を定めた。
「だから今日の君の収穫は、そのまま君の頑張りの成果ってことだ」
 私も提げていた紙袋を見下ろす。ずしりと重い。振り返るのは気が早いとわかっていても、振り返りたくなる。
 うれしい気持ちでお礼を言った。
「ありがとうございます、課長」
「うん」
 安井課長がにっこりした時、エレベーターが停まった。降りる時もドアを開けておいてくださったので、もう一度感謝を述べる。
「ご一緒してくださって、とっても助かりました」
「お役に立てて光栄だよ」
 そう言ってから課長は、声のトーンを落として続ける。
「ただな、小坂さん。営業は人に好かれて、売り込んで終わりって訳じゃない。アフターフォローも大事だからな、それは忘れないように」
「はい。お言葉、心に留めておきます!」
 先輩からのありがたいご助言を噛み締めようとした時、課長は俄かに苦笑した。更に低い声で言い添えてくる。
「ああ、そうじゃなくて――彼氏の話、だ」
「え?」
 彼氏。アフターフォロー。
 その二つの単語がなかなか結びつかない。考え込んでいれば更に言われた。
「明日、土曜日の予定はもう聞いてた?」
「はい。霧島さんのおうちにお邪魔するんでしたよね」
 三月十三日は、霧島さんとゆきのさんの新居にお招きいただいていた。今回はお酒の出る席とのこと。すごく楽しみだった。
「明日は是非、あいつを元気にしてから連れてきて欲しい」
 人通りのある廊下。課長は私に、そう囁いた。
「そんなに心配はしてないけど、――頼んだよ、小坂さん」
 そして、ぽかんとしている私に手を振ると、お菓子屋さんの紙袋を手に廊下をすたすた歩いていく。後ろ姿はいつものように大変姿勢が良かった。

 私もそこまで言われれば、『アフターフォロー』が何を指すのかは概ね把握出来た。
 だけど、
「元気、なかったかな……?」
 実のところその点については、思い当たる節がさほどなかった。
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