Tiny garden

八年目と一年目(3)

 そして迎えた、花火大会当日。
 案の定と言うべきか、むしろ当たり前のようにと言うべきか。その日も営業課一同、揃って残業と相成った。

 残業の際にルーキーが仰せつかるのは、まずお弁当の買い出しだ。
「お弁当の注文取りまーす!」
 私は営業課の皆さん一人一人から、お弁当の注文を取って回る。会社の近くに美味しいお弁当屋さんがあって、そこまで買いに出かけることになっていた。
「主任はどうされますか?」
 石田主任にも尋ねると、迷わず即答された。
「俺? じゃあ焼き魚弁当。あとポテトサラダな」
 やっぱりお魚だ。
 何だかちょっと嬉しくて、私はこっそりにやにやしながらメモを取る。
「焼き魚と、サラダですね。かしこまりました」
 主任はお魚が好きなんだ。これで確定。覚えておこうっと。
「えっと、あと……霧島さんはいかがですか?」
「あ、俺はいいです。要らないです」
「了解です」
 これで全員から聞いたかな。
 承った注文とお名前を照らし合わせつつ検分していれば、
「お前の分も入れるの忘れんなよ」
 石田主任のツッコミに近い声が飛んでくる。
 言われて初めて気づいた。
「わ、うっかり忘れてました。ええと……」
 私はメモの一番下に、『唐揚げ弁当』と書き足した。
「小坂、復唱しろ」
 石田主任の言葉に、私は取ったばかりのメモを読み上げる。
「はいっ。――のり弁当が二つ、カツ丼が一つ、焼き魚弁当が一つ、唐揚げ弁当が一つ、それにポテトサラダが四つと豚汁二つ。以上です!」
 皆の顔を見ながら、注文の品を確かめる。お弁当の数と、お弁当を頼んだ人の数が合っていることを確認する。それから代金の計算をして、皆からお金を集める。なくしたりしないようにきちんと封筒にしまう。
「よし、完璧だな。気を付けて行ってこい」
 主任が私の肩を叩いた。すかさず私も頷く。
「行ってきます!」
 皆に送り出されて、意気揚々とお弁当屋さんへ向かう。

 外はすっかり暮れていて、ビル街にはちらほらと明かりが灯り始めていた。
 八月の空気はじっとりと重く、生暖かい。スーツを着ていると汗が滲んでくる。

 今日は浴衣日和だろうな、とふと思う。
 見上げた空にも雲はなく、花火もきれいに見えるはずだ。
 仕事をしながら花火を見られないのは残念だけど、せめて音だけでも楽しもうかな。私にとって、これからは音だけの花火が八月の風物詩になるのかもしれない。浴衣を着ることがなくなっても、花火を観に行く暇がなくなっても、季節を忘れてしまうことはないだろうな。
 学生時代とは全く違う夏を迎えていた。スーツでいるのはちょっときつい八月。車の中はすぐ蒸し風呂になってしまうから、地獄みたいな季節だと思った。八月への印象はまるで変わってしまったけど、正直、諦めもついていた。社会に出るってそういうことだ、きっと。

 ビルを出てすぐ向かいにあるお弁当屋さんは、ここしばらくでもうおなじみになってしまった。
 お店のおばさんはにこにこしながら私を迎えてくれる。
 初めの頃は、
『一人で全部持っていける?』
 なんて心配もされてしまったけど、今はそんなこともない。私の運搬ぶりを見て、頑張ってるねと誉めてくれる。そういう優しさってうれしい。
 仕事としては、大したことはしてないんだけど、それでもうれしい。
 ほんの些細なことでも、誰かに認めてもらえる度に、もっともっと頑張ろうって気持ちになれる。これも学生時代とは違う感覚だった。

 出来上がったお弁当を両手に提げ、おばさんに見送られて会社へと戻る。
 行きとは違って走れないから、のんびり、ゆっくり歩いていく。
 夏の夜、温い風の匂いだけが学生時代と変わらない。

 七時を過ぎるとエントランスは閉められてしまうので、裏口から出入りする。
 人気のあまりない、静かな社内。がらんとしたエレベーターホールでボタンを押し、少し待つ。エレベーターはなかなか来ない。
 ちらと見上げると、Rのところにランプがついていた。
 ――屋上?
 こんな時間に屋上に、人がいるなんて。もしかして花火を見ようとしている人がいるんだろうか。見えるのかな。屋上なんて入ったことないから、わからないけど。
 そんなことをぼんやり考えていたから、
「お疲れ様です」
 聞き覚えのある声が掛けられた時、ものすごく驚いてしまった。
「あっ、お、お疲れ様です!」
 振り向きざまに答えると、背後に立っていた霧島さんがおかしそうに笑った。
「小坂さん、元気ですね」
「は、はい。お蔭様で!」
「この時期は買い出しも大変でしょう。持ちましょうか?」
 そう言って霧島さんは手を差し出してくれた。
 だけど私は、お気持ちだけをいただいておくことにした。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます!」
 見れば、霧島さんも片手にお弁当袋を提げていた。お弁当屋さんで入れてくれるビニール袋とは違う、布製の袋だ。そういえば、霧島さんはお弁当の注文をしていなかった。ここにいるということは外出していらしたんだろうけど、どちらへ行っていたんだろう。
「霧島さん、お弁当を作っていらしたんですか?」
 手作りなんて、だとしたらすごい。びっくりしながら尋ねれば、眼鏡の奥の瞳がはっとしたように瞠られた。その後で照れ笑いが滲んで、言いにくそうに霧島さんは答えた。
「ええ、まあ、俺が作った訳ではないんですけどね」
 と、いうことは。
 今度は私がはっとする番だった。霧島さんが作ったものじゃないなら、誰かに作ってもらったお弁当ってことになる。手作りのお弁当を用意してくれる人はごく近しい相手に限られるはずだ。

 秘書課の長谷さん。
 笑顔の素敵な受付の方を思い出し、私はなぜか自分のことみたいに照れた。いいなあ。霧島さん、とっても幸せそうに見える。恋人がいるってどういう感じなんだろう。何だか羨ましくもあるし、人様のことでもどきどきする。両立してるって、こういうことなんだろうな。

 目上の人が相手だと、友達相手のようには冷やかせない。とりあえず、さりげなく言ってみた。
「素敵ですね。霧島さん、すごく幸せそうです」
 途端、困ったような笑い方をされた。
「からかわないでください」
「あ、す、すみません! からかったつもりなかったんです。本当にそう見えたっていうだけで」
 言い訳のつもりで答えてみたものの、むしろ余計、からかいの言葉みたいになったような気がする。蛍光灯の明かりの下、霧島さんの頬が少し赤らんで見えた。失礼なことを言っちゃったみたいだ。
「小坂さんにまでそんなことを言われるとは思いませんでした」
 肩を竦めた言葉に、私は慌てて弁解を告げる。
「あの、本当にすみません! 生意気なこと言ってしまって」
「生意気とは思いません」
 言葉とは裏腹に、どこか拗ねたような表情が覗いた。霧島さんでもこういう顔をするんだ、と意外に感じる。
 戸惑う私をよそに、五つ年上の先輩はぽつりと言った。
「思いませんが、それはそれとして、ちょっと仕返しをしたくなります」
「え?」
 仕返しという、温厚な人にはおよそ不似合いな単語。聞き違えたかと尋ね返そうとした時、ちょうどエレベーターが来て、ドアが開いた。
 両手にお弁当を提げている私の為に、霧島さんはボタンを押し続けてくれた。乗り込んだ私が会釈をすると、笑顔の後ろでエレベーターのドアが閉まる。
 ゆっくりと上昇を始めるエレベーターのその中で、不意に言われた。
「小坂さんは、石田先輩とは最近、どうですか」
 胃が浮遊する感覚の傍ら、心臓は重力に逆らってジャンプする。
「――え、ええっ!? な、ど、どうって、どういう意味ですかっ」
 思わず、声が裏返る。聞かれてまずいことなんてそもそも何もないけど、だとしてもうろたえずにはいられなかった。むしろ、主任の名前を聞くだけでうろたえたくなる。重症だった。
 じわっと汗を掻く私を見て、霧島さんはしてやったりという顔をした。
「仕返しです」
「……うっ」
 私は言葉に詰まる。な、なるほど。納得したくないけど、させられてしまった。
 霧島さんも結構、意地悪だ。
「そ……そういうことですか」
「そういうことです。もっとも、本当に仕返しをしたい相手は小坂さんじゃないんですけどね」
 エレベーターが三階で停まる。得意そうな笑顔の後ろで再びドアが開いた。そこで降りたのは私だけで、霧島さんはまだ中にいる。
「降りないんですか?」
 怪訝に思って尋ねると、お弁当袋を軽く持ち上げ、また照れ笑いを浮かべてみせた。
「俺は社員食堂で食べます。このお弁当を先輩に見せたら、間違いなくからかわれますから」
 そうだろうなと私も思う。彼女さんに作ってもらったお弁当なんて、主任にすれば格好のからかいの種だろう。

 石田主任は霧島さんをからかうのが好きみたいだった。
 いや、誰のこともからかっているような気がする。もちろん私も含めて――そういう時だけ、主任は妙に子どもっぽい、やんちゃな少年みたいに見える。
 そして私は、そういう主任も嫌いじゃない。と言うか、こっそり可愛いと思っている。からかわれる立場になるとちょっと、大変だけど。

 そんなことを考えている目の前、エレベーターのドアがゆっくり閉まっていく。
 閉まり切る前に霧島さんが、私に向かって言った。
「だから小坂さん、頑張ってくださいね」
 頑張るって、一体何を? きょとんとした私の耳に、滑り込みセーフのタイミングで言葉の続きが聞こえた。
「俺は先輩を、小坂さんのことでからかえるようになりたいです」

 ――やっぱり意地悪だ、霧島さん。
 エレベーターのドアがしまり、ランプが上昇していく。お蔭で反論や弁解の機会はなかった。私は買ってきたお弁当を両手に提げたまま、一人でまだうろたえ続けていた。
 どうしよう。絶対、顔が真っ赤だ。
 このままで戻ったら、それこそ主任にからかわれそうな気がする。
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