Tiny garden

主任とルーキー、大団円(3)

 年度末の慌しさは休日の過ごし方にも波及していた。
 先月のバレンタインデー以来、お休みの日に主任と会うのは初めてだった。あの日以降も、退勤後に『たまたま』車で送っていただいたことも何度かあったし、メールや電話でのやり取りは普通にしていた。顔を合わせるだけならほぼ毎日会っている。でも、私服で会うのはあの日以来だったから、出かける前から既に面映さで一杯だった。

 待ち合わせは駅のコンコース。時刻は奇しくも一ヶ月前と同じ、午後四時を回った頃。
 三月十三日の夕暮れは一ヶ月前よりも遅く、駅の窓越しに見た空は春先らしい、青の透けた花曇。桜の時期にはまだもうちょっと早いけど、ドアが開く度に構内へ吹き込む風は、ほのかに土や緑の匂いがしていた。
 主任は私より数分遅れてやってきた。コンコースに立つ私を見つけると、どことなく悔しそうな、それでいて済まなそうな顔もしてみせた。
「悪い、遅れた」
 待ち合わせ時刻は午後四時半で、まだ三十分も早い。なのに謝られてしまったから、大急ぎでかぶりを振る。
「いえ、私が勝手に早く来ただけですから。それに待ったのも、ほんのちょっとです」
「どのくらい前から来てた?」
 風が強かったせいだろうか、主任の髪は少し乱れていた。でも直そうと、手を伸ばせるほどの勇気はない。代わりに大きな手がそれを、無造作にかき上げる。
「三、四分ってところです。ですから、大丈夫です」
「そうか。それならよかった」
 心底ほっとした様子の主任。
「俺もこころもち早めに出てきたんだがな。まさかお前が先に来てるとは思わなかった」
「すみません」
 私は恥じ入りながら答える。
「何となくそわそわしちゃって、早く来ちゃったんです。主任にお会いするの、久し振りですから」
「会うだけなら毎日のように会ってるだろ」
「そうなんですけど……私服でお会いするのは久し振りです」
 からかう物言いをされたから、私の方もどことなく、拗ねるような口調になってしまう。確かに会うだけなら昨日だって会った。昨日のビジネス的ホワイトデーではケーキもいただいた。美味しかった。
「休みの日に会いたかったか?」
 私服の主任は、勤務中よりも意地悪かもしれない。駅のコンコースでそんなことを聞かれても答えにくい。だからと言って嘘もつけない。
 頷いた。
「……はい」
 そのまま俯いていたら、軽く笑われた。
「だから言ったろ。忙しくても、お前が泊まりに来てくれたら一緒にいられるって」
「そ、それはその、うかがいましたけど」
 たちまち頬が火照ってくる。
 一ヶ月前にあったことは、未だに思い出すだけで恥ずかしくて堪らなかった。そんな私に気を遣ってくれたのか、主任の方も直截的にあの日の出来事を口にしようとはしてこなかった。ただ、今みたいに匂わせるような言い方はよくされている。それだけでも十分居た堪れなくなる。
 お互いに仕事を持ち帰る機会も増えた年度末。忙しいからとデートの約束はしてこなかったけど、何度か冗談めかした誘いは貰っていた。――会いたくなったらいつでも泊まりに来ればいい、そんな風に言われて、だけど直ちに首肯出来ない辺りが私の未熟さでもあり、意気地のなさでもあるのだと思う。不甲斐なくもじもじしたままでいても、何も変わらないとわかっているんだけど。嫌じゃないって気持ちだけはちゃんと持っているくせに。
 二月十三日は、その証明をしてみせた日でもあった。前に進めば様々なことが変わっていくのだと知った日だった。あともう一歩、私も前に進めたらいいのにな。
「俺はいつでもいいんだがな」
 俯く私の顔を覗き込んでくる主任。つり上がった形のいい目が笑んでいる。
「今からでもいいぞ。霧島には断りの連絡を入れて、このままお前を連れ帰っても」
「だ、駄目ですよ。霧島さんたち、せっかく待っててくれてるんですから!」
「何だ、藍子。俺といるよりもあいつらといる方がいいって言うのか」
 名前で呼ばれているのもあの日以来だ。不思議なことに、あの日よりも今の方がずっと、呼ばれてどきどきしてしまう。
「そういうことじゃなくてです。あの、からかわないでください」
 言い返すと、主任はなぜかうれしそうに笑う。
「俺はお前をからかうのが好きなんだ」
「……薄々、そうかなって気がしてました」
「今日はもう思う存分お前を構い倒してやるからな。覚悟してろよ」
 もしかすると主任だって、今日が楽しみでしょうがないのかもしれない。お休みの日に私に会えたのがうれしかったのかもしれない。今の浮かれようを見ていて、何となくそう思った。

 霧島さんとゆきのさんの新居は、ここから五駅先にあるらしい。今日はお二人と安井課長、それに私たちで飲み会をする予定だった。あと、結婚式の映像の上映会をするのだとか――いい式だったから観るのがすごく楽しみ。
 切符を買って、改札を抜け、ちょうどやってきた電車に乗り込む。土曜の夕方はまだ空いていて、私と主任は並んで座った。
 座った直後、手を握られた。ひんやりした大きな手の感触。どきっとする私の顔を、主任はどことなく満足そうに見てくる。
「今日の服もいいな」
「そ、そうですか? うれしいです」
「春っぽい感じがする。そういう色も似合うな、藍子」
「ありがとうございます、主任」
 お礼を言ったら、意外にもくすぐったそうな顔をされた。
 三月の日中は陽が出ていれば暖かい。上着を薄くするくらいならいいかなと思って、スプリングコートを着てきた。明るい、きれいなピンクのコート。夜はまだ冷え込むかもしれないけど、今日はお酒も入るし、そんなに寒さは感じないはず。
 一方の主任も、もう冬の装いではなかった。薄手のパーカーの上にジャケットを羽織っている。私服姿の時はちょっと可愛くも見えるし、だけど格好いい人は何を着ても素敵だなと思う。
 思うだけじゃなくて、勇気を振り絞って言ってみる。
「主任も素敵です。……あの、いつも、そうですけど」
「言い過ぎだ。止めろよ、照れるから」
 一層くすぐったそうにした主任が肩をぶつけてきた拍子、電車が動き出した。
 窓の外、線路沿いの街並みが流れていく。連なる電線は折れ線グラフみたいに細かく上下を繰り返している。差し込んでくる春の光は床の上、揺れながら時折ちかちか瞬く。
 繋いだ手が温かい。さっきぶつけられた肩も、まだ触れ合っていて、温かい。
 座席に寄り掛かるようにして視線を上げれば、主任もちょうど私を見下ろしていた。目が合うと、にやっとされる。昨日の勤務の疲れなんて感じられない、うれしさが溢れている笑顔。
 私もぎくしゃく笑い返しつつ、尋ねてみた。
「主任、お疲れじゃないですか」
「いいや、別に。今日はまだ会ったばかりだぞ」
「年度末ですし、昨日もお忙しかったみたいですから、どうかなって」
「それは慣れた。もう八年目だからな」
 言い切る口調は頼もしい。私も八年目を迎える頃、そう言えるようになっているだろうか。なれたらいいな。
 それから私は少し迷って、おずおずと語を継いだ。
「実は……その、安井課長からうかがっていたんです」
「何を?」
 課長の名前を出した途端、主任がしかめっつらになる。わかりやすい変化はもちろん、親しみから来るものなんだろう。
「主任が、元気がないようだって」
「俺がか? いや、元気ないって言うか……」
「言われて私も、とっさには思い当たることもなかったんですけど、もしかしたら年度末だからかなって思ったんです」
 はっきり、疲れている様子を認めた訳ではなかった。でも理由として最も説得力があるのはそれかなと考えている。疲れていたから、浮かない顔つきに見えてしまったんじゃないか、と。
 私の問いに、主任は複雑そうな面持ちでいる。揺れる電車の中、下ろした前髪も微かに揺れている。
「疲れてない訳じゃないが、それとは違う理由だろうな」
 やがて、そう答えてきた。私の顔を目の端で見ながら。
「違う理由……?」
「ああ。いろいろ、考えてることがあって、だから安井には元気のないように見えたんだろう。心当たりはある」
 主任は言ってから、ふと苦笑いを浮かべた。
「あいつも大概お節介だよな。そんなこと、わざわざお前の耳に入れなくてもいいのに」
 声も笑いを含んでいたけど、言われた内容には胸がざわめいた。考えていることってなんだろう。主任が元気のないように見えるほど、勤務中にも考えている事柄って?
「あの、差し出がましいようですけど……悩み事、ですか?」
 力になれるなら、なりたい。急き込むような思いで尋ねた。
 すると主任には、僅かに複雑そうな顔をされた。
「悩みってほどでもないな。結構、些細なことだ」
「わ、私でよければ、聞くだけなら出来ますっ」
「そうか?」
 繋いでいた手がその時、ぎゅっと握られた。息が止まりそうなほど強く。
 複雑そうにしていた顔は、意味ありげな笑みへと変わる。
「じゃあ、今日の帰りに話す。素面じゃ到底言えないからな」
 素面では言えない悩み、それって一体どんなことだろう。まだ胸がざわざわしていたけど、向けられた笑みにはどぎまぎもさせられた。そんな場合でもないのに、何を考えているのやらだ。
 ただ、体調を崩した訳ではないようだから、そのことにはほっとしている。良かった、疲れている訳ではなくて。あとは主任の考えていることが、私にどうにか出来ることだったらいいんだけどな。
「藍子」
 思いを巡らせる私の頭上、優しい声が振ってくる。
「そんなに心配しなくてもいい。本当に大したことじゃないから」
「え?」
 顔を上げた時に映ったのは、まだいくらか複雑そうな、だけど奇妙に照れた面持ち。
「聞いたらお前も、何だそんなことか、って思うはずだ」

 本当に、そんなに些細な内容なんだろうか。
 考えてみたところで、どんなことかはちっとも思い当たらないけど――言われたからには帰り道まで待ってみよう。
 それにしても意外。主任みたいにはきはきした人でも、お酒を飲まなきゃ言いにくいことって、あるんだ。
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